2015年8月23日日曜日

今、何故SDAか

第一章今、なぜSDAか?

 モーリス・ヴェンデン長老が牧師を していた教会の近くに、したたか者の 床屋がいた。政治と宗教を論じるのが その人の趣味と聞いたヴェンデン先生、 何とかこの魂を導こうと、大いに勇ん で長くもない髪をわざわざ散髪しても らいに出かけた。 「お客さん、ご職業は?」と床屋。「牧 師をしています。」「ほう、なぜ牧師に なられたんで?」「子供の頃から神を 信じてはいたんですが、本気で宗教を 求め始めたのは大学の頃からです。実 はこんないきさつがありましてね。…」 好調な滑り出しに気を良くした先生は、 いかに神が彼を召されたかを熱っぽく 語るのだが、相手は別に感じ入ってい る様子ではない。「それで牧師さんのお 父さんは何をしてらっしゃいました?」 「はあ…父も牧師です。」さもありなん、 といった顔で床屋ははさみを動かしな がら「牧師さん、教会はどちらの?」 「SDA といいまして、あまり聞き慣れ ないかもしれませんが、この教会はで すね…」と再びヴェンデン先生、SDA のユニークさについて熱弁をふるうの だが、聞いているのかいないのか床屋 は「…で、牧師さんのお父さんはどこ の教会でした?」とたたみかける。「は あ、父も SDA でした。」そう答えたヴェ ンデン先生、この時ばかりは自分の父 親が無神論者でアル中か何かであって くれたら、という気持ちになったそう である。つまり、どんなにそれなりの 理由があって選んだような職業であり、 宗教であっても、結局は彼は父親の真 似をしただけではないか、と床屋は言 いたかったようだ。所詮、人間とはそ れぞれが育った環境によってかたちづ くられるもので後になってなぜ自分が 今歩んでいる道を歩むようになったか、 理論的理由づけを試みるものだ、と。 「今、なぜ SDA か」を若い世代が考 えるとき、親、教師、先輩たちの敷い たレールというものを抜きにして語る ことはできない。現在 10 から 20 代の SDA 二世、三世にとって教会は自分で 選び取った道とは言えないだろう。子 供のうちは親と一緒に教会へ行き、学 院ではそこでの宗教行事に参加するこ とが “ 当たり前 ” だった我々「温室育ち」 の世代は、温室を出た後も教会とのつ ながりを保ち、教会に貢献していくだ けの愛着と使命感を持っているだろう か。そして SDA でなければならない理 由と、その使命の担い手として誇りや 喜びを見いだすだろうか? アメリカにいた頃 “PK” ということば を知った。プリチャーズキッズ、「牧師 の子」の頭文字で、近年牧師の息子や 娘に目立つ非宗教的態度、すすんで世 の風俗を取り入れる傾向をさして「あ いつは典型的 PK だ」というふうに若者 同士で用いる。興味深いのはその言葉

にさりげなく込められている同情とも 容認ともとれるニュアンスである。大 人同士ならさしずめ「親御さんはあん なに立派なのにあの子はどうして」と いうところだろうが、この言葉にその ようなトゲがないのは何等かの共通意 識、「何となく分かる」ものを若者たち がお互いに持っているためだろうか。 曾祖父の代からの牧師、伝道師の家系 に生まれた私などにとっては何とも身 につまされる話である。 戦後 20 年、産声をあげたばかりの SDA 沖縄伝道部会における宣教が破竹 の勢いで進展していた頃、一年で 140 人もの受浸数を出し、県下唯一だった 私立小、中学校を設立、運営し、アド ベンチスト・メディカルセンターには 離島からも患者が押し掛け、一ケ月も 続く講演会には何百人もの聴衆が詰め かけるという “ 全盛時代 ” に私は生ま れた。しかも沖縄で最初の信徒となっ た婦人伝道師を祖母に持つ SDA 三世の 「PK」としてである。当然ながら私の幼 少時の思い出は教会とは切っても切れ ないものであった。二歳半の時から始 まる私の断片的な記憶は、たとえば講 演会の宣伝カーで巡回するときのアナ ウンスであり、足踏みオルガンやアコー ディオンの音色なのである。小学校に あがる時分になると両親とも週日は遅 くまで部会事務所に勤め、安息日とも なれば信伝、MV、老人会、そのほかの 役員会という具合に子供とゆっくり過 ごす暇もないほどのハードスケジュー ルだったのを覚えている。しかし当時 はどの教役者の家庭も似たようなもの であり、講演会、キャンプ、バザー、 VBS、運動会、クリスマスページェント、 新年会など老いも若きも一丸となって 活動しているときの教会は燃えていた。 SDA という拡大し続ける特殊なコミュ ニティーの中で家庭と教会と学校が限 りなく密着した毎日…それが幼かった 私の知っていた世界のすべてであり、 未来へ続く唯一のレールだった。親も 教師も友人も、そして将来は職場も結 婚相手もその内側で見つかることにな るであろう完全に閉鎖された安住のコ ミュニティー。幼い頃の私にとっては 「なぜ SDA か」など問題もなく「SDA が全て」であったようである。 しかし時は巡り、私が気づかないう ちに変化は訪れていた。故郷を離れて いた私がしばらくぶりに沖縄を訪れた とき、そこにはもうかつての世界はな かった。あちらこちらで昔なじみの人々 に声をかけられ、面映ゆいような懐か しさを感じるものの、すでに私はあの 「小さな世界」にいないのを痛感してい た。それは教会が変わったというより も私自身が変わりはじめていたせいだ ろうか。教会の帰りに喫茶店で漫画を 読み、映画館に入っては「STARWARS」 を鑑賞するのを何とも思わなくなった 15 才の夏であった。学期休み中、しか も旅先での私を教会へ通わせたのは、 子供の頃からつちかわれてきた習慣(今 や惰性といった方が的確だった)と、 何とはなしに教会に集まるかつての友 達の存在だったように覚えている。 今、教会は多くの若者たちの生活圏 から遠退きつつある。良くて一週間に 数時間、しかも友人に会うのに利用す る待合い場所でしかなくなりつつある。 それが子供の頃から通い詰めた教会で 多くの知人がいる母教会であったとし てもである。彼らにしてみれば友人と 落ち合うのに教会の方が喫茶店よりは 好ましいと考えているのかもしれない し、教会の側としてもそのような役割 を果たすことに甘んじているような感 じを受ける。「最近の若いのは…」とい う決まり文句すら最近ではあまり聞か れなくなり、もはや彼らに真剣に何か を期待しているというよりは「時代が 違うから仕方がないんだ」と妙に諦め たような響きがある。「理解のある」大 人たちは、せめて彼らが教会に足を運 んでくれるだけでも、遊びに来てくれ るだけでも、と思っているようだし、 若者たちもその程度割り切ってもらう のを都合良く思っているのかもしれな い。 今年のライフ一月号の特集は面白 かった。休みで地方の教会へ帰る三育っ 子たちが重荷に感じる事…いわく「学 院生は何でもできると思って特讃、伝 道地便り、何でも頼む」「一度引き受け ると何度でも頼まれる」「引き受けるの があたりまえのような態度で頼まれ、 断れば悪く言われる」「信仰がしっか りしていないのに証や祈りを頼まれる のがつらい」etc。本人たちがそれに意 義を感じていようといまいと教会活動 が義務づけられてしまう雰囲気、それ と「古い考え方を強制する」大人の存 在が若者たちの教会への足を重くして いるようだ。確かに彼らとしてうちに 燃える何かがあれば喜んで伝道するだ ろうし、証だって讃美だって、祈りだっ てするだろう。霊的にはぐくまれても いないのに話せと言われ、また何故そ うであるべきか納得がいかないのに大 人の標準でクリスチャンらしく振る舞 うことを要求される(これは安息日の 過ごし方や衣服に関してのようである) のがたまらないというのも一理ある。 このような世代を抱えた学院教会は どうしているのか。先のライフ記事に は「学院の教会は新しい企画を若者向 けにしているが、地方教会は活気がな い」し、「つまらない」、「暗い」といっ た学生たちの意見が目立つ。確かに学 院では圧倒的に青年が多いし、かなり 自由なプログラムが許される。伝道地 便りの劇をし、聖書クイズ大会、野外 礼拝、音楽プログラムをもち、人形劇 をする。私自身、学生時代に好んでやっ た宗教活動といえば、いかに集会を面 白くし、伝道を楽しくするかという努 力だったように思う。いわば宗教に飽 きが来ないように霊的娯楽のカンフル 剤を打つのに一生懸命だったのである。 しかし笑いがあればあるほど、いろい ろ工夫を凝らせばこらすほど、本質的 なものからそれていくのではないかと いう恐れが常につきまとったものであ る。どんなに演出効果を高めてもそこ にはかつての足踏みオルガン一台しか ない天幕講演会に大勢の聴衆を引きつ けたあの力はなかったし、何故わざわ ざこんな事をしなければならないかと いう当初の疑問は未解決のまま残され

