信仰がなくては神に喜ばれることはできません。このわけは、「信仰によらないことは、罪である」( ローマ 14:23)からで、 もちろん罪は神を喜ばせることはできないからです。
これが、1898 年10月18日レビュウ誌の第1ページに預言の霊によって次のように述べられた理由です。「聖書が信仰を養い育てる必要をわたしたちに力説する際、何を言おうとしているかを知ることは、要求されうる他のどんな知識にもまして重要です」。
そこで、今から、毎号レビュウ誌のこのコーナーで、信仰に関する聖書の教訓―それは何なのか、それはどのように生れるのか、それをどのように活用したらよいのか―を告げましょう。
読者が全員、「要求されうる他のどんな知識にもまさって重要」なこの知識を得られますように。
RH( レビュウ・アンド・ヘラルド ) 1898 年11月29日
聖書が信仰を養い育てることの必要をわたしたちに力説する際、何を言おうとしているかを知るためには、まず初めに信仰とは何かを知ることが大切です。
信仰とは何かについて知的に理解をしていない人に向かって、 信仰を養い育てることの必要性を力説するのは、明らかに的外れに違いありません。そして、主が、聖書の中でこれをよくわかるようにしておられるにもかかわらず、信仰とは何であるか
を知らない教会員が多くいることは悲しい事実です。彼らは信仰の定義が何であるかについては知っているかもしれません。しかし、信仰が何であるかを知らず、その定義にある概念を把握していないのです。
ですから、今、その定義については触れませんが、それよりむしろ信仰の例証―それがたいへん際立っているので、すべての人がまさに信仰そのものを見ることができる実例―をひいて研究しようと思います。信仰は「神の言葉によって」生じます。そうであるなら、わたしたちはみ言葉の中に信仰を探求すべきです。
ある日、ひとりの百卒長がイエスのところにやってきて、「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」と
言いました。イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われました。そこで百卒長は答えて言いました、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただお言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」。
イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」と言われました ( マタイ 8:6 ~ 10) 。
ここにイエスが信仰だと折り紙をつけたものがあります。それは何かを見出せば、わたしたちは信仰を見出したと言えます。
それが何かを知ることは、信仰が何であるかを知ることです。
それに関しては、少しの疑いもあり得ません。なぜなら、キリストは「信仰の導き手(創始者)」であり、そのキリストが、百卒長の表わしたものが「信仰」であった、しかも「これほどの信仰」と言われたからです。
では、このことのどこに信仰があるのでしょうか。その百卒長は、ある事がなされるのを望みました。彼は、主がそれをなされるのを望みました。しかし、主が、「わたしが行こう」、そして、それをしようと言われた時、その百卒長は、「ただお言葉を下さい」そうすればそれがなされるでしょうと言って、イエスをとどめました。
さて、その百卒長は、何が事を成し遂げると期待したのですか―「ただお言葉」。自分の僕のいやしのために、彼は何に依存したのですか―「ただお言葉」。そして、主イエスは、それが信仰であると言われたのでした。
さて、兄弟姉妹方、信仰とは何でしょうか。
R R H 1898 年 12 月 6 日
信仰とは、神のみ言葉によって語られた事が、み言葉そのものによって成し遂げられることを期待することであって、その語られた事の成就についてみ言葉そのものに依存することです。
それが信仰であり、信仰は神のみ言葉によって生じます。そこで、神のみ言葉は、信仰を心に植え付けるために、み言葉の語ることを成就する力がみ言葉そのものの内にあることを教えているに違いないことは明らかです。
そして、それがまさしく信仰の事実なのです。神のみ言葉は、 まさにこのことを教えているのであり、それ以外のことではあ りません。だからこそ、み言葉はfaithful(fu11
of faith)―信仰に満ちた言葉なのです。
聖書の、最初の章の多くの箇所が信仰を教えています。この章には明らかに信仰を教えている鮮明な叙述が6つはあります。 第1節との重要な関連を含めれば7つあります。
信仰について説かれていることは、神のみ言葉そのものが、その言葉の語っていることを成し遂げるのだという教えです。
では聖書の第1章を読みましょう。「はじめに神は天と地とを創造された」。彼はどのようにしてそれらを創造されましたか―「もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた」。
「主が仰せられると、そのようになった」(詩 33:6~9)。神が仰せられる前、それは存在しませんでした。神が仰せられると、「そのようになった」。語られただけで、それが存在しました。
何がそれを存在させたのですか―ただみ言葉です。
やみが淵のおもてにありました。神は、そこに光があるように望まれました。しかし、すべてがやみであった時、どうやって光が存在し得たのですか。再び神は仰せになりました。「そして神は言われた、『光あれ』。すると光があった」。光はどこから生じましたか。語った言葉、それ自体が光を生みだしました。「み言葉が開けると光を放っ」た(詩119:130)。
そこには、大空、大気がありませんでした。神は大空がなくてはならないと望まれました。どのようにしてそれは生みだされましたか―「神は言われた、『おおぞらがあって……』。そのようになった」。「そのようになった」という言い方の別の訳は、「そして、それゆえにそれは生じた」です。何が大空を存在させましたか。何がそれを生じさせたのですか―ただお言葉。神は仰せられると、そのようになりました。語られたみ言葉、それ自体が事物を存在させました。
神は、次に乾いた地があるように望まれました。どのようにしてそれは存在することができましたか。再び神は仰せになりました。「神は言われた、『天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ』。そのようになった」。
さて、そこには植物がありませんでした。どこからそれは生じましたか。再び神は語られました。「そして神は言われた、『地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ』。そのようになった」。また神は語られました、「そして神は言われた、『天のおおぞらに光があって……』。そのようになった」。
さらに神は語られました、「そして神は言われた、『地は、生き物を種類にしたがっていだせ……』。そのようになった」。
このように万物は「主のみ言葉によって」創造されました。神はみ言葉を語られただけでした。するとそのようになりました。語られた言葉自体が物を生みだしたのです。
創造にはそうしたことがありました。また、そのようなことがあがないにもありました。神は病人を癒やし、悪霊を追い出し、
嵐を静め、らい病人を清め、死人を生き返らせ、罪をゆるしました。あらゆることは、み言葉によってなされました。これら一切のことにおいてもまた、「彼は言われた、するとそのようになった」のです。
このように、神はきのうもきょうも、また永遠に変わることがありません。常に創造主であられます。また、神は常に、すべてのことをただみ言葉によってなされます。常に主は、一切のことを、み言葉によってなすことがおできになります。なぜなら、語った言葉そのものによって、語られたことを成就なさるという神聖な力を持っていることが、神のみ言葉の特質そのものだからです。
こういうわけで、信仰とは、神のみ言葉のうちにこの力があるということを知ることであり、み言葉によって語られたことがみ言葉そのものによって成し遂げられることを期待することであって、その語られたことの成就について、み言葉そのものに依存することなのです。
信仰について教えるというのは、このようなことが神のみ言葉の性質であると教えることです。人々に信仰を働かすことを教えるというのは、彼らに、み言葉が語ったことを成し遂げるのをみ言葉に期待し、その語られた事の成就について、み言葉そのものに依存することを教えることです。信仰を養い育てるとは、信仰を実際に働かせて、語った事を成し遂げる神のみ言葉そのものの力に対する確信を育てることであり、み言葉そのものがその語ったことを成し遂げるということへの信頼を育てることです。
