2021年12月6日月曜日

かたくなな心と罪とがのために失われた恩恵を、神の天使たちが魂にとり戻してくれていることを示す。

「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう」(マタイ54)。この言葉によって、キリストは、悲しむこと自体に罪の不義を取りのぞく力があると教えておられるのではない。主は、見せかけやわざとらしい謙遜を承認されない。イエスが言われた悲しむという言葉は、ふさぎこんだり、悲嘆にくれたりすることではない。われわれは罪のために悲しむが、一方では神の子であるという尊い特権を喜ぶのである。 DA 821.3

 

われわれは、自分の悪い行為によって面白くない結果が自分自身にふりかかるために悲しむことがよくある。しかしこれは悔い改めではない。罪について本当に悲しむことは、聖霊の働きの結果である。みたまは、救い主を軽んじ悲しませた心の忘恩を示し、われわれをくだけた心をもって十字架のもとに行かせる。われわれが罪を犯す度に、イエスは新たな傷を受けられる。自分が刺したイエスを仰ぎ見る時、われわれは、イエスに苦悩を与えた罪について悲しむ。このように悲しむことによって、われわれは、罪を放棄するようになるのである。 

世俗の人々は、この悲しみを一つの弱さと公言するかもしれない。しかしこれこそ、悔い改めた者をたちきることのできないきずなで限りないお方に結びつける力である。それは、かたくなな心と罪とがのために失われた恩恵を、神の天使たちが魂にとり戻してくれていることを示す。悔い改めた者の涙は、聖潔という日光に先立つ雨のしずくにすぎない。この悲しみは、魂の中の生きた泉となる喜びの先ぶれである。「わたしの声に聞き従わなかったことを言いあらわせと、主は言われる。」「わたしは怒りの顔をあなたがたに向けない、わたしはいつくしみ深い者である。」「シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて……さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、 主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる」(エレミヤ31312、イザヤ613)。 各時代の希望 第31章 山上の垂訓


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