るのだった。 青年伝道の低迷は世代の違いが原因 だとよく言われる。考え方、ライフス タイルのめまぐるしく変化する現代に おいて時代を先取りしていく世代に対 し、それにろくろくついていけない中、 高年層の固定観念を押しつけようとす るからいけないんだというのが定説の ようだ。しかし仮に若者による若者の ための “ ナウい ” 伝道なり、教会ができ るとして、青年の数を増やすことがは たして「何故 SDA か」の解答になるだ ろうか?そんなむずかしいことはどう でも良い、ただみんなで楽しくできれ ばそれで良いではないか、というので はこの教会の存在する理由があまりに も希薄である。若者が集まれば集まる ほど、安息日、結婚問題から衣服、食 生活、娯楽に至るまで「何故 SDA は…」 という声は後を絶たないだろう。その ような世代に教会を適合させるとなる と、これは単なる伝道方法の変化にと どまらず、教会の方針、さらにはその 目的自体の変化をも意味しないだろう か。我々はそこまで許しても良いのだ ろうか。もしそれが行きすぎたとした ら、どこで線を引けばよいのだろうか。 いまの世代を特徴づけるものは思想、 主義よりもフィーリングに走る傾向で ある。消費者としての彼らを見ても、 質よりは外見、少々値が張ってもブラ ンドという思考はかなり強い。これが 教会にまで持ち込まれるなら、教理よ りは交わりを重視し、理念よりはムー ドを優先することになりかねない。 多様性の一致が必要だとも言われる。 様々な人がいて、様々な思想、表現方 法があっても良いではないか、共存す ることを学ぼうと。わたしは、教会を 取り巻くあらゆる思想は次の二つに大 別することができるように思う。すな わち人を集めるために教会を変えるか、 教会に集めるために人を変えるかであ る。これらが究極的には、罪人を救う ために神の要求を変えるか、神の要求 に沿って救われるために罪人が変えら れるかの論争点にまで及ぶかも知れな いという懸念は考え過ぎだろうか。豚 肉料理がふんだんにつかわれ、祖先崇 拝が根強い沖縄人社会に SDA が伝えら れたとき、教会は彼らを勝ち取るため に標準を下げることをしなかった。迫 害も偏見もあったが収穫も多かった。 今日の世代に対する伝道はそうはいか ないのだろうか。 よく言われる「世代の違い」とは具 体的に言えば豊かさの違いではないの か…ピクチャーロール一つで大人も子 供も飽きもせず伝道集会に集まってく る話、家族に勘当され村八分になりな がら信仰を守り通す話など、かつての 沖縄伝道戦線をほうふつとさせるこれ らの報告は今日では中南米、東南アジ ア、アフリカと言った発展途上国でし か聞かれない。現世での幸せに恵まれ ていない者が来世に望みを託すのはご く自然であり、そのような人々に再臨 一本槍のアドベンチズムが受けるのも 納得がいく。しかし今日文明洪水国日 本の若い世代は、教会を心の支えとする必要がなくなったのかも知れない。 かつて教会の教えに慰められ、教会の 発展に生き甲斐を感じた世代は、今や 教会とは別に、あるいは教会と平行し て社会的成功、豊かさを手にした世代 ととって変わりつつあるのだろうか。 GNP と宗教に対する依存度が反比例 するのであるなら、現在伝道の成果が 上がっている国々もこれから生活水準 が向上すれば、日本と同じ路をたどる のであろうか。日本の SDA の伸び悩み は再び何等かの社会不安が我々を襲う まで続くのであろうか。 心ある信徒達は米国日曜休業令やカ リフォルニア大地震がリバイバルの火 付け役となってくれるのを期待し、こ れらの問題がよりエスカレートするの を心密かに願っているのかも知れない。 我々が遅かれ早かれこれらの問題と直 面することは確かだ。しかし仮に日曜 休業令が今年具体化し始めたとしても、 今の状態では教会内に混乱と不安を引 き起こすだけでリバイバルどころでは なくなるのではないかと思う。我々が 今必要としているのはこの教会に対す る確信と、その確信を行動に移させる だけの霊的覚醒…つまり SDA でなけれ ばならない理由づけと動機づけである。 迫害があればリバイバルが起こるので はなく、リバイバルが迫害を呼ぶので ある。 「迫害の火が消えているように思われ るのはなぜであろうか。その唯一の理 由は教会が世俗の標準に妥協したた めに反対を引き起こさないということ にある。…初代教会の信仰と力が復興 するならば迫害の精神もまた復興し、 迫害の火は再び点じられるのである」( 大争闘下 p42)。 日曜休業令さえ出れば皆本気になっ て教会へ来るだろうなどとたかをく くっていてはならないのだ。ニワトリ が先か、卵が先か、リバイバルか迫害か、 証の書はリバイバルが先であるという。 ではどうすれば教会は、ことに青年 達は真に燃やされるのか。単に若者向 けのプログラム作りといった小手先の 処方では解決にならないこと、今の状 態のままで迫害を待っていたらそれが 来たときにひとたまりもない事はすで に分かった。今はこういう時代なんだ とサジを投げていたのでは、らちがあ かない。こういう時代だからこそ、リ バイバルを必要としているのだ。 我々の前途が必ずしも絶望的でない ことは、現にこのような世代を相手に 若者ばかりの急成長を遂げた教会があ る事実を見れば明らかである。しかも 彼らは一人びとりが熱心な伝道者であ る。なぜ統一教会にそれができて我々 にできないのか。「あれは偽リバイバル だ、狂信だ」とあっさり片づけてしま う前に、何がそんなに若者を引きつけ るのか分析できないものだろうか。特 に私が興味深く思うのは彼らが青年を 獲得するのに、現代音楽やスポーツ、 パーティーといった SDA の常套手段に頼っていないという点である。 一つ明らかなのは、私がコンタクト をもった統一教会の青年達は教会員数 を増やすことを伝道の最終目的として いないということだ。彼らの頭にある のは教会を青年で一杯にしてみんなで ワイワイ楽しくやることではない。彼 らには共産主義と無神論を打倒し、地 上王国を建設するという具体的かつ現 実的な目標がある。近い将来に達成す ると信じて疑わないその目標のために 彼らはすべてを犠牲にするのであり、 そのために人員獲得に励む。始めはそ の数も少なかっただろうが、本気で信 じ実行する者には説得力がある。しか も指導者のカリスマは彼らに寸分の疑 いの余地も許さない。信者の間には「同 志」といった意識も芽生え、一種独得 の運命共同体ができあがる。あらゆる 困難、迫害もその悲壮なまでの結束力 を強めるだけである。彼らの共有する ビジョンに生き甲斐を求め、そのひた むきな生き方や人間関係に理想を求め て今日も多くの若者が献身していく…。 それにひきかえ SDA の青年伝道は目 標がない。教会が若者で一杯になった らいいなあと願いこそすれ、何の為に 集めるかとなると一致した見解がない。 (これは青年伝道に限ったことではな く、一般的に最近の SDA の伝道目標は いつまでに何人のバプテスマを達成す るかばかりである。)現に一杯になった ら皆で何をするつもりなのだろうか? 更に大規模な人集めだろうか。なぜそ うまでして青年を集めるのだろう。彼 らに SDA 教会の門をくぐらせてしまえ ば彼らを救ったことになるだろうか。 人数が目標なら、狭き門(標準、教理) は邪魔になるのではないか。 統一教会を脱会して、SDA になった 青年の一人は「今では何の喜びもない」 と寂しそうにもらした。かつて自分に あれほどの生き甲斐を与えてくれた統 一原理に優るものが SDA に見つからな いというならまさに悲劇である。わた しはそのような教会に青年を導きたい とは思わない。 「まだ生まれ変わっていない信徒、一 度改心したのに再び元の状態に戻っ てしまった信徒がいるために、主は多 くの魂を今真理に導くことをなさらな い」(教会への証 6巻 p371)。 一昨年度の沖縄連青主催クリスマス バンケットに八重岳集会所青年会が音 楽プログラム担当を頼まれた際、連青 の許可を得て、リアリティ読者の各教 派青年を招待した。年末が稼ぎ時の統 一教会からは忙しい中、支部代表二名 の参加があったが、彼らは SDA 青年一 般の実体に呆れていたようだ。熱心さ においても数においても彼らが我々を うわまわっているのは否めない事実だ。 いったい、何が違いをもたらすのか。 統一教会、エホバの証人、末日聖徒 の三者に共通してみられるのは独得な 終末観であり、自分たちこそ世の終わ りに摂理によって現れた特別な教会で

あるという自負である。その特異な教 理のゆえに異端の烙印を押されるのだ が、同時にその特異さがあればこそ自 らのアイデンティティーを保ち、熱心 な青年男女の信奉者を集めることがで き る よ う だ。 今 で こ そ SDA は、 彼 ら に お 株 を 奪 わ れ た 感 じ だ が、 我 々 の ルーツはあの再臨運動であり、異端呼 ばわりされたそのメッセージが当時の 社会に与えたインパクトは今日の統一 教 会 な ど 物 の 数 で は な か っ た。 思 う に、SDA の衰退はその中心思想である べき再臨信仰がおろそかにされた事に 始まったのではないだろうか。現在の SDA の何%ぐらいが今世紀中にもキリ ストが来られるのを期待しているか、 更にその内の何%が実際に預言者の勧 告に従い、再臨に備えているだろうか。 もし我々が統一教会ほどの発展を望む なら、少なくとも統一教会員が彼らの 王国設立を信じているのと同じくらい の真剣さで我々の世代に起こる再臨を 信じてそれに備え、彼らが文鮮明氏を 疑わないのと同じくらいの信仰でホワ イト夫人の勧告を受け入れねばならな いだろう。再臨の切迫感を持たない再 臨信徒達に活気がないのも不思議では ないし、そんな学校で学ぶ生徒達が、 なぜ自分は SDA でなければならないの か混乱し始めるのも当然である。かつ て SDA の牧会をはじめ、医療、教育、 そして出版や食品事業の先駆者達に至 るまで一貫して流れていたのは、いか にして再臨までに福音を全世界に宣べ 伝えるかという燃えるような使命感で あり、それが彼らを不可能に挑ませた のである。あれから一世紀、経済的に も組織的にもめざましい成長を遂げ、 ほぼ全世界的に福音を宣べ伝え終わっ た我々ではあるが、富める若い役人の ように「足りないことが一つある」の ではないだろうか。若者の教会離れと いう現実を前にして自分たちの無力さ を感じるとき、「あなたはどこから落ち たかを思い起こし、悔い改めて初めの わざを行いなさい」という主の声が耳 に痛い(黙示録 2:5)。 伝統的再臨信仰に立ち返る(ある意 味で SDA ファンダメンタリズムか)の は狭量、保守的、反知性に逆戻りする ことであるというネガティブなイメー ジが強いかもしれない。再臨が近いん だから医者になる必要はない、大学な ど行っている暇はない、結婚なんか考 えているときではない、会社も辞めて 明日から文伝…?!これだから極端は 嫌なんだ、とすぐ拒否反応を起こす前 に冷静に考えてみたい。確かに世から 習い、世に倣うことによって機関も人 材も整い、一流のノウハウが教会内に も確保された。そのおかげで新聞の特 ダネになるほどの異種間心臓移植さえ 我々の病院でやってのける時代になっ たが、その反面では、どうせ世と同じ 事をし、世の人々にひけを取らないの が望ましいなら、なぜ SDA であること に固執しなければならないのか、とい う問いかけを若者達はぶつけるように なった。学問や職業、ライフスタイル において、さらには信仰のあり方にお いてなぜ時代遅れなアドベンチズムを 固守しなければならないのか、と。納 得がいかないまま強制されることに強

く反発しながらも、彼らは親や教師に 具体的な示唆を、納得がいく信仰を、 ことによってはカリスマを求めている のかもしれない。選択は自分でしたい のだが、誰か確信を持って道を示して くれる人、ライフ誌の言葉を借りれば 「『俺についてこい』という昔の青春映 画みたいなものを求めている」のであ る。今、アドベンチストの大人達はそ れが最後になるかも知れないこの世代 に、どのような精神的遺産を残してや れるだろうか、パイオニア達は我々に 何を残してくれたのか。 再臨信徒…それがただ単に毎週教会 へ行き、いつかくるであろう再臨を漠 然と信じて待っている善良な人々、と いう意味ならどの教派も基本的には変 わらず、必然的に SDA の存在価値は 薄れる。しかし 1844 年のミラライト ( ウィリアム・ミラーたちによる再臨運 動のこと ) 達は生きて主に会う備えを するということのなんたるかを世に示 し、惰眠をむさぼる一般教会に改革を 迫るという、ユニークで力強い使命を 果たしたのだった。彼らの目標はそれ までのクリスチャンのように単なる自 己の救いではなく、花婿の道備えだっ た。世代は変わり、社会のニードは変 わったように見えてもアドベンチスト が存在する理由とその使命は変わらな い。それが見失われ、他の教会や事業 団体の物真似を始めたために我々のア イデンティティーも薄れ単なるプロテ スタントの一派に成り下がってしまっ た。生きて主を迎える準備という他の どの宗派もなし得なかった重大使命、 これを果たす事によってのみ、SDA の 存在価値はあるのである。我々がまず しなければならないのは教会内におい てその使命を再確認することであろう。 何しろ生まれた時から教会で育った青 年達が最終世代としての自覚を持って おらず、この教会に魅力さえ感じてい ないというのが現状なのだから。

 第二章 再臨信徒のジレンマ 

私が中学生だった頃、当時 92 歳だっ た野崎金一先生が学院に来られたこと がある。この先生には、先生が生きて おられる間に再臨があるという噂がつ きまとっているのだが、何でもその所 以は先生が若かりし頃、何人かでホワ イト夫人と食事をしていたとき「この 中に生きて主を迎える人がいる」と言 われたとか言われなかったとか。その グループで唯一残った先生は今や注目 の的である。そのためか先生が説教で 登壇されようとして一瞬よろめいたの を見た学院生達が「おー危ねえ」「まだ 早いぜ」と思わず漏らしたのは印象的 だった。幸いに(?)先生はまだご健 在のようだが、再臨を現実問題として 考えるとき、我々がたじろいでしまう のはなぜだろう。再臨を待ち望んでい るはずの再臨信徒がこういう有様では いたって情けない。再臨使命を云々す る前にまずこの逃げ腰の姿勢からなん とかできないものだろうか。 一般的に再臨と聞くと同時に二種類 の反応が起きるようだ。先の例をあげ るまでもなく、真っ先に来るのが「ま だ準備が出来ていない」「今、再臨があっ たら現在自分が手にしている楽しみが 取り去られてしまう」という恐れであ り、まだ再臨があってほしくないとい う本音である。しかしすぐそれを打ち 消すかのように「どうせ再臨なんかい つ来るかわからない」という諦めが起 こる。人によってはそれは安堵感と言っ たほうが正確かも知れない。そして「馬 鹿正直に待ちぼうけを食わされたので はたまらん。その時が来るまで人並み に人生を楽しもう」と結論づけてしま うのである。 先ず「準備が出来ていない」と感じ る事に関しては先号のリアリティ「信 仰による義」特集でとりあげたのでこ こでは省くが、救いのメカニズムは単 純でしかもたやすい事なのである。「信 仰による義」とは、一般に考えられて いるように一生懸命「私は救われる」 と思い込む、或いは心に念じる事では ない。それさえ出来ない、つまり救い を自分で実感出来ず、救いの有り難さ を感じとれない青年が多いが、救いに 関して我々のなすべき部分はもっと簡 単明瞭である。一言で言ってしまえば、 それは神が私を救いつつあるのに気づ く事であり、気がついたら神が救うに まかせる事である。つまり神の邪魔を しなければ救われてしまうのである。 (この気づくという行為もやはり受け身 であり、気づかせて下さるのはいつも 神である。そして神が救うにまかせる には闘いを通らねばならず、厳しい選 択を強いられる。それは多くの人々が 考えているようなものではなく、自分 で自分を救わないという選びであり、 自己に死ぬ闘いなのである。)この事実 を知らず、信じておらず、そして体験