そして、「聖書が信仰を養い育てることをわたしたちに力説する際、何を言おうとしているかについて知ることは、要求され得る他のどんな知識にもまして重要です」。
あなたは信仰を養い育てているでしょうか。
R H 1898 年12月27日
信仰とは、神のみ言葉によって語られた事が、み言葉そのものによって成し遂げられることを期待することであって、その語られた事の成就について、み言葉そのものに依存することです。
これがはっきりと認識されれば、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」 ( ヘブ ル 11:1) ということの実体がどのようなものであるかを理解するのはごくたやすいことです。
神のみ言葉には創造力があるので、そのみ言葉が語るところ の実体そのものを生み出すことができます。そして信仰は語られた事がみ言葉そのものによって成し遂げられることを期待することであって、その語られたことの成就について「み言葉のみ」
に依存することですから、信仰とは望んでいる事柄の確信であるというのは容易に理解できるのです。
「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出
てきたのでないことを、悟るのである」 ( ヘブル 11:3) というのは、こういうことです。
信仰を働かす者は、神のみ言葉には創造力があることを知っています。だから、語る事を生み出せるのを知っています。ですから、人は、この世界は神のみ言葉によって生み出され、存在するようになったことを推量するのではなく、悟ることができるのです。
信仰を働かす者は、神のみ言葉が語られる前には、今見えるものもなければ、それらのものを構成している物質もどこにも現れておらず、全く存在していなかったにもかかわらず、神のみ言葉が語られると、世界が存在したこと、すなわちその言葉そのものが存在をひき起こしたことを悟ることができます。
これが神のみ言葉と人の言葉の違いです。人は語ることはできるかも知れませんが、その言葉の中には語ったことを形づくる力はありません。もし人が語ったことを成し遂げねばならないとしたら、その人が語った言葉に加えて何かをしなければなりません。すなわち、彼は言ったことを遂行せねばならないの です。
神のみ言葉はそうではありません。神が語るとそのものが存在するようになります。神が語っただけで、それが存在します。
その言葉が、神が語ったこと、望んだことを成就します。主は、
人のように、語った言葉に加えて何かをする必要がありません。
神はその言葉を遂行する必要がないのです。それは申し分のないものです。神は「ただお言葉を」語られます。すると物事は成就します。
ですから、「これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言葉を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言葉として―事実そのとおりであるが―受けいれてくれたことで
ある。そして、この神の言葉は、信じるあなたがた(信仰を働かせるあなたがた)のうちに働いているのである」 ( テサロニケ I2:13) と書かれているのです。
これはまた、「神は偽ることができない」とはどういうことかでもあります。神が偽ることができないのは、神が偽ろうとし
ないだけではなく、神は偽ることが不可能だからです。神は偽ることがおできになりません。まったくできないのです。不可能なのです。なぜなら、神が語ると、創造的エネルギーがその語ったみ言葉のうちにあるので、「ただその言葉によって」物事をそのようにならせるからです。
人は言葉を語ることはできます。しかし、語ったようにはなりません。こうして人は偽ることができます。なぜなら、そうならないことを語るのは、嘘をつくことだからです。人は嘘をつくことができます。そうではないことを語ることができます。
人の言葉自体のうちには、物を存在させる力はないからです。
神にとって嘘をつくことは不可能です。神は偽ることができません。なぜなら、「神が言われた、するとそのようになった」からであり、神が仰せなるとそのようになるからです。
これはまた、何百年も先についての預言におけるように、ある時のために神のみ言葉が語られると、その時が実際に到来した時、その言葉が成就するのは、どのようにしてなのかということでもあります。それは、その時に成就する神のみ言葉とは別に、神がその成就のために何かをするからではなく、その時のために語られたみ言葉と、そのみ言葉の中に、語った事をその時に生み出す創造エネルギーがあるからです。
これは、もし子供が「ダビデの子にホサナ」と叫ばなければ、
すぐにも石が叫ぶであろうということが、どのようにして起こるのかということでもあり、また三日目が来るとイエスがもは
や死につながれていることはあり得なかったのは、どのようにしてであったのかということでもあります。
ああ、神のみ言葉は神聖です!そのうちには創造エネルギーがあります。それは「生きていて力がある」のです。神のみ言
葉は自己達成するものです。ですから、そのようなものとして神のみ言葉に信頼し、依存すること、それが信仰を働かせることです。 「あなたには信仰があるでしょうか」。 RH 1899 年 1 月 3 日
「聖書が、信仰を養い育てる必要をわたしたちに力説する際、
何を言おうとしているかについて知ることは、要求され得る他のどんな知識にもまして重要です」。
「信仰を養い育てる必要」について「聖書が何を言おうとしているか知ること」であることに注意してください―特に、信仰を持つことではなく、それを「養い育てること」であるという ことに。
聖書では、信仰を養い育てることについて非常に多く言われていますが、わたしたちが信仰を持つことの必要についてはそれほど言われていません。
その理由は、すべての人に、始めるための信仰は与えられているからです。そして彼らがする必要のすべては、信仰を養い育てることなのです。すでに与えられた信仰を養い育てることなくして、誰もすでに与えられている以上の信仰を持つことはできません。そして、それが養い育てられる時に、信仰ほど早く成長するものは知られていません―「信仰は非常に成長するものである」。信仰とは神のみ言葉によって語られた事が、み言葉そのものによって成し遂げられることを期待することです。
そしてその成就について、「ただお言葉」に依存することです。
神のみ言葉の成就のために、「ただお言葉」、神のみ言葉だけに
依存することを養い育てることが、信仰を養い育てることです。
信仰は「神の賜物」です ( エペソ 2:8) 。そして、その賜物がすべての人に与えられているということが、聖書の中に、「神が各自に (すべての人に) 分け与えられた信仰の量りにしたがって」( ローマ 12:3) と明瞭に述べられています。神がすべての人に分け与えられたある量の信仰は、神が、世に生れたすべての人に授けられたものであって、スタートするための資本です。
そしてすべての人には、各自の魂の救いのために、この資本で商いをすること―それを養い育てること―が期待されています。
その資本は、用いられると減るという危険は一切ありません。
それが完全に用いられるなら、必ず増加します。それは大いに成長します。そして、それが成長する時には、必ず主の義、平安、喜びがその魂の完全な救いを保証します。もう一度言います。信仰は神のみ言葉によって生じます。ですから、「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」 ( ローマ 10: 8) と書かれているのです。このように信仰、すなわち他ならぬ信仰の言葉は、すべての人の口に、そして心にあるのです。
これは何を意味するのですか。すなわちこういうことです― 最初、人間二人が園で罪を犯した時、彼らは完全にサタンを信じました。彼らはサタンに自分を完全に与えました。彼らはサタンによって全くの虜にされました。その時、彼らとサタンとの間には完全な同意と平和がありました。しかし、神はそれをそのままにしてはおかれませんでした。神はこの同意を破り、
その平和を損ないました。そして神は、そのことをみ言葉によって成し遂げられました。神はサタンに語って言われました、「わ
たしは恨みをおく、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に」( 創世記 3:15)。
「女のすえとへびのすえとの間に恨みをおき続けることのできる者は、神おひとりだけです。不義の後、人の性質は悪となりました。その時、サタンと堕落した人間との間には平和がありました。もし神の側からの介入がなかったなら、人間は天に敵する同盟を結んだことでしょう。そして彼ら自身の争いの場に、 神に敵する争い以外の何ものも、もたらされなかったことでしょう。堕落天使と堕落した人間との間には、生れながらの恨みはありません。背信により両者共に悪であって、悪が存在するところではどこであろうと、常に神に敵対して連合するのです。 堕落した天使と堕落した人は、親交をもって結びつきます。堕 落天使の狡猾な将軍は、もし天使たちにしたように、人間たちをも反逆に加わるように誘うことができたら、天に敵対して団結するために、彼らが自分の代理者となって、他の人間たちと交信するであろうと計算しました。ひとたび神から離れるや否 や、人にはサタンを恨む力はなくなります。
