第171章
私たちが望むのは福音のみ
兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。(コリントの信徒への手紙一2章1,2節)
私たちは、律法、安息日、人間の性質、再臨などの主題からなる真理の体系を持ち、これに信仰による義認という小さな福音が加わっていると考えがちです。しかし、私たちが宣べ伝えなければならない教義はただ一つであり、それはキリストの福音です。
福音のほかに教えるべきことはないのでしょうか。福音は「救いをもたらす神の力」です(ローマ1:16)。私たちは救いの他に何を望むというのでしょうか。それ以外に何を求めるというのでしょうか。
福音は義をもたらします。神の義とは、神がなさること、神の道です。神と調和するとは、神の道を私たちの道とすることです。福音はこの道を私たちに明らかにします(17節)。それだけでなく、福音は神の道を私たちのうちに実現する神の力です。そして、神の道を述べているのが聖書であり、それは、神の義の宣言である十戒に集約されています(イザ5️1:6,7)。
マタイ6:33で、キリストはこの義が必要な唯一のものであると宣言しています。なぜでしょうか。義は命であり、神の義を持つ者はこの世でも来たるべき世でもすべてを持つからです。
「正しい者は信仰によって生きる」(ローマ1:17)。それ以外に何も必要ないのでしょうか。信仰と行いによるのでしょうか。「御言葉に付け加えようとするな。責められて、偽る者と断罪されることのないように。」(箴言30:6)。正しくあるとは、義であることです。そして、正しい人は正しい行いをします。それが義の実です。しかし、どのようにしてそのような行いをするのでしょうか。信仰によってです。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と書いてあるとおりです(ヨハネ6:28, 29)。
イエス・キリストの信仰による神の義の宣教に付け加えるものは何もありません。安息日や不死など、これらの教義についてはどうでしょうか。私たちに必要な唯一のものは「神の国と神の義」であり(マタイ6:33)、聖書には重要でないものは何もないのですから、これらの教理はすべて、信仰による義の教理に要約された分割線にすぎません。私たちは、これ以外何も宣べ伝えることはできません。なぜなら、これ以外のことは、すべて罪だからです。[1]
注
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