できていない為に教会は死に瀕してい る、とホワイト夫人は書いている。 次に「今、再臨があったら現在手に している、あるいは手にしつつある楽 しみや計画が奪われる」という恐れに ついてであるが、これは神についての 認織不足が原因だと思われる。 我々は天国といえば白い衣を着た聖 人達が雲の上でたてごとをかき鳴らし ている場面か、子供達がライオンと戯 れる図を想像しがちだが、正直言って それらはそんなに魅力的な光景ではな い。そんな事より今、この地上で趣味に、 仕事に、結婚に幸福を見出す方が現実 的であり、手っ取り早く思える。多く のクリスチャンでさえ、この世での楽 しみを与えられたのが神である事を忘 れ、まるで天国に行ったら何も楽しめ る事が無いかのように、再臨の前にあ れもこれもしておきたがるのである。 「愛する兄弟たちよ。思い違いをしては いけない。あらゆる良い贈り物、あら ゆる完全な賜物は、上から光の父から 下って来る」(ヤコブ 1:16,17)。この罪 に汚れた世においてさえこれだけの幸 福と楽しみが残されているなら天国は どんなに素晴らしいだろう。 「神は単に生存に十分なだけを備え ることでご満足なさらなかった。神が いかにあなたを愛しておられるかを知 らせるために地にも大空にも美しいも のを満たされたのである」(祝福の山 p119)。 神が造られたこの世界を合理性とい う観点のみから考えるといかに無駄が 多いかに気づく。何の為に神は楽しさ、 美しさ、美味しさ、心地良さ等といっ た我々の存在に必ずしも必要でない要 素をこの世界の至る所にちりばめられ たのだろうか。一例をあげれば、人間 が生きていく為に何故飲食というプロ グラムを与えられたのだろう。単に生 かしておく為だけなら無味乾燥なビタ ミン剤や点滴でも、あるいは極端な話、 光合成でも良かったのだし、何もわざ わざ人間の味覚や視覚、嗅覚、触覚を 楽しませる方法をとる必要はなかった はずである。食生活ひとつとっても人 間の幸福に対する神の配慮は並々なら ぬものであるが、これとて創造の多彩 なわざのごく一部分に過ぎない。神は 我々が人生を楽しみ、喜ぶ事を望まれ る御方なのだ。 ふり返れば私がアメリカで過ごした 高校時代は楽しいことばかりではな かったにせよ、それでも数々の経験に 恵まれた 2 年半だった。休みともなれ ばロッキーの山肌をスキーで滑降し、 ロッククライミングに挑戦し、マイア ミビーチではサーフィンに興じ、オハ イオではセスナを駆ってアクロバット 飛行に挑み、ヒッチハイクで見ず知ら ずの土地を旅し、学費をまかなう為の 植林のアルバイトで泥だらけのテント にこもりながらインディアン青年とク リスマスを祝い、養蜂家見習い中に蜂 蜜を狙って出没する熊と知恵比べをし た事などまるで昨日の事のようだ。さ 第二章 再臨信徒のジレンマ 11 らにはアルバイトで運転していたト ラックもろとも積荷がハイウェイ走行 中に爆発炎上したり、崖から乗用車ご と転落する事故で奇跡的に助けられた り、友人達とフロリダのとある湾岸で 空き家に泊まっていたところを麻薬密 輸団と疑われ、真夜中からパトカー 3

 台、白バイ 2 台、警察犬に取り囲まれ 身体検査までされるなど、遠く離れて いる両親をハラハラさせる事件に事欠 かなかった。 天国でこれらと同じ体験をする事は ないだろうが、それにしてもこの地上 での素晴しい体験、楽しい出来事、ワ クワクするような経験が、天国に行っ た途端、何もない永遠に静かな瞑想の 生活にとってかえられるとはどうして も信じられないのである。これから我々 が移り住む場所の素晴らしさを聖書は 「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の 心に思い浮びもしなかったことを、神 は、ご自分を愛する者たちのために備 えられた」(第一コリント 2:9)と証言 している。つまり現在我々が想像しう るどんな楽しさをも超越した、言葉で は表現できない程のあらゆる幸福があ るというのだ。もし我々が信仰によっ て天国の素晴らしさを認め、更にそこ へ行く事がどれほど単純かを知るなら ば、再臨の接近についての恐れはなく なり、SDA の青年達に再臨使命者たら しめる事を阻んできたつまずきの石が ひとつ取り除かれる。この時彼らは初 めて SDA の使命を再考する心のゆとり ができるのではないだろうか。 次に再臨信徒にとって第二のつまず きの石となっているのは「再臨なんか いつあるかわからない」という不確実 さである。まずは日曜休業令が出るま で現状維持でいこうというのが洋の東 西、年令を問わず多くのアドベンチス トに見られる態度だ。再臨運動が始まっ てから 140 余年、生きて主を迎える日 を待ち望んでいた幾世代もの人々が既 に眠りにつき、彼等の夢はまだ実現し ていない。それが今になって我々の世 代に起こると確信をもって言える根拠 はあるのか。それともこれから数十年、 数百年先とも知れないその時をただひ たすら待つしかないのだろうか。そし て現実問題としてその間、就職や結婚、 子供の教育、伝道といった仕事や生活 面において我々はどのように待てば良 いのだろう。 一つ確かなのは「あと数百年か数十 年か…」という考えは本来の SDA 思想 には無いという事だ。そもそも SDA が 教育、医療、出版、健康食品といった 事業面や、食習慣、衣服、娯楽といっ た生活面においてさえ世と分離して独 自のスタイルを打ち出したのには「す ぐに来られる主を迎える為」という 大前提があった事を忘れてはならな い。故に再臨の切迫感が薄れるなら当 然 SDA の教理やライフスタイルに影響 する。我々がパイオニア達から受け継 いだのは「あと何十年再臨が来なかっ た場合…」という生きかたではない。 ホワイト夫人を初めとするパイオニア 達の歴史観…すなわち、およそ六千年 の地球歴史は再臨をもって終り、その

後に続く千年期を経て七千年間の罪の 歴史は永久に幕を下ろすとの考えかた は独断的だろうか。オーソドックスな SDA の預言解釈によれば聖書は 19 世 紀以降を終わりの時と呼んでいる。こ の時以来、世界伝道が組織的に始まり、 また伝道の中心もヨーロッパからアメ リカへと移り、現在までの二百年間で 地球上ほぼくまなく福音は宣べ伝えら れた。そして 1844 年に最後の裁きが 始まると同時に、かねて黙示録が預言 していた「残りの民」が集められ、地 球最後の使命を担う教会、SDA の誕生 となった。以来、真理と誤謬の大争闘 はそのクライマックスに入ったのだが、 カトリックの死ぬ程の傷が癒された事 に始まり、心霊術の浸透、共産主義の 誕生、二度にわたる世界大戦と今や全 人類の存在を脅かす核兵器の脅威、か つてない高度の文明と道徳の退廃を見 た激動の 20 世紀もあと残すところ 14 年…それまでにすべては終わるのだろ うか。終わってはならない理由がある だろうか。「終わらないとは言えない が、もし終わらなかった場合の用意も しておくのがバランスのとれた信仰だ」 という意見もあるだろう。しかしあの 1844 年の再臨信徒達が「万一の時の用 意」をしておかなかったからこそ SDA という教会が誕生したのであって、彼 等がそこまで頑固一徹に再臨を信じ、 大失望を経験したからこそ現代の真理 を発見したのではなかったか。もし再 臨が起こらなかった場合、すんなりと 今までの生活と一般教会の信仰へ戻れ るような用意を彼等がしていたのなら、 わざわざ新しい教会を組織する必要も なく、歴史は大きく変ったものになっ ていただろう。当時の再臨信徒の一人 で後に預言者として召された女性の警 告に耳を傾けてみよう。 「この悪い僕は『主人の帰りが遅い』 と心の中で思っている。彼はキリスト がおいでにならないとは言わない。彼 は主の再臨という考えを嘲笑しない。 しかし心の中で、またその行為と言葉 によって主の来臨が遅いと宣言する。 彼はほかの人たちの心から主はすみ やかに来られるという確信を追い出 す。彼の影響で人々の世俗心とまひ 状態がますますひどくなる。…それは 恐るべき同化作用である。…嘲笑する 者、すなわち真理をこばむ者が僭越に なった時、各方面の金もうけ仕事が原 則を無視してくりかえされている時、研 究者が聖書以外のあらゆる知識を熱 心に求めている時、キリストは盗人の ように来られる。世のすべてのものが 激動している。時のしるしは険悪な兆 候を示している。きたるべき事件が影 を前方に投げている。神のみたまは地 上から引き上げつつあり、海と陸に次 々と災害が起こっている。嵐、地震、火 事、洪水、あらゆる種類の殺人が起こ っている。だれが将来を読むことがで きよう。どこに安全があるだろう。人に ついてもこの世についても保障は何も ない。人々は自分の選んだ旗の下に急 いで参加している。落ちつかないで彼 等は自分達の指導者達の動きを待ち、 見守っている。主の現われを待ち、見守 り、そのために働いている人達がいる。 もう一方の種類の人達は最初の大背

信者の統率下に参加している。避ける べき地獄と獲得すべき天国とがあるこ とを全心全霊から信じている人は少な い」(各時代の希望 下 p1O3-105)。 クリスチャンは主人の帰りを待つ僕 だ が、SDA は 眠 っ た 僕 達 を 叩 き 起 こ す役なのである。「花婿だ、迎えに出 なさい」というのが SDA の使命であ り、「もうしばらく待とう」とは決して 言わないのである。冒頭で述べた現在 の SDA のジレンマこそ「主人の帰りは 遅い」という信仰が産み出した実では ないだろうか。ここ数年間、特にアメ リカにおいて深刻化しつつあり、アド ベンチスト・レビュー誌にも特集号が 出されるようになった SDA の飲酒、離 婚問題、更には一般ジャーナリスト達 からさえ叩かれるようになったユニオ ン・カンファレンスのレベルでの汚職 とそれにからむ 80 億円の損失を出した ダボンポート倒産事件、ABC 対アンド リュース大学教授プラクターの裁判で ABC が独占禁止法に触れて敗れ、PPA (パシフィックプレス)で女性職員と男 性職員の給料差額が引き起こした訴訟 で PPA が編集員マックリオドに敗れた 例、SDA 医師による中絶に失敗して生 き残ったマルコ・ホップス君の裁判、 SDA 同性愛者だけのキャンプミーティ ング、教会堂で性的小児虐待を重ねて いた教会執事ケン・カーペンター逮捕、 アンドリュース大学学長ジョセフ・ス ムート博士が私服警官に性的暴行を加 えようとしたかどで逮捕され辞任した 例(法廷での本人の証言では彼を失墜 させようとの企みだと主張している)、 最も基本的な教理に関する神学者達の 不一致、預言者に対する不信、最近殉 教者まで出した共産圏の忠実な SDA 信 徒に対するカンファレンスの迫害、そ して下降線をたどる一方の諸献金とう なぎ上りを続ける医療、教育機関の負 債や政府の援助に頼る傾向(例えば北 米の全アドベンチスト病院を包括する SDA ヘルス・システム Inc. の債務は合 計約 10 億ドル= 2000 億円だと報告さ れている)等…十年前までは考えられ なかったようなニュースが TV、新聞、 週刊誌といった一般のメディアにすっ ぱ抜かれるようになったのはごく最近 の事である。それぞれに理由はあるだ ろうが、SDA の恥部が異邦人達の目に さらされるようになった今日、これら 教会の霊性のバロメーターは何を警告 しているのだろうか。「まだまだ」とい う信仰が既に結び始めたこれらの実を 見る時、我々はこれ以上事態を放って おいて良いのだろうか。再臨を待ちく たびれたラオデキヤの症状は時間の経 過とともに悪化しつつある。たまにメ キシコの地震を聞いたり、コロンビア で噴火があったり、日航機やスペース シャトルが落ちたりするのを聞くと何 となく再臨が近いのを感じる。しかし、 世の中が平和を取り戻すとまた元の生 温い生活に戻り、更に深い霊的不感症 におちいってしまう。日曜休業令の噂 も出たり、引っ込んだりを繰り返すう ちに狼少年の叫びのように誰も反応し なくなる。一つ一つの出来事を取り立 てて騒いでいたのではきりがない、確 かな証拠が与えられるまでは何も言わ ない方が無難だ、とでも言いたいかの