地上における人とサタンとの間の恨みは、超自然的におかれました。回心させる神の力が人々の心に日毎にもたらされない限り、宗教的なことに心を向ける傾向というようなものはないでしょう。しかし、人はイエス・キリストにある自由な人間であるよりは、むしろサタンの虜であることを選ぶのです。わたしが言うのは、神が恨みをおくのだということです。人がそれをおくことはできません。意志を神の意志に服従させる時に、
人の心と意志が主の側にあるということが、一貫してその人の傾向となることでしょう」 ( 未出版の証 ) 。
神がみ言葉によってすべての人のうちにおかれた、サタンに対するこの恨み、悪への憎しみがひとりひとりの魂に解放を求めさせるのです。そして、その解放はイエス・キリストのうちにのみ見出されます ( ローマ 7:14 ~ 25) 。
だから、ひとりひとりの魂にサタンに対する恨み―イエス・ キリストのうちにのみ見出される解放を求めて、罪を憎む思い ―を植え付ける神のみ言葉、これは人間への信仰の賜物なのです。これが、神がひとりひとりに分け与えられた信仰の量です。
これが、世にあるすべての人の心と口にある「信仰の言葉」です。
これが、「わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、
神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」 ( ローマ 10:8 ~ 10) 。
ですから、あなたは心のうちで、だれが信仰をわたしたちにもたらすために天に上るであろうか、と言ってはなりません。 また、だれが信仰を見つけ出してわたしたちにもたらすために、 底知れぬ所に下るであろうか、と言ってはなりません。なぜなら、 「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある。それが、わたしたちの宣べ伝えている信仰の言葉である」( 申命記 30:11 ~ 14、ローマ 10:6 ~ 8) からです。
そのように言いなさい。そして神が、世にあるすべての人と 同じくあなたにお与えになった信仰を働かせなさい。なぜなら 「信仰をいかにして働かせるかを理解すること、これが福音の科学である」からです。RH 1899 年 1 月 10 日
信仰とは、神のみ言葉によって語られた事が成就するのを、
ただそのみ言葉に依存し、期待することです。
そうであるなら、信仰による義認とは、その成就を、神のみ言葉に依存し、ただそのみ言葉に期待することによる義認です。
信仰による義認は信仰による義です。なぜなら、義認とは義と宣言されることだからです。
信仰は神のみ言葉によって生じます。したがって信仰による義認は、神のみ言葉によって生じる義認です。信仰による義は、
神のみ言葉によって生じる義です。
神のみ言葉は自己達成するものです。なぜなら、すべてのものの創造において、「神は言われた、するとそのようになった」からです。また、神が地上におられた時、荒れ狂う海を静め、
らい病人を清め、病人を癒し、死人をよみがえらせ、罪を許されましたが、これらすべてのことをみ言葉によってなさいました。その時にもやはり、「彼は言われた、するとそのようになった」のです。
さて、創造において、「言われた、するとそのようになった」 時のそのおかた、また、「光あれと言われた、するとそこに光が あった」時のおかた、地上で「ただお言葉」を語り、すると病人が癒やされ、らい病人が清められ、死人がよみがえった時のおかたこの同じおかたが、神の義を信じるすべての者に向かって語られます。
すべて人は罪を犯して、神の義に達することができないにも
かかわらず、なお、わたしたちは、「価なしに、神の恵みにより、
キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
神はこのキリストを立てて、…今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられた」 ( ローマ 3:24、25) 。
はじめに、万物の創造において、神は、万物を存在させるみ言葉を宣言するためにキリストをお立てになりました。キリストは、み言葉を語りました。するとすべてのものが存在しました。 また、再創造であるあがないにおいて、神は義のみ言葉を宣言するためにキリストをお立てになりました。そしてキリストがそのみ言葉を語る時、そのようになります。彼のみ言葉は、創造においても、あがないにおいても同じです。
「この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのではない」( ヘブル 11: 3)。かつて世界は存在しませんでした。また全世界を構成している物質も、何も存在していませんでした。神は、世界と世界を構成するはずの材料を生み出すべきみ言葉を宣言するために
キリストをお立てになりました。
「神は言われた、するとそのようになった」。神が語る前には
世界は存在しませんでした。語った後、世界がそこに存在しま
した。このように、イエス・キリストによって語られた神のみ言葉は、そのみ言葉が語られる前には存在していなかったものを存在させることができます。そしてそれは、み言葉なしには
決して存在することがありませんでした。
人の生命も明らかにこれと同じです。人の生命のうちに義はありません。人のうちに義はありません。そこから彼の生命に現れ得る義はないのです。しかし、神は人のために、そして人に義を宣言するために、キリストをお立てになりました。キリ
ストはみ言葉を語ります。すると人の生命の暗くなった空虚さの中に、受けいれようとするすべての人のための義が存在する
ようになります。そのみ言葉が受けいれられる前には義もなく、
義を生み出すことができるような何ものもなかった所に、み言葉が受けいれられた後には、完全な義と、その義が湧き出てくる泉そのものが存在するようになります。信仰によって受けい
れられた神のみ言葉―その語った事を成就するよう期待され、
その成就にあたって依存されている神のみ言葉―が、以前には何もなかった人のうちに、その生命のうちに義を生み出すので す。それは、もともとの創造において、それ以前にはどのような世界も存在しなかった所に世界を生み出した神のみ言葉と全 く同じです。神が語ると、信じる者すべてにとって、そのようになるのです。それは、受けいれるすべての者にとってそうなるのです。神のみ言葉そのものが、それを生み出します。
「わたしたちは、信仰によって ( ただ神のみ言葉に期待し、依存することにより ) 義とされたのだから、わたしたちの主イエス・ キリストにより、神に対して平和を得ている」 ( ローマ 5:1) 。 ですから、主をほめたたえよ!そして、祝福されたこの事を食べて生きることが、信仰を養い育てることなのです。 RH 1899 年 1 月 17 日
「聖書が信仰を養い育てる必要をわたしたちに力説する際、何を言おうとしているか知ることは、要求され得る他のどんな知識にもまして重要です」。
信仰とは、神のみ言葉によって語られた事がみ言葉そのものによって成し遂げられることを期待することであって、その語られた事の成就について、み言葉そのものに依存することです。
アブラハムはすべての信仰ある人々の父です。ゆえにアブラ
ハムの記録は、信仰についての教訓を与えます―信仰とは何であるのか、また信仰を持つ者に対して、それは何を成し遂げるのか。
では信仰に関して、わたしたちの父アブラハムが見つけたことについて何と言いましょうか。聖書は何と言っているでしょ
うか。
アブラハムが 80 歳を過ぎており、妻サライも年老いて、彼らに子がなかった時、神は「彼を外に連れ出して言われた、『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい』。また、彼に言われた、『あなたの子孫はあのようになるでしょう』」。
そしてアブラハムは「主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」( 創世記 15:5、6)。アブラハムは、神のみ言葉を受け いれて、そのみ言葉に期待しました。そのことに彼の義がありました。
けれども、サライはただ神のみ言葉だけには期待しませんで した。彼女は子孫を持つために、自分の手段に頼りました。彼女は彼に、「主はわたしに子をお授けになりません。どうぞ、わたしのつかえめの所におはいりください。彼女によってわたしは子をもつことになるでしょう」と言いました
