2021年9月27日月曜日

われわれの心配と恐れは神の聖霊を悲しませる。

 イスラエル人の経験をふりかえってみて、彼らの不信とつぶやきに驚き、自分たちであったら、あんなに忘恩的にはならなかっただろうと思う人たちが多い。しかし、彼らの信仰がちょっとした試みによってためされてさえ、彼らは古代イスラエルと同じように信仰も忍耐も発揮しないのである。苦境に陥ると、彼らは神が彼らを清めるために選ばれた道についてつぶやく。現在の必要は満たされているのに、多くの者は将来のことを神に信頼しようとしないで、貧乏になりはしないか、子供たちが苦しみはしないかと絶えず心配する。ある人たちは、いつも悪いことを予想したり、実際に困難なことがあると、それを大げさに考えたりするので、彼らの目は、感謝しなければならない多くの恵みに対して盲目になっている。彼らは、困難に出会うときに、唯一の力の源であられる神に助けを求めようとしないで、不安とつぶやきの心を起こし、かえって神から離れてしまうのである。 

われわれは、このように不信であってよいだろうか。どうして感謝しなかったり、信頼しなかったりしてよいだろうか。イエスはわれわれの友である。全天はわれわれの幸福に関心を持っている。われわれの心配と恐れは神の聖霊を悲しませる。いらだたせ、疲れさせるだけで、試みに耐える助けとならない心配をしてはならない。われわれの幸福が地上の事物にあるかのように、将来の必要に対する備えを人生の主要事として、神への不信をいだいてはならない。神の民が、心配事にうちひしがれることは、みこころではない。しかし主は、われわれの道になんの危険もないとは言われない。神はご自分の民を罪と悪のこの世から連れ出そうとは言われず、われわれに確実な避け所をさし示される。主は、重荷を負って疲れている者に、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」と招いておられる(マタイ11:28)。自分自身のくびにかけた心配とこの世の苦労というくびきをはずしなさい。そして、「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」(同11:29)。心配事をすべて神にまかせて、神のうちに休みと平安をみいだすことができるのである。「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」(Ⅰペテロ5:7)。  人類のあけぼの 第26章 紅海からシナイへ

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