ように。そもそも「花婿だ、出なさい」 と言うべき SDA が “ 待つ ” という消極 的かつ懐疑的な姿勢に甘んじているの が問題ではないだろうか。

第三章 足りない事が一つある

再臨とはただ待つものだとばかり 思っていた私の目を開き、希望を与え てくれたのは次の証の書の言葉だった。 「救い主の来臨を待ち望むばかりで なく、これを早めることがすべてのクリ スチャンの特権である」(患難から栄光 へ 下 p308;実物教訓 p47)。 いつ再臨が起こるかに我々が関与し ているというのだ。私の行動いかんに よってはそれが早くも遅くもなるのだ。 では、再臨を早めるにはどうしたらよ いのか。 「世に福音を伝える事によって、主の 再臨を早める事が我々の力で出来る。 我々は神の日の到来を待っているだけ でなく、これを早めるのである」(各時 代の希望 下 p101;祝福の山 p136)。 なるほど、伝道が早く完了すればそ れだけ早く再臨が実現するわけだ。そ うとわかればともかく目標がはっきり する。今や我々の考えなければならな いのは、いかにして世界中に福音を伝 えるかである。ここで再びヴェンデン 先生に登場願うが、子供の頃、彼が考 えた伝道計画は誰でも一度は考えそう なたぐいのものだ。まず各国語で安息 日などについてのビラを大量印刷する。 それから飛行機をいくつもチャーター し、世界中にそれをバラまく。こうし て真理の無差別爆撃により、またたく 間に福音宣伝の任務は完了し、キリス トはおいでになる !? この子供らしい発 想を笑う我々とて、結構同じような物 の考え方をしているのかもしれない。 我々はともすれば、伝道の成果はいか に多くの人々に聞かせ、読ませるかに かかっているかのように錯覚しがちだ。 雑誌の発行部数を増やし、TV やラジオ を視聴率の高い時間帯に流し、大都市 での講演会々場の確保 PR に大金をかけ て多くのターゲットを一度に狙う方法 は確かに合理的といえるかもしれない。 しかしどんなに多くの人々に読ませ、 聞かせようが受ける側の霊の眼が開か れない限り実は結ばない(第一コリン ト 2:14)のを我々はイヤというほど知っ ている。真理を人々に納得させるのは 聖霊の働きである。 「聖霊と神の力がなければ真理を伝 える為に我々が働くのは無駄である」 (5T p158)。 聖霊は現在も働いているだろうか? 勿論、言うまでもない。それではどう して今日の日本において伝道の成果が 上がらないのか。単に世代や宗教観の 違いのせいだろうか。聖霊はそれぐら い克服するだけの力がないのだろうか。 「我々が聖霊を用いる事はできない。

みたまが我々を用いて下さるのである」 (各時代の希望 下 p158)。 主導権は聖霊にある。だとすれば聖 霊が働けないような方法、思想、状況 を造り出したかもしれない我々に責任 があるのではないか。自分本位の伝道 に聖霊の協力を要請するような僭越さ が我々にはなかっただろうか。本来な らば、まず我々が謙遜に聖霊の指示を 仰がねばならない筈である。最後の働 きはペンテコステを上回るものになる とホワイト夫人は言われたが、ではど うすれば弟子達のように、否、それ以 上に真に満たされて働きを完結させる 事ができるのだろうか。何が聖霊降下 を阻んでいるのか。 今までのポイントをまとめるとこう なる。現代 SDA(特に青年達)の低迷は; ① 何故 SDA かという理由づけがなさ れていない為で、この教会の目的、使 命が知らされていない事に起因する。 ② 何故 SDA の使命や、存在価値が見 失われたかというと、再臨信仰から離 れたからである。もはや再臨の切迫を 信じていないし、望んでもいない。 ③ 何故再臨を望んでいないかといえ ば、「まだ準備が出来ていない」「まだ この世での楽しみを失いたくない」と いう恐れがあるからで、それらは福音 を理解する事によって解決する。 ④ 再臨信仰を弱める最大の要素は 「いつあるのかわかりやしない」という 不信だが、再臨とは SDA の状態によっ て早くも遅くもなるとの重大な事実に 気づいていない。 ⑤ 再臨を早める為には福音を全世界 に理解させねばならないが、それを可 能にする聖霊の力が教会に欠けている。 では一体どうすれば聖霊の力を得ら れるのか。この一事に SDA の明日が、 ひいては全世界の運命がかかっている と言っても過言ではないだろう。 「聖霊は働きをするのに用いることが できる通路を待っておられる。…神の 霊はそれを受ける用意が常にでき次 第、教会に注がれるのである」(彼を知 る為に p330)。 「もしも我々が神に器を提供するなら ば神は働きをなさる」(9T p107)。 なるほど、聖霊は我々がそれを受け る準備ができるのを待っておられるわ けだ。その準備はそっちのけで勝手に 伝道、伝道と走り回ったとしても世界 伝道はいつまでもおぼつかない筈だ。 では聖霊を受けるにはどう準備すれば よいのか、そしてその為にはどれくら いの期間を要するのか。 「我々の品性の欠点を改め、心の宮の すべての汚れを清めることは、我々に ゆだねられている仕事である。その

時に秋の雨がペンテコステの日に弟子 達に下ったように、春の雨(後の雨)が 我々の上に下るのである」(教会への 証 5巻 p214)。 「すべての陥りやすい罪、高慢、利己 心、世を愛する心、すべての悪い言葉 と行為とに勝利した者でなければ『 慰め』注:後の雨)にあずかることがで きないのをわたしは見た」(初代文集 p71)。 案の定、恐れていた事がついに宣言 されてしまった。聖霊を受ける為の条 件、それは清めである。我々が「全て の汚れを清め」なければ後の雨は与え られず、後の雨による聖霊降下なくし て伝道は進まない。これでは再臨の可 能性はますます薄らいでゆくようだ。 そもそも、今まで再臨が起こらなかっ た事自体、どれ程清めが困難で時間の かかるプロセスであるかを物語ってい ないだろうか。パイオニア達やホワイ ト夫人自身さえそのテストに合格しな かったのだろうか。もしこれらの敬虔 で献身的だった指導者達が一生かかっ ても聖霊を受け損じたとすれば我々の ような者には何年かかるというのだろ う。もし聖霊を受ける為の清めに関し て我々が彼らを上回らねばならないと したら、どれ程の完全を要求されるの だろう。率直に言って、彼等はどれく らい清かったのだろう?私自身興味を 抱いたので教会歴史を少しかじってみ た。預言者が生きていた頃の教会は今 と違ってさぞ熱心で標準の高い人々ば かりだったに違いないと思っていた私 は意外な事実を発見した。 1844 年の大失望以後、神の導きを疑 わなかった一団は聖書研究と預言の霊 の導きによって一つずつ真理を示され ていった。1845 年から 1848 年にかけ て「残りの民」或いは「小さな群れ」 と称するこのグループは教理的にもま とまり、ここに SDA の母体が出来上がっ た。その年からホワイト夫人は出版物 に記事を書くようになったが、彼女の 言葉を年代順に追ってみると当時の再 臨信徒達の状態がよくわかる。 1848 年から 1851 年までの記事は主 に彼女が見た幻の説明であり、再臨の 遅延はすべての再臨信徒がまだ印され ていないからで、この待ち時間に彼ら の信仰が試される、といったような励 ましの内容である。ところが 1852 年に なると彼女は初めてラオデキヤという 名称を再臨信徒にあてはめ、譴責のメッ セージを送るようになる。同年 6 月 10 日のレビュー&ヘラルド紙の記事だが 初代文集の 205 ページにそれを読む事 ができる。
1852 6/10RH 「キリストが速やかに来られる事を待 望していると公言する人々は「ほんの 少し前に離れてきた名目的教会のよう に冷たく形式的でラオデキヤ教会にあ てられた言葉が彼らの現状を完全に 描写している。」彼らは「世俗の人々と 同様に装い、語り、行動している。」もし

今日キリストが再臨信徒と共にいたな ら「彼のしみのない自己犠牲的生活は 彼らを責め、彼の聖なる厳粛さは彼ら の軽率さやむなしい笑いを抑制する苦 しいものとなるだろう。」 ※この年、教会は初めて自分達の印 刷所を設け、定期刊行物やパンフレッ トの出版に力を入れるようになるのだ が、霊的には下降線をたどっていたよ うだ。
1853 2/17RH 教会は「キリストが間もなく来られるこ とと、我々は罪の世界に伝えるべき最 後のあわれみの使命を持っていること を心から信じているだろうか。…娯楽 やこの世に心を向けさせる物の追求 が多すぎる。心は衣服のことに奪われ すぎ、舌は軽率でつまらぬ話をしすぎ て我々の告白が偽りであることを示し ている」(初代文集 p210~)。 ※この年、初めて安息日学校が組織 的に始まり、最初の教会学校が発足し たのだが、ラオデキヤ状態は深まる一 方だったのだ。

1854 経験と幻の補遺 「わたしは残りの民がこの地上に起こ ろうとしている事のために準備をして いないのを見た。最後の使命を持って いるという信仰を公言する人々の大部 分は昏睡状態のような無感覚に陥っ ている。」「わたしは神の民が…ある者 は時の短いことや魂の価値について、 全くといっていいほど自覚を失ってい るのを見た。安息日遵守者の中に、誇 り、すなわち、衣服や外観の誇りが忍 び込んできている」(初代文集 p222- 224)。

1855 証 「自己否定と犠牲の精神がこの教会から 殆ど消えた」(1T 115)。「最近幻があま り与えられなくなった理由は教会がそれら を快く受け入れない為であるのを、示さ れた」(同 119)。「天使が若者達 を天秤 ではかっている。小説、衣服や見せびら かしへの執着、虚栄心、プライドはすべ て量られる」(同 214)。 ※この年、教会は本部をバトルクリー クに据え、出版社も組織され、いよい よ本格的な伝道態勢が固まってきたの だが、サタンは確実に内部から崩しに かかっていた。

 1856 証 5/27の幻:亡びに至る広い道を多くの 再臨信徒たちが世俗の人々と共に歩 んでおり、彼らは表情こそ少し暗いが それ以外はまわりの人々と何等変わ らない。再臨信徒の衣には「世に対し て死んだ者」「終末はすぐそこまで来 ている」「汝も備えをせよ」といった文 句が書いてある。彼らはまわりの陽気

で思慮の浅い人々と同じ会話をして いるが、時々自分達の衣に書いてある 警告を指差して他の人々にも同じ言 葉を書くように勧める。まわりの人々は 一向意に介せず、「我々は同じだ。衣服 も、会話も、行いもあなた達と全く変 わらないではないか」と言った。かつ て1843,44年当時は現在では見られ ない献身の精神があったのに、今や 世との妥協、真理の為に犠牲を払うの を惜しむ傾向、神の御旨に対する不服 従などで満ちているのを示された(1T 127,128)。
1857 証 教 会は生ぬるく、青 年 達の内、半 分 も悔い改めていない(青年への使命 p125;1T154~)。彼らは世俗的な事 柄についておしゃべりするのは好きだ が、神の真理が話題にのぼると黙って 何も言う事がない。 1859 証 「ラオデキヤへの勧告は現時点にお ける神の民にあてはまる事を私は示さ れた。より大きな働きがなされていな いのは、彼らの心がかたくなな故であ る」(1T 185)。 この年、什一献金が組織的にスター トしたのだが、再びラオデキヤの名称 があてはめられている。 1860 証 「私は神の民の低い状態を見せられ た。神が彼らから離れたのではなく、 彼らが神から離れ、生ぬるくなったの である。彼らは真理の理論は持ってい るが、その救いの力に欠けている」(lT 185)。「教団の指導者達はプライドが ありすぎてホワイト夫人の勧告を受け 入れようとしない。幻は信じると公言す るが、自分が譴責されるとそれはホワ イト夫人自身の意見だと言って、神か らのものとして受け入れない」(同283)。 ※この年、SDA の名称が採用される に至って教会はいよいよ組織としてま とまってきた筈なのだが、既に預言の 宝に対する不信が根を下ろしていた。
1861 証 「パーティー、見せ物のたぐいは神が 禁じられているのに、多くがこれらは健 全な娯楽だと軽く考えている。信徒達 はファッションを偶像にしており、牧師 達の多くはジェームス・ホワイトに敵対 心を抱き、不一致、批判の精神で満ち ている」(1T 269~)。 ※この年、初めて教会組織の基礎が しかれたが、思想的にはかなり分裂し ていたようだ。