( 創世記 16:2) 。 アブラハムはその瞬間、完全無欠な信仰から離れました。 ただ神のみ言葉だけに期待し、依存することを堅持する代りに、 彼は「サライの言葉を聞きいれた」 ( 創世記 16:2) 。
その結果、子供が生れました。しかし、サライにとって、明らかになったことのすべてにあまりにも不満だったので、自分の行った調整を拒否するほどになりました。また、神は子どもが生れたという事実を完全に無視することによって、その事を認めておられないことを示されました。
神は、アブラムの名をアブラハムと変えて、約束の子を通して彼を国民の父とし、アブラハム及びその約束された子と契約を立てるということを語り続けました。神はまたサライの名をサラと変えました。生れた子を通して「国々の民の母」となるべきだったからです。
アブラハムは、生れた子供に対する主の完全な無視に気がついて、「どうかイシマエルがあなたの前に生きながらえますように」と言って主の注意をうながそうとしました。
しかし、「神は言われた、『いや、あなたの妻サラはあなたに男の子を産むでしょう。名をイサクと名づけなさい。わたしは彼と契約を立てて、後の子孫のために永遠の契約としよう。またイシマエルについてはあなたの願いを聞いた。わたしは彼を祝福して多くの子孫を得させ、大いにそれを増すであろう。彼は十二人の君たちを生むであろう。わたしは彼を大いなる国民としよう。しかし、わたしは来年の今ごろサラがあなたに産む
イサクと、わたしの契約を立てるであろう』」( 創世記 17:19 ~ 21)。
これらすべてのことにより、アブラハムとサラは共に、約束を果すことや神のみ言葉の成就において、彼らが応じることは何も無く、ただみ言葉に依存することだけであるということを教えられました。サラは自分の方法はただ困難と矛盾をひき起こし、約束の成就を遅らせたにすぎないことを学びました。アブラハムはサラの言葉を受けいれたことで、神の言われたことを聞き誤ったこと、そして、すべてのもくろみを捨て去って、 再び神のみ言葉のみに立ち返らねばならないことを学びました。
しかし、今は、アブラハム 99 歳、サラ 89 歳でした。そして、 これは神のみ言葉の成就を今までにもまして延期させるように思え、むしろ神のみ言葉に対するいっそう大きな依存、以前に
もまして大きな信仰を呼び起こしました。今では、ただ神のみ
言葉に依存する他に何もできないことは明らかでした。彼らはみ言葉が語ったことの成就に関して、このこと (ただ神のみ言葉に依存すること) に完全に封じ込められました。その語られた事が成就されるにあたって、ただ神のみ言葉に完全に依存しなければならない状況に追い込まれました。
そして今、「ただそのみ言葉」が事を成し遂げるのだということは明らかであり、神のみ言葉が事を効果的に成し遂げ、約束 の「子」が生れました。このようなわけで、「信仰によって」― 無力さを通し、ただ神のみ言葉に対する完全な依存によって― 「サラもまた、年老いていたが、種を宿す力が与えられた。約束をなさったかたは真実であると信じていたからである」 ( ヘブル 11:11) 。
そして「このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、 天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである 」( ヘブル 11:11) 。
このようにして、神が「彼を外に連れ出して……天を仰いで、 星を数えることができるなら、数えてみなさい。……あなたの 子孫はあのようになるでしょう」とアブラハムに語られたみ言 葉は成就しました。 これが信仰についての天の教訓です。そして、これが信仰を 養い育てることを聖書がわたしたちに力説する際、真に言おうとしていることなのです。なぜなら、これがアブラハムに、信仰による義、しかも神の義を与えたからです。
しかし、「『義と認められた』と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわた
したちも、義と認められるのである。主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」 ( ロ - マ 4:23 ~ 25) 。
そして、すべての信仰者は、信仰に満ちたアブラハムと共に祝福されます。自分のわざ、計画、方法、努力をすべて除き捨て去って、全くの無力のうちに、神のみ言葉の成就について、 ただ神のみ言葉だけに依存するすべての者―彼らこそ信仰ある人々であり、忠実なアブラハムと共に神の義をもって祝福されます。
「どのように信仰を働かせるかを理解すること、これが福音の科学である」。そして福音の科学は、科学中の科学です。だれが、
それを知ろうとして全神経を緊張させないでいられるでしょうか。 RH 1899 年 1 月 24 日
アブラハムとサラが、イシマエルの誕生に際してとった、不信仰による手段の一切を自ら捨て去り、信仰のみ―神のみ言葉だけに依存―に立った時、イサク、真の約束の子が生れました。
サラの言葉を聞きいれることで ( 創世記 16:1)、アブラハムは神のみ言葉に対する厳格さ、誠実さ、すなわち真の信仰の厳格さから離れました。そして、ただ神のみ言葉のみという真の信仰に立ち返った今、彼について、彼の信仰が義と認められたとはっきり宣言されるために、試みられねばなりません。
彼はイシマエルよりも神のみ言葉そのものに信頼して、イサクすなわち神の真の約束の子を得ました。そして、イサクを得た今、イサク自身よりも、神のみ言葉そのものに彼が信頼するであろうかという質問に、解答が与えられねばなりません。
したがって、神はアブラハムに、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」と言われました ( 創世記 22:2)。
アブラハムは、ただ神のみ言葉に信頼することによって、神からイサクを授けられました。イサクだけが、神のみ言葉による約束の子でした。イサクが生れた後、神は「イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられる」(創世記 21:12) との宣言によって、そのみ言葉を確認なさいました。そして今、あなたの子、 あなたのひとり子イサクを連れて行って、燔祭としてささげな さい、という神のみ言葉が与えられたのでした。
神は、アブラハムに、あなたの子は天の星のように多くなると宣言されました。「あなたの子孫によって、地のすべての民が祝福される」。「イサクに生れる者があなたの子孫と唱えられる」。 そして、今イサクを燔祭としてささげよとは!
しかし、もしイサクが燔祭としてささげられ、焼き尽くされてしまうなら、彼によってすべての民が祝福されるという約束はどうなるのでしょう。あなたの子は天の星のように数えられ ないほどになるという約束はどうなるのでしょう。しかし、イサクを燔祭としてささげよという、神のみ言葉です。アブラハムはイシマエルよりも、神のみ言葉だけに信頼しました。しかし、 今度のことはイサクそのものより神のみ言葉に信頼するということ、それ以上のことです。それは神のみ言葉に反して、神のみ言葉に信頼することです。
そして、アブラハムは、望み得ないのに望みつつ信じました。 神は言われたのです、あなたの子孫は、天の星のようになる、イサクに生れる者があなたの子孫と呼ばれると。そして、イサクを燔祭としてささげなさいと言われました。アブラハムは、
神は「これらのみ言葉を調和させる」べきであるとは主張しませんでした。彼にとって語られたのはすべて神のみ言葉だったことを知るだけで十分でした。これを知って彼は、そのみ言葉に信頼し、そのみ言葉に従い、必要ならば主に「それらのみ言葉を調和」させていただくか、あるいは「それらのみ言葉を説明」していただこうとしました。
アブラハムは言いました、「神は言われたのだ、イサクを燔祭としてささげよと。わたしはそうしよう。神は言われた、イサクに生れる者があなたの子孫と呼ばれる、そして、あなたの子孫は天の星のように多くなると。わたしはかつて一度、約束に干渉し、自分がした事の一切を除き去るまでは、その成就を見られないようにしてしまった。そして再び神のみ言葉のみに立ち返ったのだった。それから奇跡により、神がイサクを約束の子としてわたしに与えてくださった。今、神は言われる、約束の子、イサクを燔祭としてささげよと。わたしはそうしよう。
最初から奇跡によって神は彼を与えてくださったのだ。奇跡によって神は彼を返してくださることがおできになる。わたしが彼を燔祭としてささげれば、彼は死ぬ。そして彼を返してくださるための唯一の可能な奇跡は、彼を死からよみがえらせることだ。しかし、神は、そのようなことでさえおできになる。そしてそうなさるであろう。なぜなら、神のみ言葉があなたの子孫は天の星のように多くなるであろう、またイサクに生れる者
