わたしたちは、 これらの御言葉、特に終わりの句で述べられていることを文字通りの真理として受けいれてもよいので しょうか。それを受けいれると危険に陥ることはないでしょうか。救いのためには、キリストヘの信仰以上に必要なものはないのでしょうか。最初の質問にわたしたちはイエスと答えます。そして最後の質問にはノーと答えます。また、その確証を聖書に帰します。それは非常に明確なので、言っていることは文字通りの真理以外のものではありえないし、おそれおののいている罪人が頼れるものです。
その証明の一例として ピリピの獄吏の場合を取り上げましょう。パウロとシラスは足かせをかけられた足をものともせず、真夜中に祈り、賛美を歌っていました。すると突然大地震が獄に起 こって、戸が全部開いてしまいました。その獄吏をおののかせたものは、彼の足元で地面が揺れ動くのを感じて生じた当然の怖れや、彼の責任の下にある囚人が逃亡した場合のローマの処罰を思っての心配だけでもありませんでした。彼は使徒たちが宣べ伝えたことを考え、大いなる審判の予告をその地震の衝撃のうちに感じたのでした。そして自分の罪責の重荷におののき、パウロとシラスの前にひれ伏し、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか 」と言いました。答えによくよく注意していただきたいのです。 というのは、 ここで極度の苦悩を覚えた彼は、失われた者へのメッセージを必要としていました。それは一体何であったかを示すのがその答だからです。 苦悩に満ちた獄吏の訴えに対して、パウロは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたは……救われます」 と答えました (使16:30、 31)。 これは、ローマ人に宛てたバウロの手紙から引用した言葉と完全に一致 します。
ある時ユダヤ人がイエスに、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」と尋ねました。 これこそ、まさにわたしたちが知りたいことです。その答えに注意を向けましょう。イエスは「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである_|と お答えになりました (ヨハネ 6:28、29)。 この言葉を黄金の文字で書き、葛藤している全てのクリスチャンの目前にいつ も指し示したらよいのではないでしょうか。矛盾に見えることが一掃されます。わざは必要です、 しかし、信仰がすべてです。 というのは、信仰がわぎをするからです。信仰がいっさいを完成します。信仰なしには何もありません。 問題は、 一般的に人々が信仰について誤った概念を持っていることです。彼らは、信仰というものは単なる同意 (賛成 )であると思っています。だからそれは消極的なことであるにすぎず、積極的なわざがそれにつけ加えられるべきだ と思っています。 しかし、信仰は積極的なのです。また、最も本質的なことであるだけでなく、唯一の真の土台 です。律法は神の義であり (イザヤ 51:6、 7)、わたしたちはそれを求めるように命じられていますが (マタイ 6:33)、 それは信仰によらないでは守ることができません。裁きに耐えることのできるただ一つの義は、「キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づく神からの義」だからです (ピ リピ 3:9)。
ローマ 3:31の パウロの言葉を読みなさい。「すると信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、 それによって律法を確立するのである」。人が神の律法を無効にするというのは、それを廃することではありません。それは不可能だからです。律法は神のみ座のごとくに据え付けられています。人が律法について何と言おうと、 また、 どれほどそれを踏み付けにしたり、拒んだりしようとも、変わることはありません。人が神の律法を無効にし得る唯一の方法は、不服従によって律法がその心に何の影響も及ぼさないようにすることです。こういうわけで、破られた誓いは無効にされていると民数記30:15で 言われているのです。
だから、使徒が、わたしたちは信仰によって律法を無効にはしない と言う時、信仰と不服従とは両立しないと言っているのです。律法を犯す者が どれほど信仰を告白しようとも、彼が律法を犯している者であるという事実は、彼には信仰がないということを示しています。 しかし信仰を有していることは、心の中に律法が確立されることによって示されます。だからその人は、神に対して罪を犯しません。ほんの一瞬たりとも信仰を侮ることのないようにしましょう。
しかし、使徒ヤコブは信仰だけでは人を救うことはできず、行いのない信仰は死んだものだと言つてはいないでしょうか。少し彼の言葉をみてみましょう。非常に多くの人々が、正直な気持ちで、それらの言葉を死んだ律法主義のことだと誤解しています。ヤコブは、行いのない信仰は死んだものだと言っており、それは、たった今引用した事、そこに書かれていたことと完全に一致しています。もし行いのない信仰が死んだものであれば、行いの欠落は信仰の欠落であるからです。死んだものは存在しないからです。 もし人に信仰があれば、行いは必ず現れます。 そして、 その人はどちらをも誇ることはしません。誇りは信仰によって排除されているからです (ローマ 3:27)。 誇ることは、死んだわざに全く頼っている人、あるいはその信仰の告白がうつろなまがいものにすぎないような人々によってなされるだけです。
では、ヤコブ 2:14については どうでしょうか。それは次のように言っています。「わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか 」。 答えは当然、 もちろんできない、です。なぜできないのでしようか。その人には信仰がないからです。 もし人が、信仰があると言っても、彼の悪い歩み方によってその行いを表わすなら、何の益があるでしょうか。偽りの信仰告白をしている人に信仰が何もしないというだけで、信仰の力を侮るべきでしょうか。パウロは、神を知っていると告白するけれどもその行いによって神を否定する人々について語っています (テトス 1:16)。 ヤコブが言及しているのは、このような類の人々についてです。その人に良い行いがない―― 御霊の実がない一という事実は、彼が声を上げて信仰を告白してはいても、実は信仰がないことを示しています。だから、もちろん信仰は彼を救うことはできません。信仰を持たない人を救う力は、信仰にはないからです。
バイブル・ エコー 1890年 8月 1日

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