「われわれもこれと同じである。われわれはむだ話や、悪口や、祈りを怠ることによって、救い主のご臨在を一日失うかもしれない。すると救い主を見つけ出し、失った平安をとりもどすのに何日間も悲しみながら捜さねばならないかも知れないのである。
人々との交際において、われわれはイエスを忘れたり、イエスがわれわれといっしょにおられないことに気がつかずに時をすごしたりすることのないように注意しなければならない。世俗的な事物にに心を奪われて、われわれの永遠のいのちの望みの中心であるイエスを心に思わなくなれば、われわれはイエスと天使たちから離れてしまうのである。救い主にいていただきたいと思わなかったり、救い主のおられないことに気がつかないようなところに、聖天使たちはとどまることができない。クリスチャンと自称している人々の中にしばしば落胆がみられるのはこのためである。
多くの者は宗教的な礼拝に出席し、神のみことばによって生気をとりもどし、慰められる。だが瞑想と目をさまして祈ることとを怠るために、彼らはその祝福を失ってしまい、それを受けた前よりももっと欠乏を感ずる。しばしば彼らは神が自分に対して冷酷であると考える。彼らは過失が自分自身にあるとは考えない。イエスから離れることによって、彼れはイエスの臨在の光をしめ出してしまったのである。
~各時代の希望 過越のおまいり~
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