があなたの子孫と唱えられるであろうと言われたのだから。それにイサクを死からよみがえらせることさえも、神にとっては、
すでになさったこと以上のことではないだろう。なぜなら、わ
たしもサラの体も死人と同様であったのに、神は、わたしたちから子としてイサクを生れさせたのだから。神は、死人からイ
サクを復活させることがおできになるし、そうなさるであろう。
主をほめよ!」。
彼は決心し、起きて、僕たちとイサクを連れて、「神が示された所」に向かって三日の旅に出かけました。そして、三日目に、彼は「はるかにその場所を見た」。「アブラハムは、若者たちに言った、『あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは、向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます』」( 創世記 22:5)。だれが行くのですか―「わたしとわらべは行きます」。そして、だれが帰ってくるのですか―「わ たしとわらべは行って……あなたがたの所に帰ってきます」。アブラハムは、イサクと共に行くのと同じくらい確実に、彼と共に帰ってくるつもりでした。
アブラハムは、イサクを燔祭としてささげるつもりでした。 それからイサクが灰からよみがえるのを見て、彼と共に帰ってくるつもりでした。なぜなら、イサクに生れる者があなたの子孫と呼ばれるであろう、また、あなたの子孫は天の星のように多くなるであろうという神のみ言葉が先行していたからです。
そして、アブラハムは、そのみ言葉に依り頼みました、決して誤ることのない神のみ言葉に ( へブル 11:17 ~ 19) 。
これが信仰です。「こうして『アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた』という聖書の言葉が成就 し」ました ( ヤコブ 2:23) 。しかし、なおそれ以上に、「『義と認められた』と書いてあるのは、アブラハムのためだけではな く、わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」 ( ローマ 4:23 ~ 25) 。
ただ神のみ言葉に信頼すること、ただ神のみ言葉に依存すること、神のみ言葉に反してさえも神のみ言葉に依存すること― これが信仰です。これが神の義をもたらす信仰です。
これが信仰を働かせることとは何であるかということです。
これが「聖書がわたしたちに信仰を養い育てることを力説する際、言おうとしていること」なのです。また、「信仰をいかに働かせるかを理解すること」、これが福音の科学です。そして福音の科学は科学中の科学です。 RH 1899 年 1 月 31 日
「働きはなくとも、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである」
( ローマ 4:5) 。
これが、この世にある人はだれでも義人となれる唯一の方法です。まず、彼は、自分が不信心な者であることを認めます。 それから、神が義となさること、不信心な者を義としてくださることを信じて、神の義そのものをもつ義人となります。
世にあるすべての者は不信心です。「不信心」というのは「神のようでない」という意味です。そして、次のように書かれています、「すべての人は罪を犯してしまったため、神の栄光 ( 善、品性を) 受けられなくなっており」( ロ-マ 3:23) と。
ですから、自分は不信心であるという告白の中では、だれもが何事かにおいて、神のようでなかったことがあったと、認めることでしょう。
しかし、本当のところ、あらゆることにおいて、すべての人が神に似た者とはほど遠くなっているのです。なぜなら、「すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない」( ローマ 3:12) からです。
それで、地上には不信心でない者はひとりもおらず、神がその不信心な者を義とされる時、神の側で、義認―義、救い―を地上のすべての人のために、完全に、無償で、確実になさいます。
そして、それを全的に確実にするために、わたしたち自身の側で必要とされる一切のことは、それを受けいれることです― 神は不信心な者である自分を、個人的に、人格的に義となさるということを信じることです。
このように、ある人にとっては奇妙に聞こえるかも知れない
が、義認のための唯一の資格、準備は、人が自分を不信心な者だと認めることです。
さらに、そのような資格を持ち、そのような備えをして、義
を完全に、無償で、確実に得るために、人に求められることの
すべては、自分すなわち不信心な者を神が義としてくださると
信じることです。
多くの人々にとって、自分たちが不信心な者であることを信じたり、認めたりすることは割合たやすいことです。ところが、
神が彼らを義としてくださるということを信じるとなると、彼らの手に負えません。
そして、神が彼らを義とされるということを信じられないただ一つの理由は、自分たちは不信心な者である、とても不信心な者だから、というのです。
もし彼らが自分の内に何かよいものを見出すことができさえすれば、あるいは、
もし彼らが姿勢を正し、より良い行いができさえすれば、彼らを神が義とされるであろうと望む勇気をいくらかは持てるかも知れません。そうです、彼らは行いによって自らを義としようとします。その後で、信仰による義を告白しようというのです。
しかし、それは義認の立脚点をすべて取り去ってしまうだけです。なぜなら、もし人が自分の内によいものを見出すことができるのなら、すでにそれを持っているのであって、それを、
どこか他から必要とすることはないからです。もし、人が自分で自分を正しくし、より良い行いができるなら、どこか他から義認されるなどという必要は何もありません。
ですから、自分はあまりにも不信心な者なので、主がどのようにわたしを義とすることがおできになるかわからない、という言い方には矛盾があります。なぜなら、もしわたしが不信心な者でなければ、わたしは義とされる必要はありません。わたしは義であることになるからです。信心と不信心との間には中間地帯というものはありません。
しかし、義認を望む余地の可能性が見出せないほどの不信心を人が自らの中に見る時、まさに、そこに信仰が入り込むのです。
そこにのみ信仰は入り込むことができるのです。
なぜなら、信仰はただ神のみ言葉に依存することだからです。
何か自分に依存する限り、自分の内に、または自分に関して何かしら依存できる望みの余地がいくらかでも想像できる限り、
そこに信仰はありません。信仰は「ただみ言葉」に対する依存なので、そのようなところに信仰の場所はありません。
しかし、自分の内に、または自分に関して、何であれ、依存できるような一切の望みがなくなってしまう時、そしてそれがなくなってしまったことを認める時、見えるものすべてが義認の望みに反する時、その時にこそ、望み得ないのに望みつつ、
神のみ約束、ただみ言葉に自分をゆだねること、すなわち信仰
が入ってくるのです。そして、信仰によって、人は自分が全く
不信心な者であるにもかかわらず、完全な、無償の義認を見つけ出すのです。
なぜなら、それは次のように永遠に記されているからです。
「働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである」。「イエス・ キリストを信じる信仰による神の義であって」、「神は このキリストを立てて……今までに犯された罪を、ゆ るし……神の義を示すためであった」 ( ローマ 4:5、3: 22、25、26) 。
これが信仰を働かせるとは何かということです。あなたは信仰を働かせているでしょうか。なぜなら、「信仰をどのように働 かせたらよいかを理解すること、これが福音の科学である」からです。 RH 1899 年 2 月 7 日
「わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、
わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して
平和を得ている」 ( ローマ 5:1) 。
信仰は、神のみ言葉によって語られた事の成就について、み 言葉そのものに依存することなので、信仰によって義とされることは、ただそのみ言葉に依存することによって、義とみなさ
れることです。
そして、その言葉は神のみ言葉なので、そのみ言葉への依存 はみ言葉の中の神に依存することを意味します。だから信仰に よる義認は、ただ神への依存によって義とされる義認です。神 が約束されたという理由だけで神に依存することによる義認で す。
わたしたちはみな共に罪人です―罪深く、不信心な者です。
だから、わたしたちはみな神の裁きの対象です ( ローマ 3:9 ~ 19) 。しかしながら、わたしたちすべての者のために、神の裁
きから逃れる道が備えられています。そして、その唯一の道は、