1862 証 「私は今日のイスラエルについて憂慮させられる。…彼らは眠り込んでおり、 世に妥協しすぎていて誰が神に仕える 者で誰がそうでないのか見分けがつ かない。キリストとその民の間は離れ、 世と彼らの距離はいよいよせばまって いる。キリストの信仰を言いあらわす 者達と世人との違いをあらわす特徴は ほとんど失われてしまった。古代イスラ エルのように彼等はまわりの国々の偶 像礼拝に倣っている」(1T 277)。 ※この年、六つの州に部会が設立さ れ、ミシガン部会では教役者に初の給 料が支給されたのだが、繁栄の裏には 世との妥協が。
1863 証 「牧師も信徒も霊性に欠ける。すべてふ るわれるべき者はふるい落とされる」(1T 355)。 ※この年総会が組織され、健康改革 の幻も与えられた。当時の教会員は牧 師が約 30 名に信徒 3500 名である。
1864 証 服装改革の必要…「正しく四肢を被 っている女性は千人に一人もいない」 (1T481)。当時の流行は長過ぎ、膨 らみ過ぎ、重過ぎで非健康的であり、 その 正 反 対 の 流 行であるアメリカ ン・コスチュームは男性的なスラック スのファッションで、これは慎みがな く、多くの性犯罪を招く事になる。 1865 証 SDAは健康改革を怠っており、味覚 と食欲とが彼等の偶像になってい る。健康改革は第三天使の使命の一 部であり、神の民は大いなる叫びを 伝える準備が出来ていない。また牧 師達は高慢で「愚かな安息日遵守者 達は牧師を賞賛する事によってサタン を喜ばせている」。「決して牧師に面と 向かってほめ言葉を使わないように」 (1T 475)。 ※この年、再び健康改革の幻が与え られて医療機関を設立すべき事が示さ れた。健康に関するパンフレットがさっ そく出版され、翌年にはバトルクリー クに小規模なサニタリアムがオープン するのだが、信徒達のテーブルからは、 まだエジプトの肉鍋が姿を消してはい なかったようだ。
1867 証 若者達の内「20人に1人も経験を伴っ た宗教を知っていないのを見せられ た。彼らはいつでも何か変わった事、 娯楽に対する自分たちの欲求を満た してくれるものを追い求めている」(lT 500)。「写真や音楽が若者の偶像にさ れている」(青年への使命 p319)。

 1868 証 道徳的退廃…「健康がすぐれない信 徒の為に祈るよう頼まれたが、幻で彼 が自慰行為に溺れているのを示され 拒否した。大人も子供もこの悪習慣の 虜になっている。再臨を待っていると 公言する者達ですらサタン以上に準備 が出来ていない」(2T349;家庭の教育 p486)。「信徒達は夫以外の男性に家 庭の問題をうち明けたり、妻以外の女 性にうち明けたりして多くの罪を引き 起こしている」(2T300,89)。「神がその 民の滅びるのを望んでおられないのが これほどまでの(再臨の)遅延の理由 である」(同149)。 1869 証 「かつてのイスラエルのようにこの教 会は光から離れ、義務を怠り…神を汚 した。…誇り、快楽を愛する心、罪が彼 らの内にあり…キリストは彼等を離れ 去られた。聖霊はこの教会からしめ出 された」(2T 441)。

1870 証 「私に示されたところによれば今真理 を信じると公言、している人々の内、ほ んの少数しか救われない」(2T 445)。 ※ 1870 年春、世界総会本部である バトルクリーク教会は 400 人以上いた 教会員がたったの 12 名にまで粛清され た。
1871 証 「安息日の大部分を寝て過ごすのは 神の不興を買っている」(2T704)。牧 師達の不一致…ジェームス・ホワイト に対する不信と、つぶやきが後を絶 たない。
1873 証 「まことの証人の明らかなメッセージ も効を奏していないのが示された。… 多くの者はどうしてこんなに譴責ばか りよこすのだろうといぶかる。どうして 証の書はいつまでも我々を背教してい るだとか、恐るべき罪を犯しているなど と責めるのか。我々は真理を愛してい るし、発展しつつあるし、こんな警告や 譴責は必要ない、と。神の民が今や霊 的盲目状態にある最大の理由は彼ら が正されようとしない事である。証の 書の警告と譴責に対する不信は神の 民から光をしめ出しているのを示され た」(3T 254,255)。
1875 証 「サタンの主な働きは我々の教団本 部においてなされている。彼は責任の ある立場にいる者を堕落させるのに 努力を惜しまない。…これらの人々は 砦を敵の手に明け渡す裏切り行為をし ている。」「証の書に対する神の民の信 仰を弱めるのがサタンの計画である。 次に我々の信仰の柱石の一つ一つに

対して不信を抱かせ、更には聖書に対 する不信、そして破滅へと導く。」 「一度信じていた証の書を疑い、拒む ようになる人はそこでとどまらないの をサタンは知っていて、その人が公に 反抗し、救いようがなくなるまで努力を 倍加する」(4T 210,211)。 ※この年、SDA 初の教育機関バトル クリークカレッジが開校した。その前 年から建設は始まっていたが、田舎に 建てよというホワイト夫人の幾度もの 勧告はしりぞけられバトルクリーク市 内で工事が開始した時、彼女は泣かれ た。しかもそれまでバトルクリークで 塾を開き原則に忠実だったウッドロー・ ベルの替わりに、当時 SDA で大学卒の 資格を持っている唯一の人物であった シドニー・ブラウンズバーガーが学長 に選ばれた(ジェームス・ホワイトは 29 週間、エレン・ホワイトは約 3 年間 の学歴しかなかった当時の事である)。 ようやくスタートしたカレッジはホワ イト夫人が望んでいたものとは程遠い 内容だった。労作教育は皆無に等しく、 30 いくつある学科は他の大学と変わら ず、ただ聖書が申し訳程度に上級生の 夜のクラスとして週に何度かあるだけ だった。
1879 証 「彼らは時々まどろみから目を覚ます が、また更に深い眠りへと引き込まれ る。…彼らがはっきりと目を覚まさない ならば神は彼らに与えた光と恵みを取 りさられる。神はいきどおって燭台を その置いてある場所から取り除かれる」 (4T 286)。 ※この年、教団第二の病院セント・ ヘレナサニタリアムがカリフォルニア でオープンし、西海岸での働きも目覚 ましく進展しつつあったのだが、教会 の霊的状態はいよいよ深刻になりつつ あった。 1881 証 「神の忍耐にも限度があり、多くの者 がその限度を越えつつある。」「最も大 いなる光と特権を与えられていた者達 が悪に染まっていく事実には震撼させ られる。」「(エゼキエル9章引用)教会 すなわち主の聖所が最初に神の怒り に触れる。老人すなわち神が大いなる 光を与えた民の霊的指導者達はその 信任を裏切った。…時代は変わった。」 「大いなる光を与えられ、福音宣伝に 伴う力を体験した者達から主が離れる 時、主は快くそれをなさるのではない。 彼らはかつて主とともにあり、主に導 かれる忠実な僕だった。しかし彼らは 主から離れ、他の人々を誤りに導き、 神の不興を買っている」(5T 211)。 ※この年、バトルクリークカレッジ では道徳風紀の乱れが特にひどくなっ た。卒業生の殆どは教会を出て公立学 校教職に就き、在学生はミシガン大学 アン・アーバー校に転校していく者が 第三章 足りない事が一つある 23 多かった。ブラウンズバーガーは辞任 し、アレクサンダー・マクラーン教授 に替わったが、この学長は SDA 信徒で もなかった。何故彼が推薦されたか? 当時としては貴重な Ph.D(博士号)を 持っていたからである。
1882 証 「イエスが今日、御自分の弟子である と公言する者達を御覧になる時、感謝 の無さ、中身のない形式主義、偽善、 不誠実、パリサイ的虚栄心、背教を見 られる」。「人々が神から離れるにつ れ、証の書に対する不信が確実に高ま ってきたのを私は見せられた。その傾 向は教会のいたる所で見られる。」「証 の書は読まれず、快く思われていない。 」「牧師達の多くが汚れている。彼らの 心は腐敗し、その手は清くない。」幻の 中で「私はバトルクリーク(世界総会本 部)にいるように感じた。そこはあなた がたの委員会の最中だった。私はそこ で語られた言葉を聞いたが、もし神が 許されるなら永久に記憶から消し去り たい内容だった。…ある事柄について は述べる事ができない。この事に関し て誰にも知らせてはならないと止めら れたからである。多くの事が更に進め られようとしている。」「教会はその指 導者キリストに従う事をやめ、確実に エジプトに後退しつつある。」「しかし一 般にこの教会は成長しつつあり、繁栄 と平和がすぐそこまで来ているものと 考えられている」(5T 217)。 ※ 1882 ~ 83 年の間、バトルクリー クカレッジは開校七年目にして遂に閉 校を余儀無くされた。一方、より証の 書に従った PUC(当時へルズハーグア カデミー)と AUC(サウスランカスター アカデミー)の 2 校がそれぞれベルと ブラウンズバーガーによって始められ た。同年 3/28、ホワイト夫人は R & H 編集長ユライヤ・スミスあてに「重要 な証」と題して譴責を送り、それを指 導者達の前で読むよう言った。その要 求は拒まれたが、譴責の内容は教育改 革と健康改革の訴えだった。更に 6/2、 再び「証の拒否」と題して今度は世界 総会へ別の勧告を送ったが、「神はあな たがたの好む惑わしをあなたがたが信 じるままにまかされる。」「これ以上民 の間に預言はなくなり、民を覚醒させ た声は彼らの眠りをさます事ができな くなるかもしれない」と結んだ。
1883 EV697 「我々をこの罪と悲しみの世にこんなに長 くひきとめているのは不信仰、世俗の精 神、献身の念の無さ、そして主の民と称 する人々の間の争いである。」「キリストの 再臨がこのように遅れることは神のみ旨で はなかった。神はその民イスラエルが荒 野で 40 年もさまようようにとは計画され なかった。神は彼らをカナンの地へまっす ぐ導き、そこに…永住させようと約束され た。しかしそれが最初に約束された者達 は『不信仰のゆえに』その地に入る事を しなかった。彼らの心はつぶやき、反抗、
そして憎しみで満ちていたので神は彼ら に対するその契約を果す事がおできにな らなかった。…同じ罪が現代のイスラエ ルが天のカナンへ入る事を阻んでいる。」 ※翌 1884 年、ホワイト夫人はユライ ヤ・スミスがまだ悔改めておらず、証 の書を受入れようともしないのは、肉 食の為に判断が狂っているせいだ、と 書き、世界総会総理ジョージ・バトラー も肉食を改めていないと譴責した。当 時、まだ SDA の各教育機関、医療機関 では肉食が主だったようで、牧師や医 者達もまだ健康改革を実行してはいな かった。しかしホワイト夫人自身も完 全菜食に切り替えたのは 1894 年、オー ストラリアでの事であり、指導者達は 彼女もまだ食べているではないか、と いうのを言い訳にしていた。 1886 SM376,377 「我々は神が望んでおられるような状 態とはかけ離れている。」 1887 COR32 「この恐ろしく厳粛な時代における我 々の状態とはどのようなものだろうか? 悲しい事に何という虚栄心、何という 偽善、何という衣服や快楽への執着 心、何という競争心!」 ※ 86,87 年とロシアやアフリカを初 めとする世界伝道が展開していったの だが、教会全体はもう引き返せないほ ど、ラオデキヤ状態に陥っていた。 長々と引用したが、これだけ譴責が 並ぶとよっぽどホワイト夫人がやかま しく悲観的な人だったのか、それとも 教会がよっぽど墜落していたのか考え 込んでしまう。何しろ、これでも「教 会への証」のごく一部を要約しただけ であり(教会に良い評価が与えられて いるのはどんなに多く見積もっても半 分以下である。そもそも「教会への証」 が書かれたのは教会を正す為であった 事を考えればごく当然だろう)、ホワイ ト夫人はこれ以外にもレビュー&ヘラ ルド、ユース・インストラクター等と いった定期刊行物や個人的な手紙でさ らに数多くの叱責を与えている。あま り公にはされないが、記録によれば総 理を含む世界総会の指導者の面々でさ え、何度も名指しでホワイト夫人に叱 られ、しかも往々にしてそのメッセー ジに反抗し、これらの勧告はホワイト 夫人の個人的手紙だと言い逃れていた のであり、一方ホワイト夫妻もマネー ジメントの面でいつも理にかなった行 動をとっていたとは限らないのである。 いずれにしろ再臨をこれだけ遅らせた のは事実であり、誰が悪い、というよ りは教会の連帯責任としてとるべきだ ろう。教会は熱心に待っていたのに再 臨はなかったのではない。当時の教会 が再臨の準備も聖霊を受ける準備もで きていなかった事は明らかである。や はり聖霊をとどめていた理由があった のだ。しかも更に驚くべき事実が教会 歴史には秘められていた。

