2022年8月20日土曜日

律法の終わり キリス ト (CHRIST THE END OF THE LAW) EJ.ワゴナー 信仰に関する教訓 LESSONS OF FAITH 6章

ローマ人への手紙 10:4に は次のように書いてあ ります。「キ リス トは、すべて信 じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられたのである」。

  この句 の意味 は何かを明らかにする前に、この句が意味してはいないことをはっきりさせておくのがよいと思います。この句はキリストが律法を止めさせたという意味ではありません。そのわけは、(1)キリストご自身が律法に関して、「わたしは廃するためにきたのではない」 と言っておられます (マタイ5:17)。(2)預言者は、主は律法を廃するのではなく「その教えを大いなるものとする」(イザヤ 42:21)と言いました。(3)律法はキリストの心のうちにありました。「その時わたしは言った『見よ、わたしは参ります。書の巻に、わたしのためにしるされています。わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります』 と」(詩40:7、8)。そして(4)律法は神の義であり、その政府の土台であるので、廃されるということは絶対にありえません。(ルカ 16:17参 照)。  

 読者は終わり (end)という言葉が必ずしも終結とか終了を意味するものではない事を知る必要があります。それは、意図、目的、日標という意味あいで使われることがよくあります。Iテモテ 1:5で、同じ著者は、「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標 (end)としている」 と言っています。Iヨハネ 5:3では{神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることであると書いであります。 またパウロ自身、「愛は律法を完成するものである」と言っています(ローマ 13:10)。 この句では両方とも、1テモテ 1:5で使われ「愛 (アガペー )」 という言葉が使われています。ですから、この句の意味することは、戒め(律法)の意図は、それが守られるべきものとなるということです。だれもがこれは自明の事だと認めると思います。 

  しかし、これが律法の究極の意図ではありません。それに続く句の中でパウロは、モーセが律法について言っている言葉を思慮深く引用し、「律法による義を行う人は、その義によって生きる」と述べています。キリストは、かの青年に、「もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」 とおっしゃいました (マタイ 19:17)。 さて、律法は守られるものと意図されていました。別の言い方をすれば、律法は正しい品性を生み出すはずのものでした。律法の約束は、従順な者は生きるということだったことから、律法の究極の意図は、命を与えることだったと言えるかもしれません。そしてこの考えと調和するパウロの言葉があります。それは「いのちに導くべき戒め」(ローマ 7:10)という言葉です。 

  しかし「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」(ローマ3:23)、「罪の支払う報酬は死」(ローマ 6:23)です。 こういうわけで、律法は、品性を完成させ、その結果命を与えるというその意図を達成することが不可能になりました。人が一度律法を破ると、その後従順であっても品性を完全にすることはできません。だから、命に導くべき戒めがかえって死に導いて行くことがわかったのです (ロ ーマ 7:10)。  

 もしわたしたちがここで、 つまり、 律法はその目標を達成できないというところで止まってしまえば、全世界に罪の宣告をし、死を告げなければならなくなります。さて、キリストが人に義と命を保証することがおできになるのをみましょう。わたしたちは 「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(ローマ3124)。 「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」(ローマ 5:1)。 そればかりか、彼はわたしたちに律法を守らせることがおできになります。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らない方を罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(Ⅱ コリント5:21)。 このようにキリストのうちにあって、わたしたちは完全―神の義― とされることが可能なのです。そしてそのことこそが、常に変わりなく律法に従順であることです。  

 また このように書いてあります。「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神は成し遂げて下さった。すなわち、御子を罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。 これは律法の要求が肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである」 (ローマ 8:1~ 4)。  

 律法のできなかった ことは何ですか。律法は、罪を負った魂をひとりも罪の定めから解放することができませんで した。なぜですか。「律法が肉により無力になっている」ためでした。律法に無力な要素があるのではありません。肉が無力なのです。腐った材木でしっかりした柱が作れないのは、立派な道具のせいではありません。律法は人の過去の罪を清 くすることはできなかったし、人を無実にすることはできませんでした。そして哀れな堕落した人間は、肉にあっては律法を守る力がありませんでした。だから神は、「律法の義」が信じる者の生活において成就するようにと、罪の体の様になられたキリストの義を彼らにお与えになります。こうしてキリストは律法の終わりとなられます。  

 だから結論として、律法の意図は、それに従うことにより命を得るはずであったことがわかります。全ての人は罪を犯 して、死に定められました。 しかし、キリストは人の性質をおとりになってご自身の義を、その犠牲を受けいれる者たちにお‐与えになり、ついにキリストを通し律法を行う者として彼らが立つとき、神は彼らに永遠の命をお与えになって最終的な 目標を成就されます。だからわたしたちは、キリストがわたしたちの 「知恵と義とあがない」 とになられたことを感謝してもしすぎることはありえないと繰り返して言うのです。 バイブル・ エコー 1892年 2月 15 Fl

0 件のコメント:

コメントを投稿