神に信頼することです。
ダビデが民を数えるという罪を犯した結果、いましめのため
に神の裁きを招いた時、主は彼に三年のききんか、敵の前に三
カ月間敗走するか、それとも三日の疫病か、いずれかを選ばせ
ました。しかし、ダビデはそのどれをも選ぼうとはしませんで
した。それをすべて主にまかせて、「主のあわれみは大きいゆえ、
われわれを主の手に陥らせてください」と言いました ( サムエル 記下 24:11 ~ 14) 。
義に関して、神のみ言葉に依存することによって、ただ神に
依存する時、わたしたちは神との平和を得ます。こうしてわた
したちは真に義を得ます。そして、「正義 ( 義 ) は平和を生じ、 正義 ( 義 ) の結ぶ実はとこしえの平安と信頼である」 (
イザヤ 32:17) 。
み言葉に依存してただ神にのみ依り頼む時、義のゆえにわたしたちは主キリストにあって平和を得ます。なぜなら「キリス
トはわたしたちの平和であって、二つのもの」―神と人―を「一 つにし」、「ご自分の肉によって……敵意を除き」、「彼にあって、 二つのもの」―神と人―を「ひとりの新しい人に造りかえて平
和をきたらせ」たからです ( エペソ 2:14、15) 。
さらに、義に関してみ言葉に依存してただ神に依存する時、 わたしたちは主イエスを通して、神との平和を得ます。という のは、神が「その十字架の血によって平和をつくり、万物、す なわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく彼によっ てご自分と和解させて下さった」からです。「あなたがたも、か つては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。 しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおし て、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のな い、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さっ たのである。ただし、あなたがたは……しっかりと信仰にふみ とどまり……」―ただし、あなたがたは、み言葉に依存するこ
とにより、ただ神にのみ依存しつづけるべきです。 ( コロサイ 1: 20 ~ 23) 。
神はこの道をこれほど平らにされ、義認をこれほど完璧にな さいました。そして、すべての者に対する平和をこれほど確実 におつくりになり、だれもがそれを単純に受けいれて、そのこ とに関して神に依存し、それらのすべてを受け取ることを望ん でおられます。にもかかわらず、なぜ地上のすべての魂は、こ のようにして義とされることもせず、また主イエス・キリスト によって神の平和を得ることもしないのでしょうか。
これが「聖書が、わたしたちに信仰を働かせるようにと力説 する際、言おうとしていること」です。あなたは信仰を働かせているでしょうか。あなたは信仰によって義とされているでしょ
うか。あなたには信仰による義があるでしょうか。あなたはイ
エス・キリストによる神との平和を得ているでしょうか。
「神を信じなさい」 ( マルコ 11:22) 。 RH 1899 年 2 月 14 日
信仰とは、神のみ言葉によって語られた事の成就について、 ただみ言葉にのみ完全に依存することです。
ですから、神のみ言葉のない所にはどんな信仰もあり得ない ということを一瞬たりとも忘れてはなりません。
このことがやはり、「信仰は聞くことによるのであり、聞くこ とはキリストの言葉から来る」( ローマ 10:17) という真理のう ちに示されています。このように信仰は実際、神ご自身のみ言
葉そのものによって生じるので、神のみ言葉のない所に信仰は
あり得ないということは全く明らかです。
このことはダビデの生涯における一つの実例によって美しく
あらわされています。ダビデは、主のための家を建てようと心
に思っていたので、主は預言者ナタンによって彼に語って言わ
れました、「主は……『あなたのために家を造る』と仰せられる。 ……あなたの家と王国はわたしの前に長く保つであろう。あな
たの位は長く堅うせられる」。
それでダビデは祈って言いました、
「主なる神よ、今あなたがしもべとしもべの家とにつ
いて語られた言葉を長く堅うして、あなたの言われた
とおりにしてください。そうすれば、あなたの名はと
こしえにあがめられて、『万軍の主はイスラエルの神で
ある』と言われ、あなたのしもべダビデの家は、あな
たの前に堅く立つことができましょう」。
「万軍の主、イスラエルの神よ、あなたはしもべに示
して、『おまえのために家を建てよう』と言われました。
それゆえ、しもべはこの祈をあなたにささげる勇気を
得たのです」。
「主なる神よ、あなたは神にましまし、あなたの言葉 は真実です。あなたはこの良き事をしもべに約束され ました。どうぞ今、しもべの家を祝福し、あなたの前 に長くつづかせてくださるように。主なる神よ、あな たがそれを言われたのです。どうぞあなたの祝福によっ て、しもべの家がながく祝福されますように」
( サムエ ル記下 7:11 ~ 29) 。
彼の祈りは、完全な信仰の祈りです。その祈りは、全くの神
のみ言葉であったからです。神のみ言葉がその祈りをひき起こ
しました。神のみ言葉が、その祈りの基となっており、また、
その祈りが必ず答えられるというダビデの望みのすべても神の
み言葉にありました。
彼は神のみ旨に従って願い求めました。神のみ旨がみ言葉に
表わされていたからです。明らかに述べられた神のみ旨に従っ
て願い求めたので、ダビデは自分の祈りが聞かれたことを知り
ました。そして、祈りが聞かれたことを知って、ダビデは、神
が彼に望んだ嘆願を自分がしたのだということを悟りました (I ヨハネ 5:14) 。そこで彼は、そのようになるようにと言いました。また、そういうわけで、この祈りの答えはダビデにとって確実
であったし、今も確かであり、また永遠に確実なのです。
そして、このことは、どのようにして信仰の祈りをすればよ
いか、また、どのようにして祈りにおける信仰を養い育てれば
よいかということを、わたしたちが学ぶために記されました。
だから、あなたも行って同じようにしなさい。「聖書がわたした
ちに信仰を養い育てるようにと力説する際、何を言おうとして
いるかを知ることは、要求され得る他のどんな知識にもまして
重要である」からです。 RH 1899 年 2 月 21 日
信仰は聞くことによって生じ、聞くことは神のみ言葉により ます。
ですから、神のみ言葉が信仰の唯一の手段です。
だから、神のみ言葉のない所には、どんな信仰もあり得ません。
そして、神のみ言葉がある所では、信仰はそのみ言葉によっ
て語られた事の成就について、み言葉そのものに全的に依存し
ます。
真理であるこれらすべてのことから、人が信仰によって求め る場合、まず、その求める事に関する神のみ言葉を持たねばな らないことは明白です。
そして、その求める事に関する神のみ言葉があれば、人はダ ビデのように心に完全な確信―それは、完全な信仰のうちにのみありますが―を持った祈りをすることができます。
このように祈る者は、神のみこころに従って求めていること
を知ります。なぜならその人は、その事に関する明らかな神の
み言葉が自分のうちにあることを知っているからです。
それだから彼は、神が聞いて下さることがわかっています。
そして、神が聞いて下さることを知って、彼はその求めたもの
をすでに持っていることを知ります。なぜなら、その事に関す
る彼の唯一の望みの根拠は、その事を語った神のみ言葉、その
求めの唯一の根拠であるみ言葉にあるからです。
主はわたしたちがこのような祈りをするようにと望まれます。
また、このようにして、神は、安定した、力強い、継続的な信
仰の成長のための備えとなさいました。
多くの人が祈りますが、彼らは祈っている事を得るのが神の
みこころなのかどうかがわからないでいます。だから、それを
確実に要求できるのか否かがわからないのです。それを要求し
ていいのかどうかわからないので、彼らは皆、その祈りが答え
られるのか、あるいは答えられないのかわからずに途方に暮れ
ます。
主は、人が確信もないままで行動することを望まれません。 だから、神はすベての者を、あらゆる良い行いに、徹底的に備 えるみ言葉をお与えになり、それによって、生命と信心とに係 わる一切のものをお与えになりました。
そして、神がすべての者のために提供しておられるものを、 神のみ言葉のうちに求める者はだれでも、また、そのことのた めに特別に、み言葉によって祈る者はだれでも、このようにして明らかに表現された神のみ旨に従って祈ることを得、祈りが
聞かれることを知り、祈ったものをすでに持っていることを知
ります。
このようにする時に祈りは常に確かなものとなり、生命は神 の直接の生命で満たされ、信仰は確実に強くなり、力を増し加 えていくでしょう。
