2020年6月5日金曜日

「試練の下での柔和」

キリストを映して より

「そして兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった。」(ピリピ1:14)
 彼の模範によって、クリスチャンたちは、みわざ――その公の活動からはパウロはすでに身をひいていたけれども――の唱道者として、より大きな働きへとかりたてられた。このように使徒のなわめの影響力は大きかった。彼の力と有用さとが断ち切られたように見え、どうみても何もできそうもない時に、パウロは全く自分がしめ出されたようにみえた地からキリストのために、麦束を集めるように魂を集めたのである。
 二年間の捕らわれの身が終わる前にパウロは、「わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかにな」ったと言うことができた(ピリピ1:13)。そして、ピリピ人へあいさつを送った人々の中に、特に「カイザルの家の者たち」がいることをパウロは述べている(ピリピ4:22)。
 忍耐は勇気と同様、勝利するものである。試練の時に忍耐強いことは、事業をなすときの大胆さと同じほど、魂をキリストに導くことができる。死別や苦しみの時に忍耐と快活さをあらわし、平安で穏やかなゆるがない信仰をもって、死そのものにさえも向かうクリスチャンは、忠実に働いて長い一生になし遂げることができる以上のことを、福音のためにすることができる。神のしもべが活動的な働きから後退させられるとき、先を見通すことができないわれわれは、その不可解な摂理を歎くが、そうでなければ決してなされないような働きをなし遂げるために、神は摂理を計画されるのである。
 キリストに従う者は、もはや神や真理のために、公然と積極的に働くことができなくなっても、もう奉仕することも報いをいただくこともできないなどと考えてはならない。キリストの真の証人は、決してその務めを解かれることはない。彼らが健康な時でも病の時でも、生きていようが死んでいようが、神はなお彼らをお用いになる。サタンの悪意によってキリストのしもべたちが迫害され、彼らの積極的な働きが妨げられたとき、また、彼らが投獄されたり、死刑や火刑に処せられたとき、それは真理がより大きな勝利を得るためであった。こうした忠実な者たちが血のあかしを立てるとき、これまで疑いを持ち、半信半疑であった者たちが、キリストの信仰を悟ってキリストのために勇敢に証人台に立った。殉教者たちの灰の中から、神のための豊かな収穫が生じていた。……
 使徒と彼の共労者たちは、……ネロの臣下たちを、キリストを信じる信仰へ悔い改めさせることはむだだと論じ合うこともできたかもしれない。……しかしパウロは、このようなことを理由にしなかった。彼は信仰をもってこれらの魂に福音を紹介した。そして聞いた者たちの中に、なんとしても従おうと決意した者たちがいたのである。障害や危険があるにもかかわらず、彼らは光を受け入れて、その光を他の人々にも輝かすように、神により頼んだのである。(患難から栄光へ下巻156〜158)

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