キリストの愛、とても、とても、と逃げがちですが、ここには一つの同情の言葉、1つの親切な行為、がそれである、と書いてあります。
人は小さな一言で救われる時があります。わたし病院に勤めて、数年経過した時、文字通り毎日、職員の前でも、業者さんの前でも、怒鳴られて(訂正 怒られて 笑)いました。それがずっと続き、あかしなんて一言も話せず、「神さまの証どころではないな~」と思っていました。ところがある時、天沼教会の牧師夫人が手招きして呼んでくださり、その怒っている方についてこう話されたのです。「〇〇さん、変わったの、笑顔がなかったの。あなたのおかげよ」と。
心の中で「怒られているだけなのだけど」と苦笑いして思っていました。怒られてばかりでも証になるのかな・・・と。牧師夫人の言葉は今でも心に残っています。
「おりにかなって語る言葉は、銀の彫り物に金のりんごをはめたようだ。」箴言25-11
各時代の希望のこう書いてあります。
「読者よ。あなたは、さ迷い出た者を、何人さがしあてておりに連れもどしたことであろうか。見込みもなく、見栄えもないと思われる人々に背を向けることは、キリストがさがしておられる魂をないがしろにすることであるのを、自覚しておられるだろうか。あなたが、彼らをかえりみないその時こそ、おそらく彼らがあなたの同情を一番必要としている時である。どの礼拝集会の時にも、休息と平安を求める魂がいる。彼らは見たところ、不真面目な生活を送っているようではあるが、聖霊の働きに無感覚でいるわけではない。彼らの中にも、キリストに導かれる人が多くいることであろう。」各時代の希望
道に迷った羊
怒られてばかりいる私に言葉をかけた牧師夫人に感謝。
またもし、悪魔だったら 彼らがあなたの同情を一番必要としている時にこそ、あなたが、彼らをかえりみないように見せるだろうな~と、神さまの目薬によって見破っていく必要があるだろうな、と思っています。
https://www.youtube.com/watch?v=zRVBs-sn3Xk
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