多くの人が、弟子たちのささげた祈りをもって、「主よ、信仰 を増し加えてください」と祈ります。これは良いことです。し
かし、それと共に、信仰は、神のみ言葉によってのみ生じるこ
とを、決して忘れてはなりません。ですから、あなたの信仰が
増し加わるのと同じ確実さをもって、神のみ言葉があなたのう
ちに増し加わることによってのみ、それは可能となります。さ
らに、神のみ言葉があなたのうちに増し加わることのできる唯
一の方法は、そのみ言葉をあなたが傾聴することです。そのみ
言葉の語ることを主に祈り、その成就のためにみ言葉に完全に
依存し、そして、あなたがそれを受けたことを神に感謝するこ
とによって、そのみ言葉があなたに受けいれられ、あなたのう
ちに生きるようになります。
このように、「主よ、わたしたちの信仰を増し加えてください」
と、祈ることができる一方、同時にわたしたちは、最も神聖な
信仰の上に自らを築き上げるべきであることを覚えていなけれ
ばなりません ( ユダ 20) 。
これが信仰をいかに働かせるかということです。信仰は神の み言葉に対してのみ、また、神のみ言葉によってのみ、働かせ ることができます。なぜなら、神のみ言葉のない所にはどのよ うな信仰もあり得ないからです。
そして、「信仰をいかに働かせたらよいかを理解することは、 福音の科学です」。 RH 1899 年 2 月 28 日
「義人は信仰によって生きる」。
だれが義人でしょうか―彼らこそ信仰ある人々です。人は信 仰によってのみ義とされるからです。
わたしたちすべての者が、「罪を犯したため神の栄光を受けら れなくなって」いるにもかかわらず、「価なしに、神の恵みにより、 キリスト・イエスによるあがないによって義とされる」からで す ( ローマ 3:23、24) 。
「働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払い
として認められる。しかし、働きはなくても、不信心な者を義
とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められる」からで
す ( ローマ 4:4、5) 。
「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだか ら、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和 を得ている」 ( ローマ 5:1)。信仰ある者、彼らだけが地にある 義人たちです。
ところで、信仰とは、み言葉によって語られた事が、み言葉
そのものによって成就されるのだという神のみ言葉への完全な
依存です。「それ ( わが口から出る言葉 ) はわたしの喜ぶところのことをな」す ( イザヤ 55:11) 。
さて、信仰によって義とされるということは、神のみ言葉へ の完全な依存によって義とされることです。義人とは神のみ言 葉を持つ人です。これが、いかにして人は義人となれるのかと いうことです。
人は信仰によって義となるだけではなく、神のみ言葉に依存
する義人とならなければなりません。わたしたちは信仰によっ
て生きなくてはなりません。義人は、彼が義人になるのと全く
同じ方法によって生きます。
わたしたちは信仰によって義人となります。信仰は、神のみ
言葉への完全な依存です。義人であるわたしたちは、わたした
ちが義人となるのと全く同じ方法によって生きなくてはなりま
せん。それは神のみ言葉への完全な依存によるのです。
そして、これこそイエスが、人は「神の口から出るひとつひ
とつの言葉によって生きる」と言われたことです。イエスがそ
のように言われた時、言い換えれば、人は信仰によって生きる
と言われたのは、実に明らかです。
信仰によって生きる、すなわち、ただ神のみ言葉によって生
きること以上に、真に生きる方法は他になく、信仰なくしては、
神のみ言葉なくしては、人は死んだままです。
事実、神のみ言葉なしには、すべての者は死ぬばかりです。
なぜなら、はじめに、すべてのものはみ言葉によって生じたか
らです。神のみ言葉は、すべてのものの根源であり、生命だか
らです。というのも、「神が言われた、そのようになった」から
です。
生物、無生物……一切のもの―太陽、月、星、動物、人―は、 皆その存在を神のみ言葉に依存しています。ただ人の場合に限っ て、神は、そうすべきか否かの選択をする驚くべき賜物をお与 えになりました。この賜物は信仰の扉を開きます。そして、人が、 生きるための唯一の方法である神のみ言葉によって生きること を選ぶ時、信仰―神のみ言葉への完全な依存―が生きる方法を つかむのです。
このように、「義人は信仰によって生き」、「信仰によらないこ
とは罪である」ことがわかります。すなわち義人はただ神のみ
言葉によって生きなければなりません。そして、神のみ言葉に
よらないものは罪です。
「信仰の科学がより良く理解されないうちは、また、信仰がもっ
と働かされないうちは、わたしたちは健全なクリスチャン経験
を持つことができないし、わたしたちに救いをもたらす福音に
従うことはできません」。
「あなたには信仰があるだろうか」。神を信じる信仰を持ちな
さい。ここに、「イエスの信仰」を持ち続ける人々がいます。 RH 1899 年 3 月 7 日
神の義は、信じる者に啓示されます ( ローマ 1:17) 。
信仰とは、神のみ言葉によって語られた事の成就について、
み言葉そのものが成し遂げると期待すること、み言葉への完全な依存です。
それでは人々が、み言葉によって語られた事をみ言葉そのも のが成就すると言って、そのみ言葉に全く依存できるような、 神によって語られた義があるでしょうか。
あります!事実、これこそキリストという賜物の目的そのも のです。彼を、「神は……立てて、……今までに犯された罪を、 神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、 神の義を示すためであった」 ( ローマ 3:25、26) 。
それでは、神が神の義を宣言するため、語るために、キリス トをお立てになったならば、み言葉によって語られた事の成就 について、み言葉そのものに期待し、全く依存できるところの 神のみ言葉が語られたのは、明らかです。言い換えれば、信仰 によって受けることのできる義があるのです。
それでは、このみ言葉はどこで語られましたか。それは、「神 は真実で正しいかたであられるから、その罪をゆるし」(I ヨハネ 1:9)、「あなたはゆるされる」との「ゆるし」のみ言葉のうち
に語られています。
ところで、「ゆるす」ことの意味は何でしょうか。「ゆるす」 (forgive) という言葉は「for ~のために」と「give 与える」から 成り立っています。別の言い方ではgivefor
(~の代わりに与える) です。ですから、ゆるすことは、単純に言って、与えることです。
なぜなら、主が罪をゆるされるのは、罪の代わりに与えること
だからです。しかし、主は罪の代わりに何をお与えになるので
すか。神はこう言っておられます、「罪のあがないのための神の
義を」と。
ゆえに、主が罪をおゆるしになる時―与える時―、主は罪の 代わりに義をお与えになるのです。そして、主のもっておられ る義だけが、主のものだから、神が罪の代わりにお与えになる、 あるいは与えることのできる唯一の義は神の義です。
これは、賜物としての神の義です。すべての人は罪を犯した ので、もし、彼らが罪を拭われるとするなら、全く無償のゆる しを得なければなりません。そして罪のゆるし―罪の代わりに 与えられる神の義―は、全く無償です。これは、「いのちを得
させる義がすべての人に及ぶ」無償の賜物としての神の義です ( ローマ 5:18) 。
ですから、神に罪のゆるしを求めるすべての魂は、その求め において、まさに罪の代わりに義を与えてくださるように神に 求めているのです。神にゆるしを求めるすべての魂は、ただゆ るしを語る神のみ言葉にそれを求めます。そして、信仰という のは、み言葉によって語られた事の成就について、み言葉に完 全に依存することです。このようなわけで、義とは信仰の全体 です。
「求める者はだれでも受ける」。あなたは、主に何度も何度も
罪をゆるしてくださるようにと願いました。ということは、神
にあなたの罪の代わりに与えて下さるようにと求めたのです。
しかし、あなたが主に罪の代わりに与えて下さいと祈る時、あ
なたは、神が罪の代わりになさる事、あるいは与えることがお
できになる唯一のもの、すなわち、義を求めているのです。そ
れが、主のゆるしを求めることです。
そして神は、あなたが求める時、あなたの罪をゆるして下さ
る―罪の代わりに与えて下さいます。神は、神がなされることを言われます。そして、それをなさいます。「彼は真実であられ
る」―というのは、神は決して失敗なさることがないというこ