第四章 1888年の謎
さて、更に歴史をたどり続けた私は 実に驚くべき発見をした。ある時を境 に次のような言葉が預言者によって語 られ始めたのだ。 「今や試練の時が来ている。第三天使 の使命の大いなる叫びは、罪を許した もうキリストの義が示された事によっ て既に開始されているからである。こ れが全地を栄光で満たす天使の光の 始まりである」(1SM 363)。 「第三天使の大いなる叫びは罪を許 したもう贖い主、キリストの義が現れ た時に、既に始まっていた。これこそ全 地を栄光で満たす天使の光の始まり である」(RH 1892 11/22)。 ここで「キリストの義が示された」 と言うのは、かの有名な 1888 年ミネア ポリス世界総会での出来事を指してい るのだが、この時から大いなる叫びが 始まったとある。大いなる叫びは後の 雨がもたらすのだから、当然、後の雨 も降り始めた事になる。もしこれが本 当だとすれば、「全ての汚れが清まるま で」聖霊降下は無い、との先の言葉は どうなったのだろう。その時点で完全 に清まった人々が出現したのだろうか。 一体何が 1888 年の世界総会で起こった のだろう。記録によれば、A.T. ジョー ンズと E.J. ワゴナーというサインズの 編集長をしていた二人の青年牧師が「信 仰による義」をかつてなかった程正し く説き、一大リバイバルを巻き起こし たとあるが、それほどの影響を及ぼし た彼等のメッセージはどのようなもの だったのか。それはかつてマルチン・ ルターか説き、今日我々もよく耳にす る「信仰による義」とは異なるのだろ うか。一つはっきりしているのは、ル ターや我々の「信仰による義」は後の 雨をもたらしていないという事実だ。 「ワゴナー兄弟がミネアポリスでこれ らの考えを提示した時、私が聞いた限 りではこの問題に関して人間のロから 語られた最初の明確な教えであった」 (MS 5,1889)。 ジョーンズとワゴナーの「信仰によ る義」は 99%の教会員がラオデキヤ状 態にあった当時(少なくともホワイト 夫人はそう証言した)、1888 ~ 1893 年 の SDA 教会に後の雨をもたらした。そ して「完全な清め」が後の雨に先行し なければならないなら、1888 年のメッ セージには「完全な清め」の謎を解く 鍵があるのかもしれない。それは取り もなおさず、99.9%以上(?)の信徒 がラオデキヤ状態にある今日の SDA 教 会にも、希望と可能性を与えてくれる 慰めのおとずれと言えるだろう。 「主はその大いなる憐れみのうちに
ジョーンズとワゴナー兄弟を通して自 分の民に最も貴重なメッセージを与 えられた。…民がちょうど必要としてい たものを、神は使命者達に与えられた」 (TM 300)。 「A.T.ジョーンズとE.J.ワゴナーによっ て我々に伝えられたメッセージは、神 のラオデキヤに対するメッセージであ る」(手紙 S 24,1892)。 当時の社会情勢を歴史的に見ても、 何かが起ころうとしていたのは事実で ある。 「危機が世界に臨もうとしている。歴 史上最も重大な願いが我々の目前に ある。預言されていた事件が今や我々 の目の前で展開しつつある」(5T711)。 「宗教由由を拘束しようとの働きが今 なされつつあるのを我々は見る。日曜 問題は多くの関心を集めている。憲法 改正案が国会で盛んに討議されてい るが、これが通れば必ずや迫害が起こ る」(RH 1888 12/18)。 この年、合衆国国会においてニュー ハンプシャー州代表上院議員ヘンリー・ B・プレイヤーは日曜国家休業令及び 憲法改正案を提出した。これを強力に 支持したのがメソジスト、長老派、バ プテストの各教派並びに酒類取締り法 を提唱する教会団体であった(1880 ~ 1890 年までの間に 130 人の SDA がカ リフォルニア、テネシー、ジョージア、 アーカンソー州法により逮捕、投獄、 罰金という刑を課された)。ジョーンズ はミネアポリスでの総会が終ると、す ぐその足でワシントン D.C. へ向い、米 国上院教育及労働委員会で反論し、議 員達の説得に努めた。 「我々がこんなに長いこと怠ってきた この働きを完成するまで、この災害が 遅らされるよう熱心な祈りが天に届か ねばならない。恐らくは神の民が目を さまし、光を掲げる為の猶予がまだ与 えられるかもしれない」(5T 714)。 もしこの時に教会が「信仰による義」 のメッセージを理解し、受け入れたな ら「働きは山火事のように広がり」「最 終使命は急速に」伝えられる筈だった。 この重大な時にもたれたのがミネア ポリス世界総会だったが、ジョーンズ とワゴナーのメッセージはそこでどの ような反響を呼んだだろうか?ホワイ ト夫人はこう証言している。真理を「調 べようとするよりは反対しようという のがこの総会の雰囲気だった」と(MS 95 1888)。 「兄弟達よ、私はあなたがたの危険が 見えるので警告したい。…もし牧師達 がこの光を受け入れないなら、私は信 徒達にチャンスを与えたいと思う。もし かしたら彼らはそれを受け入れるかも しれない。…丁度ユダヤ人がそうだっ たように」(MS 9 1888 10/24)。 この光に対して当時の指導者達は、
 ①多くの反対者、②中立、③少数の賛 成者といった三つのグループにわかれ た。反対派は世界総会総理ジョージ・ バトラー、総会書記ユライヤ・スミス を筆頭にミシガン部会総理バンホーン、 ヨーロッパ部会総理コンラディ、アイ オワ部会総理モリソン、バトルクリー クカレッジ学長リトルジョン、オハイ オ部会総理アンダーウッド、テキサス 部会総理キルゴア一等であり、他にも 多くの代議員たちがジョーンズやワゴ ナ一に好感を持っていなかった。何度 かにわたるホワイト夫人の仲裁と、強 力な支持がなかったなら、ワゴナーと ジョーンズのメッセージは静かに葬り 去られただろう(総会中の、両氏の講 義は速記されていたものの、他の報告 と一緒に総会ブリテンに載せられな かったという事実がある)。しかしこう なる事を 6 年も前からホワイト夫人が 預言していたのには更に驚かされる。 1882 「主は学識があって名誉ある人々を拒 まれた。…神は今日、多くの者が予想 もしていないような働きをなさろうとし ている。主は教育機関での外面的訓練 よりも、聖霊によって教えられた者を起 こし、高められる」(5T 82)。 「知性、機転、能力に頼ってきた者達 は先頭に立たなくなる。…最後の厳粛 な働きに多くの偉大な人物は参加し ない。」 「外面的には荒削りで、魅力に乏しい 人物の内に真のクリスチャン品性の輝 きが現わされるようになるかもしれな い」(5T 80~81)。 ※この年、27 歳でバトルクリーク・ サニタリアムの医者だったワゴナーは PUC でのキャンプミーティング中に新 生を体験し牧師を志すようになり、同 時に信仰による義を研究し始めた事は 単なる偶然ではないようだ。 1885 世界総会総理と他の指導者達が「自 分達の任務に目覚めない限り、第三天 使の大いなる叫びが聞かれる時に、 彼等は神の働きを認める事が出来な いだろう。地を明るくする為に光が輝 く時、主の働きを助ける代りに自分達 の狭い考えでそれを縛ろうとするだろ う。…働き人達は主が御自分の義の働 きを成し遂げる為に用いられる単純な 器に驚かされる」(TM 300)。 この年、35 歳の元陸軍上等兵ジョー ンズは数年の牧会経験の後にワゴナー と共にサインズ編集長に抜擢され、信 仰による義を説き始めたのもまた、偶 然の一致ではなかったようだ。 さて心配した通り、指導者達が快く 受け入れないのを見たホワイト夫人は 自らジョーンズ、ワゴナーと共に地方 を廻ってはリバイバル集会を持ち始めた。

「世界総会以来の各集会において 人々はキリストの義の尊いメッセージ を熱心に受け入れた。…今こそ、恵み の機会と特権の時である」(RH1889 7/23)。 「私はキリストの義のメッセージが説 かれている集会をあちこち訪れた。私 は兄弟方(ジョーンズとワゴナー)の側 に立ち、この時代に対するメッセージ を証しできる事は特権だと思った。ま たこのメッセージが語られた所はどこ でも神の力が共にあるのを感じたの である」(RH 1890 3/18)。 「私はリバイバルの働きがこれほど徹 底的に行なわれ、それでいてなお過度 の興奮のない集会をこれまで見たこと がなかった。特に強く勧めたり、招いた 訳ではないが、…正直な人々は罪を告 白し、自分の知る限り悔改め、正すべ き事は正して神への実を結んだ」(RH 1889 3/5)。 それまでホワイト夫人は特定の人々 の働きをこれほど高く評価した事はな かったので、ベテラン指導者達の間に 嫉妬心が起こったのも無理からぬ事か もしれない。 ともかくこれらのリバイバルも指導 者達の目を開く事は出来なかったよう である。 「神が人々を覚醒させようと働いてお られるにもかかわらず、彼らは警告、譴 責、懇請の使命をわきに押しやろうと する」(RH 1889 8/13)。 「指導者達はいつまで神のメッセー ジに無関心のままでいようとするのか」 (RH 1890 3/1)。 「神はこの時代のためのご自分の仕 事をなさろうとして使者達をお召しに なった。しかし、すでにある人々はキリ ストの義のメッセージに背を向けそれ を伝達する人々を批評している」(RH 1890 5/20)。 「神はその民に悔い改めて彼らの最 初の仕事をするよう覚醒のメッセージ を送られた。しかし神のメッセージはど のように受け入れられただろうか。耳 を傾ける者もいたが、他の者は取り合 おうともせず、そのメッセージと使者を 非難している」(RH増刊号 1890 12/23)。 不信はさらにジョーンズとワゴナー を支持してやまないホワイト夫人にも 向けられた。 「(以前)あなたがたはホワイト夫人の 正しさに確信をもっていた。しかし今 はどういうわけか、ホワイト夫人に対す るその信仰が変わってしまった」(MS9 1888 10/24)。 「私からの証をこれほどたくさん受け 取ったにもかかわらず、そのメッセー ジを拒み続けるこの教会に対し、働き かけるだけの力を私は持たない。…私 がこれ以上何を言っても状態が良くな るとは思わない。彼らは神の霊の訴え