とです―、さらに、「神は正しいかたであるから、その罪をゆるし」
てくださいます。そして、罪の代わりに神が与えて下さるのは
神の義です。
そうであるなら、あなたが神に求める時、神があなたの罪の 代わりに、無償で与えて下さる義のゆえに、なぜ感謝しないの ですか!信仰による義は、神に罪のゆるしを求めることと同様 に平明かつ単純であることが、おわかりいただけたのではない でしょうか。事実、まさにそのとおりなのです。
あなたがゆるしを求める時、あなたの罪の代わりに義が与え られると信じること、そして神の賜物として、その義を感謝し て受けること、これが、信仰を働かせることです。
しかしながら、「わたしたちは、不信仰のため、また、どのよ うに信仰を働かせたらよいかについて無知なために、多くの問 題と悲嘆に苦しむ」というのは、いかに真実なことでしょうか。
「あなたには信仰があるだろうか」。神への信仰を持ちなさい。 「イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。 RH 1899 年 3 月 14 日
「キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなく ても問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だ けである」 ( ガラテヤ 5:6) 。
もともと、この聖句を書いた時、パウロが心に留めていた人々 にとって、割礼はすべてでした。割礼によって表わされていた
ことが彼らにとってのすべてでした。
それらの人々にとって、割礼は何を意味していたかと言えば、
それは行いでした。行いのみでした。それは、あらゆる行いの
うちで最も大いなるものでした。創造そのものより偉大でした。
というのはあるラビがそれを施す時、「割礼は非常に大いなる事
であるので、あがむべき聖なるおかたは、そのためでなければ、
世界を創造なさろうとはしなかった」。「それは、他のあらゆる
戒めと同様に重大である」。「律法のあらゆる戒めに相当する」
からです ( ファーラー「パウロの生涯」22 章 p5 の脚注、35 章 p4 の脚注 ) 。
しかしながら、彼らにとってそれほど重大であった割礼を、 主は、「割礼は無である」とのみ言葉で、風でひと吹きするごと く拭い去りました。そして、イエス・キリストにあっては、割 礼は何の役にも立たず、割礼が彼らにとって何を意味するか例 に照らして見ても、わざ ( 行い ) は何の益にもなりません。
また、このゆえに、行いに欠けていることを誇り、罪の言い 分けをする傾向があるかも知れない人々にも、同じ強さでみ言
葉が与えられています。「そして割礼のないことは無益である」。
「イエス・キリストにあっては、割礼があってもなくても問題で
はない」。この文脈では、行いのないことは、無益だと単純に言っ
ています。そして、キリスト・イエスにあっては、行いに欠け
ていることは無益です。
ゆえに、この神のみ言葉は、彼ら自身のうちにある、あるい
はまた、彼らがした事、しなかった事のうちにある、あらゆる基盤、あらゆる取り柄から両者を共に究極的かつ永遠に排除し
ます。
そして、これは、今までと同様に今も全く真実です。今、人 がキリストの外にいようと、内にいようと、行いがあろうと、 なかろうと何の役にも立ちません。なぜなら、次のように書か れているからです。
「あなたはキリストのうちにいるでしょうか。もし、 いなければ、あなたは自分が失敗しやすい、無力な、
とがめられるべき罪人であることを認めていないので
す。あなたの誕生、名声、富、才能、徳、信心、慈善、
あるいは、あなたのうちにある何ものも、また、あな
たとつながる何ものも、あなたの魂とキリストを結ぶ
帯となることはないでしょう」 ( 教会への勧告 No.31. p44、45) 。
それでは、どうなのですか。すべての者が全くむなしいまま に捨て置かれるのでしょうか?いいえ、違います!主に感謝せ よ!すべての者にとって益となるもの、永遠に益となるものが あります。「イエス・キリストにあっては、割礼があってもなく ても、問題ではない」し、また、行いがあってもなくても、問 題ではないということは、永違の真理ですが、また、「イエス・ キリストにあって……働く信仰」は、益となることも永遠の真 理です。
益となるのは、信仰や行いではないことに注目してください!
それは「働く信仰」です。働くことのできる信仰であって、そ
れは働きます―いつでも、どこでも、誰にでも益となるのはこ
れであり、これのみです。
信仰は、ただ神に属し、そして働きます。それは、神のわざ
だけをなします。こうして、キリスト・イエスにあって「働く信仰」
を持つ者は、神のわざをなしつつ、その内にあって現れる神を
示すのに益となるものを持ちます。そして、このようにして、「神
がつかわされた者を信じることが神のわざである」。
そういうわけで、あなたがキリストにある間、「もしあなたの
うちに何か善があるなら、それは、全くあわれみ深い救い主の
恵みによるのです。教会やあなたに関係する教会員の兄弟達と
あなたとのつながりは、あなたがキリストを信じない限りは何
の役にも立ちません。キリストについて信じるだけでは十分で
はありません。あなたは、彼を信じなければなりません。あな
たは、彼の救いの恵みに、完全により頼まなければなりません」 ( 同上 p44、45) 。
「あなたには信仰があるだろうか?」神を信じなさい。「ここ に・・・イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。 RH 1899 年 3 月 28 日
解 放
「御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の
欲を満たすことはない」 ( ガラテヤ 5:16) 。
何と祝福に満ちた約束でしょう!そして、信じる者にとって、 それは確かに祝福に満ちています。
肉の欲について考えてみてください!それは、どれほど浸透 していることでしょうか!その命令はいかに厳しいことでしょ うか!その支配は何と暴虐であることでしょうか!それが人間 を陥れる奴隷状態は、何と陰欝なことでしょうか!だれもがそ れを経験しています―自分の望む良いことをしたいと欲しつつ も、自分の憎む悪しか行えません。より良いことをしようとい う意志を持ちつつも、どのようにそれをしたらよいのかわから ないのです。内なる人に従って、神の戒めを喜びつつも、自分 の肢体の内に別の法則があることを知り、心の中の法則と戦い つつ、自らを自分の肢体の中にある罪の法則の虜にしてしまい ます。そして、ついに叫ぶのです、「わたしは、何というみじめ な人間なのだろう。だれが、この死のからだからわたしを救っ てくれるだろうか」 ( ローマ 7:14 ~ 24) 。
主に感謝せよ!ここに解放があります。それはキリスト・イ
エスに、またわたしたちの神の霊のうちにあります ( ローマ 7: 25、8:1、2) 。そして、キリスト・イエスにある生命の御霊の
法則は、あなたを罪と死の法則から解放します。
だから、「御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉
の欲を満たすことはない」。腐敗の虜からの解放のみならず、そ
こにはまた御霊を受け、御霊によって歩くすべての魂のための、
神の子の輝かしい自由があります。
「御霊によって歩きなさい。そうすれば決して、肉の欲を満た
すことはない」。
肉の欲の働きについてのリストを見なさい!「不品行、汚れ、
好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、
分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、およびそのたぐいのもの」、これらのうちのどれもあなたを満たすことはできません。御霊
のうちを歩く時、これらすべての事にあなたは勝利します。そ
れが神の約束されたみ言葉です。
それは、最も望ましい前途の希望ではありませんか。これよ
り他に持つに価するものがあるでしょうか。そして、それが求
めることによって得られるならば、得ようとして求める価値が
ないでしょうか。
キリストがあなたのために勝ち取った解放を受けいれなさい。
キリストは、わたしたちを自由にします。その自由のうちに立
ちなさい。固く立ちなさい。
「求めよ、そうすれば与えられるであろう」。「なぜなら、求める者はだれでも受けるからである」。「あなたは聖霊を受けなさい」。「御霊で満たされなさい」。そうです、あなたがたがたが「あがないの日のために、……証印を受けた……御霊によって歩きなさい」。 RH 1899 年 3 月 14 日
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