を退けた。彼らのかたくなさを打ち砕 くための力を神がこれ以上持っておら れるとは思わない。…私は未信者に話 すほうがずっと気楽である。彼らは興 味を示し、それらが神の霊感によって 語られた言葉のようだと言う。ああ、多 くの光を与えられた指導者達がいるそ の場所こそ、世界で最も語るのが困難 な場所である。彼らは真理を示された が、光より闇を選んだ。そのかたくなな 不信の結ぶ実がどのようなものか明 らかになるのはこれからである」(手紙 1890 9/18)。 これ以上の譴責に耐えられなかった かのように 1891 年世界総会はホワイト 夫人を開拓中のオーストラリアへ派遣 し、翌 1892 年にワゴナーはイギリス へ送られた(ジョーンズは総会の翌年 から世界総会の膝元バトルクリークカ レッジに転職配置され、一部の指導者 達は彼のクラスの内容まで干渉しよう とした)。オーストラリアへ向かうホワ イト夫人はこの世界総会の決定は「主 から何の光も与えられていない」と日 記に書いたが、後に幻でオーストラリ ア滞在が無駄に終わらない事を約束さ れ、勇気を出して太平洋を渡った。そ れから 8 年余、彼女は誰にも邪魔され ずに真の教育をアボンデールカレッジ において実演させ、1888 年のメッセー ジの強調点を次々と「キリストへの道」 (1892)、「祝福の山」(1896)、「各時代 の希望」(1898)、「実物教訓」(1900) の中に著わした。一人アメリカに残さ れたジョーンズは 1893 年の世界総会 でも「信仰による義」を説き、ワシン トン D.C. ではプレックリッジ下院議員 らによって再び盛り返してきた日曜休 業令案を国会で論破し、シカゴ万国博 覧会における日曜休業案を未然に防ぐ という孤軍奮闘ぶりをみせたが、つい にリバイバルは教会全体に行き渡らな かった。1892 年にホワイト夫人は、も し教会が 1888 年のメッセージを受け入 れていたなら今頃は天国にいたであろ うと書き、1893 年には教会が神の勧告 を聞かず、天の燭台が彼らを照らさな くなる時、彼らは自分でともした明り に歩むだろう、と預言めいた言葉を残 された(RH 1893 4 月)。以後、彼女の 言葉を追ってみると過去、現在、未来 に関して三つの事が言われているのに 気づく; ①我々が 1888 年のメッセージを受け 入れたら天国に行けた筈だったという 事。 ②まだそのメッセージを受け入れて おらず、それが受け入れられるように なるには組織の改革が必要であり、一 部の要職にある指導者達の権限で光を 葬り去ってはならないという事。 ③しかし聖霊に従う働き人達がいず れ現れて、このメッセージを広く伝え るだろう、という事である。 1895 「すべて聖霊の感化に服従する者、人
間的な機構や自由を奪うその規定、そ の控え目な方法を棄てる者に、聖霊は 注がれる。彼等は聖霊の力によって真 理を宣言する」(RH 1895 7/23)。 「 何 故そんなにジョーンズとワゴナ ー兄弟を憎むのか。…あなたがたが これらの人々の伝えたメッセージを 拒む時、そのメッセージを与えられた キリストを拒んでいるのです」(手紙A 51,1895)。 1896 「神と共に働くとはどのような事かを 体験的に知っている啓発された人々 が、我々の内に現れるまで全地をその 栄光で満たす聖霊の大いなる降下は ない」(RH 1896 7/21)。 真理を「持っていると公言する者達が 主の命令通りに義務を果していたな ら、全世界は今より以前に警告され、 主イエスは…来られたであろう」(RH 1896 10/6)。 「光に抵抗して受け入れようとしない 人々に警告する。神の遣わされた義 の使命者をいつまで憎み、さげすむ のか。神が彼等にメッセージを託され た。彼等は主の言葉を伝えたのであ る。」(TM 96,97)「先入観をなかなか 棄てず、この真理を受け入れまいとす る彼等(指導者達)の強情心がワゴナ 一、ジョーンズ両兄弟を通しミネアポ リスで与えられた主のメッセージに反 抗させたのである。敵対心をあおる事 によってサタンは神がその民に与えよ うと望んでおられる聖霊の特別な力 を締め出してしまった。ペンテコステ の使徒達がしたように、彼等も真理を 世界中に伝える事が出来たのだが、そ れを可能にする力を敵は阻んだ。世界 中を栄光で照らす光は拒まれ、我々の 兄弟達の行動によって締め出された」 (1SM 234,235)。 1897 「何故兄弟達は助けになる事ができ るのに妨げとなり、押し進める事がで きる時にブレーキをかけ、自分の魂か らも…他の人々からも祝福を奪い去る のか」(TM 413)。 1898 「世に対する憐れみのメッセージを伝 える事によって神の御計画が実行され ていたなら、キリストは地球に来られ、 既に聖徒は神の都に迎え入れられた だろう(オーストラリア部会記録 1898 10/5)。 20 世紀を迎えて教会は信徒数も膨 れあがり、外面的には発展し続けるの だが、未来を既に見通していたかのよ うに預言者はこう警告した。 「我々はイスラエルの子らが 経 験し たように不服従の為に、これから長い 年月の間、この世にとどまらねばなら ないかも知れない。しかし神の民は自

分達のあやまちが招いた結果を神の 責任にする事によって更に罪を重ねて はならない」(P.T.マギャーンヘの手紙 M-184,1901)。 すべてはあの運命の 1888 年、再臨を 早めるか遅らせるかという重大な岐路 に立たされた時、教会が後者を選んだ 事に始まった。そうする事によって我々 はキリストが与えられた信任を裏切り、 しかも再三の預言者の訴えにもかかわ らず、その罪を悔い改めようとしなかっ た。「既に神の都に迎え入れられていた」 筈の年から 94 年たった今なお教会はそ の働きを終える事が出来ず、若い世代 は SDA の存在する理由もその使命も、 そしてかつてどれほど再臨が近付いて いたかも知らずに、今日も教会を離れ て行く。 神の訴えを組織として拒んだ我々は 以後、何度かの霊的覚醒を経験しなが らも、完全に立ち直る事が出来ずに今 日に至っている。背教によって幕を開 けた 20 世紀、教会にも世界にも多くの 変化が訪れた。詳しい事は次の機会に まわすが、教団最大の機関だったバト ルクリーク・サニタリアム、レビュー &ヘラルド社、パシフィックプレス社 が次々と「天使の炎の剣」によって滅 ぼされ「アルファ」と呼ばれた大背教 により医者、牧師、教団指導者を含む 400 人余りのグループもろともサニタ リアム、健康食品事業が教会から失わ れるという打撃を被り、教育改革の拒 否による認可制度の導入とそれに伴う 諸問題、健康改革の拒否が引き起こし た医事伝道の変化、そして預言者の死 …。これら一連の出来事は我々のたどっ た道が神のみ旨から離反したもので あったことを明らかに示している。 同時に世界は福音に対してその門戸 を閉じ始めた。パスポートなしで世界 中どこへでも行けた時代は終わった。 無神論共産主義によって世界は東西に 分割され、空前の規模で行なわれた世 界大戦によって海外伝道は麻痺し、そ れに追い討ちをかけるように全世界を 襲った大恐慌、進化論及びモダニズム の浸透、道徳的退廃と無思想無主義の カルチャー世代…このような時代に なったから伝道が進まないのだと嘆く 前に、このような時代になるまで再臨 を遅らせた我々の責任を思いみるべき だろう。恵みの期間に働きを終わらせ る事を拒んだ教会は、今や「最も困難で、 失望的な状況下でその働きをしなけれ ばならない」(5T 463,1885)という預 言者の言葉を成就しつつある。 日本の教科書問題をあげるまでもな く、歴史とは必ずしも美しいものでは ない。しかし現状の解決を望むなら、 勇気をもって過去を振りかえるべきだ ろう。何故今、教会に力がないのか、 なぜ聖霊の力に欠けているのかという 疑問の解答を得ようと思うなら、脚色 されていない歴史を読む必要がある。 そして我々は必然的に 1888 年に行き つく。こよなく愛した教会に譴責ばか りを書き送らねばならなかった預言者 の 71 年間のキャリア中、最高の賛辞 と励ましが送られた異例の数年間…そ

こに何かがあるに違いない(厳密には 1888 - 1897 年までにホワイト夫人は ジョーンズとワゴナーを支持する言葉 を 200 回あまり書いている)。重大な何 かがサタンの必死の努力によってもみ 消されたような痕跡を記録は残してい る。もし我々がその失われたものを見 出し、受け入れて自分のものとするな ら、今からでも再び後の雨を受ける事 は可能に違いない。あと何年後と言わ ず、今からでも再臨に備える大リバイ バルは起こるに違いない。アドベンチ ストの若い世代はこれまでの矛盾、不 満の解答をそこに見つけるに違いない のである。今、我々の関心はこの一点 に絞られる。1888 年にジョーンズとワ ゴナーは何を伝えたのか。そして SDA 教会は何故それを拒んだのか…。1888 年にジョーンズとワゴナーが伝え、ホ ワイト夫人が支持したメッセージがど のような点においてユニークであった かを知るには、従来の SDA の義認観と、 比較的新しいネオ・アドベンチズムの 義認観、そして、1888 年の使命者たち の義認観を比較する必要がある。聖公 会神学者ジェオフリー・バクストンの 著作「SDA 神学の動揺」(1977)にも 明らかなように SDA 神学は信仰による 義という救いの大原則の理解において 一致しておらず、しかも近年ますます 分裂化していく傾向にある。まさに様々 な教理の風が吹きまくる現代において、 正しい信仰による義の理解を持たずに いる事は嵐の中で錨を失うことに等しい。 現存するジョーンズやワゴナーの著 書、説教集や記事の抜粋に目を通し、 1888 年についての研究者たち(R.J. ウィ ランドや D.K. ショート等)の論文のい くつかを一読しただけで、神学者では ない私にも事の重大さが一目瞭然にわ かった。この二人の説いた信仰による 義は、当時は勿論、今日の教会にとっ ても爆弾宣言に等しい革新的メッセー ジであり、そのユニークさは先の二つ の義認観と比較すると明らかだ。

A 伝統的 SDA の解釈 信仰によって義と認められ、行ない によってその義を裏付ける事によって 人は救われる。

B. 福音主義的 SDA の解釈 信仰によって義と認められた人には 行ないという実が伴う。

 C. 1888 年の解釈 罪人は信仰によって義人につくり変 えられ、罪の支配から救い出される。 まず A、B 二つの解釈の説明と分析 を試みたい。


 A. 伝統的 SDA の解釈
罪人はキリストの十字架を信じ、罪 を悔い改めて告白する事によって過去 の罪を許され、神に受け入れられる。 この瞬間から人間には服従という条件 付きで永遠の命が約束されるが、まだ
天国へ行くにはふさわしくないので、 毎日の聖化というプロセスが始まる。 しかし人間の力だけでは律法を守る事 は不可能であり聖霊の助けが必要であ る。熱心に求める者には聖霊の力が与 えられ、その人自身もできるだけ律法 を守るように努力する。こうして最後 までその努力を続ける者が調査審判に 合格する。不完全な部分はキリストの 義によって補って行かねばならないが、 知っていて告白しない罪、示されなが ら勝利しようと努力しない罪はキリス トの義で被われない。故に光が与えら れれば与えられる程自分の努力を要求 される部分が増え、その分テストは厳 しくなる。

 A の解釈の分析 :
伝統的に信じられてきた理論が必ず しも正しいとは限らない。第一にこの 神学は神の品性を正しく表わしていな い。ここで提供されている救いは値な しに与えられる賜物ではなく、あくま でもトレードにすぎない。神に何かを 期待するには、まず罪人の方から何か しなければならない。罪人が信じて告 白すれば、その悔い改めを認めて神が 許しを与えられる。罪人が熱心に祈り 求め続けるならその真剣さを認めて、 神が聖霊の助けを与えられる。罪人が 聖霊と協力して律法や証の書に従い、 ベストを尽くすなら神がその努力に報 いてどうしても出来なかった分は補っ て下さり、永遠の命を与えてくださる。 結局「信仰+行いによる義」で、人の 救いは本人の努力や真剣さ、忍耐にか かっているのであり、そこには平安、 救いの確証といった福音的要素がうす い。確かに律法に従わせるかもしれな いが、その服従は永遠の死に対する恐 れと永遠の命に対する執着という、極 めて利己的な動機に根ざしている。 「このような人たちの心はキリストの 愛に強く動かされたのではありませ ん。天国に入る為に神が要求したもう のであるから、という訳でクリスチャン 生活の義務を遂行しようと努めてい るにすぎません。そのような宗教は何 の役にも立ちません」(キリストへの道 p53)。 この考えが SDA の大半を占めるよう になったのは、恐らくそれが教会を一 致させるのに役立った為だと思われる。 つまり「我々は残りの民だ」「神の戒 めを守っているのは SDA くらいのもの だ」という自尊心をくすぐり、SDA で ある事の意義と誇りを与えると同時に、 「SDA でなければ救われない」、「安息日 を守らなければ失われる」といった脅 迫観念が教理や標準、組織に対する教 会員の忠誠を維持するのに効果があっ たことは確かだろう。

 B. 福音主義的 SDA の解釈
罪人はキリストの十字架を信じ、悔 い改めて告白する事によって全ての罪 を許され、その瞬間からいつでも天国 に行ける。人は義人でなくとも、信仰 さえあれば義人とみなされる。信仰に
よって義と認められた者は聖霊の内住 によって、清い生活という実を結ぶよ うになる。しかしいくら義とみなされ てはいても、実際には罪人のままであ る事に変わりなく、相変らず罪は犯す し、どんなに善を行なっても所詮堕落 した人間のなす事であり、神の目には 「汚れた衣」でしかない。故にどれだけ 清められたか、どれだけ律法を守った かは人間の救いを左右しない。罪の恐 ろしさはその一つ一つの罪深い行為よ りも、罪しか犯せない状態にあるので あって、堕落した状態にある我々はど んなに聖霊と協力して努力しても完全 な義に達し得ず、最後までキリストの 義によって被われなければならない。 キリストは堕落する以前の人間(罪 を犯す以前のアダム)の性質を取って、 我々の代わりに完全な生涯を全うされ た。だから我々自身は完全を要求され る事はない。

B の解釈の分析 :
この神学はいかにも自己の行ないか ら目をそらして、神の恵みにのみ注視 しているかのような錯覚を与えるが、 実際は A の伝統的解釈と同様、自己に 目が向けられている。「私はあの時信じ たから大丈夫…」「私は今、信じている から救われる…」結局救いを信じると いう自分の行為にかかっているとされ、 しかも自分はもう許されたのだから、 律法など気にしなくても良い」…言葉 をかえれば「自分さえ救われれば、神 が私に何を望まれるかなどは問題では ない」という利己的精神が明らかであ る。また、この福音が必ずしも救いの 確証と平安を与えるわけでもない。信 者が救いの根拠として自分の信仰に目 を向けている以上、「私は本当に信じて いるだろうか」「あの時の悔い改めは本 物だっただろうか」「私の信仰は十分だ ろうか」等という恐れはいくらでも起 こり得る。しかし何よりもこの神学の 決定的な短所は、それが罪の解決に関 する何の手掛かりも与えていない、と いう点だ。この福音は罪人に完全な勝 利を約束も要求もせず、ただ許しに終 始している。許され、少しずつ向上は しながらも、罪人は相変らず罪を犯し 続けるしかない。つまり罪からの救い ではなく、罪の内にある救いなのであ る。勿論再臨の時、完全な体に造り変 えられる事によって、罪をもはや犯さ なくなり罪の問題は解決するとされて いるが、今罪人が完全に勝利できない とすれば、将来それが可能になるとい う事も疑わしくなる。たとえそれが本 当だとしても、どうせ最後で一瞬にし て完全になるとすれば、何故今から苦 労して清まる必要があるだろうか。ま たどっちみち律法を守ってもそれが神 の目に不完全であるなら、何故律法遵 守にこだわる必要があるだろうかと いった疑問は後を絶たない。“ 福音 ” も ここまでくると、SDA の存在する理由 さえ危うくする。聖所も、調査審判も、 安息日も、第三天使の使命も必要なく なるか、少なくとも重要視されなくな り、「今何故 SDA か」について混乱さ せこそすれ、何の解答も与えてくれな い。
以上の義認に関する SDA 内の二大解 釈はどちらも罪の解決を提供していな い。それらによれば、罪人は許されな がらも罪を犯し続けるので、仲保者の とりなしを必要とし続ける。確かに「彼 は、いつも生きていて彼らのためにと りなしておられるので、彼によって神 に来る人々を、いつも救うことができ る」(へブル 7:25)のであり、「もし、 罪を犯す者があれば、父のみもとには、 わたしたちのために助け主、すなわち、 義なるイエス・キリストがおられる」(第 一ヨハネ 2:1)のだが、同時に「これら のことを書きおくるのは、あなたがた が罪を犯さないようになるためである」 と聖書は断言している。キリストは永 遠に聖所でのとりなしを続けるわけに はいかない。何故ならとりなしている 間、キリストは再臨することができず、 死人がよみがえらされる事もなく、そ の間この悲惨な罪の世界はますます堕 落しながら流転し続ける筈だからであ る。いよいよ人口爆発を続ける人類が 今の調子で罪を犯し続けるなら、キリ ストのとりなしはますます忙しくなる 一方で、祭司職を閉業するどころでは なくなるだろう。信仰によって義とさ れる者たちは第二の死を経験しなくて 済むというだけで、痛み、苦しみ、悲 しみに満ちたこの世界で生き続け、や がて死ななければならない。こうして 次の世代、また次の世代、と “ 許された ” 義人たちはいつとも知れない再臨を待 ちながら眠り続けることになる。果た してこれが「救い」と呼べるだろうか? 否!聖書はキリストのとりなしが終 わる、つまり救われるべき最後の世代 の人々が罪を犯さなくなる事を明らか にしている。ダニエル書 7 章は 1844 年から始まった裁きが終了すると同時 に、キリストが主権と栄光と国を受け ている場面を描いている。この栄光の キリストはもはや大祭司ではなく、王 として御自分の花嫁である教会を迎え るために再臨されるのだ。 「全能者にして主なるわれらの神は、 王なる支配者であられる。わたしたち は喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小 羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意 をしたからである。彼女は、光り輝く、 汚れのない麻布の衣を着ることを許さ れた。この麻布の衣は、聖徒たちの正 しい行いである」(黙示録19:6-8)。 最終世代は何としても罪の力から救 われねばならない。第一部でのべた通 り、再臨を早めるか遅らせるかは SDA にかかっており、SDA 教会が「後の雨」 を受けて「大いなる叫び」を伝える時、 再臨の道備えは終了する。そして我々 が聖霊を受ける為には「完全」つまり 「罪を犯さなくなる」状態に到達しなけ ればならないのだから、伝統的 SDA の 教えも、福音主義的教えも明らかに不 十分である。残される道はひとつ、我々 は勝利の秘訣を 1888 年のメッセージ に期待しなければならない。もしここ にも罪の解決が見つからないのであれ ば、これ以上 SDA が存在し続ける理由 も価値もない。一般プロテスタントで
十分である(注 : 以下の項目は必ずしも ジョーンズ/ワゴナーの言葉を文字通 り引用してはいないが、彼らの主張の 要点をまとめたものであり、1888 年の 研究者たちの結論とも照らしあわせて、 その正確さに万全を期したつもりであ る)。

C.1888 年の解釈
1. 罪人が何一つ良い事をせず、神を 認めてもいなかった時、神はまず罪人 を愛してこれに全てを与え、救いの道 を備えられた。

2. 各時代にわたり、神は何とかこの 愛をわからせようと努めてこられた。 その愛を意図的に拒みさえしなければ、 誰でも必ず神のもとへ引き寄せられる。 神はあらゆる手段を通して今日も全人 類を引き寄せておられる。

3. 救いは何処まで引き寄せられたか によらない。近くまで引き寄せられた 者も、何かの理由で少ししか引き寄せ られなかった者も、それを拒みさえし なければ救われる。

4. キリストは十字架によって全人類 に現世と来世における生命という二つ の賜物を既に与えられた。

 5. キリストを信じようと信じまいと、 知っていようと知っていまいと、誰で もこの世に生を受けたのはキリストの 贖いのおかげであり、我々が恩恵を被っ ているこの世の全てのものは、キリス トの血によって与えられている(死だ けが我々の主張できる唯一の権利であ り、だからこそ現世の命も永遠の命も いつでも拒む自由が与えられている)。

6. この世での幸福、楽しみ、満足、 笑いの一つ一つが、全てキリストの犠 牲によって与えられているのであり、 アダムの墜落以後、すぐに絶たれても よかった筈の人類が今日まで生かされ ているのは、ひとえに十字架のおかげ である。

7. 罪人は信じたり、何かする事によっ て義とされるのではない。何もしない うちから法的には既に全人類が義とさ れており、だからこそ存在する権利も なかった者達が現に存在しているので ある。既に法的に義とされている為に、 誰でも永遠の命を受けるにふさわしい 身分を与えられている。

 8. 永遠の命も現世の命も十字架の賜 物であるとすれば、賜物とは価なく資 格なしに与えられるものだから、信者、 未信者を問わず、全人類に同様に与え られている筈である。

9. 義人と異邦人の違いは、前者はこ の福音を聞いて信じた者、後者はまだ 聞いていないか、聞いても信じなかっ た者、といえる。

10. 以上が「神の和解」の福音であり、 SDA から見失われてはならない大原則
である。神が救おうとし働きかけるの を拒まなければ救われるのである。

 11. この事実を聞いて拒みさえしな ければ、それを信じる信仰が与えられ る。

12. 与えられた信仰の度合に応じて、 キリストの犠牲の大きさを知的に理解 すればする程、神への感謝が自然と湧 き上がる。

13. キリストの愛に感動した信仰は、 同時に神の御子を十字架につけた自分 の罪を必ず悔いる。悔い改めの深さは、 先の感動の大きさに比例する。

14. 悔い改めた者はもはや自分の考 えや好みに固執せず、神の御旨に反す る自己の否定を望む(くどいようだが、 この願いを起こさせるのも神である)。

15. 自我を十字架につける事を望む 者は「古い自分に死ぬ」力が与えられ、 聖霊に支配されて新しく生まれる。罪 の性質が自分の内に残っていてもそれ に支配されない。

16. 聖霊に支配されると、罪に支配さ れていた時悪を行なうのがたやすかっ たのと同様に、否、それ以上に今度は 善を行なうのがたやすくなる。

17. このように外面に表わされた行 いによって心の変化が全宇宙に実証さ れ、神に栄光が帰せられる。

18. 今や、あらゆる善行はキリストに 対する愛と感謝が動機となる。

19. 罪の性質はまだ残っており、内外 からの誘惑を感じるが、毎日神の支配 に自己を明け渡せば、罪を犯さずに済 む。

20. 以上のように堕落した人間でも、 信仰によって神の力を自分のものとす るなら罪に勝利できることを、キリス トは自ら実演してみせた。すなわち神 の子は、罪人と同じ堕落した弱い性質 をとって地上の生涯を全うし、我々の 模範となられた。キリストは御自分の 神性によって勝利されたのではなく、 信仰の祈りを通して与えられた聖霊の 助けによって(つまり我々にも可能な 方法で)完全な生涯をおくられた。

21. キリストは今、至聖所で最後の 贖いをする事によって、残りの民を全 ての罪に勝利させようとしておられる。 だから再臨は 1844 年以来 SDA の準備 次第でいつでも起こりうる。

22. 何故神が我々の協力を待たれる かというと、強制的な、或いは無意識 の内になされる清めというものはあり えないからで、罪に対する一つ一つの 勝利には我々の同意が必要とされるか らである。

23. 神はまず我々の心を深く探り、今
で我々が知らなかった(知らないの だから当然告白する事もできずにいた) 罪を一つ一つ示される。我々がその光 を拒まないで受け入れ続けるなら、神 御自身が我々の内に始められた清めの 業を遂に完成して下さる。

24. 清められた者から順に聖霊が下 り、大いなる叫びが展開される。この 最後の福音の働きとは、神の御品性が 我々の生活に再現される事に他ならな い。

25. 現代の真理(SDA 基礎教理)を 踏まえた上でのこの信仰による義こそ 「三天使の使命」そのものである。

26. 最終世代が完全に清まらねばな らないのは、大争闘を終結なさろうと する神に協力する為であって、「神の 裁き」において神の正しさと愛と救い の力を全宇宙に立証する為である。こ れは過去のクリスチャン達には与えら れなかった特権であり、各時代を通じ て何人かの完全な義人は存在したもの の、一世代全体が神の品性を表わす事 によって「全世界に、天使にも人々に も見せ物にされ」るのは、これが最初 で最後である。

 27. このようにして残りの民は、神 の印であるその御品性を受け、仲保者 なしに悩みの時を通過し、生きて天に 移される準備ができる。この神の印を 拒む者は必然的に獣の印を受ける。

28. 神の印が品性であるとすれば、 SDA 教会にいて型ばかりの安息日を 守っていても神の印を受けそこなうと いうのは可能であり、獣の印を受ける 危険性がある。

29. 安息日は神の御言葉が何もな かった宇宙に天地を創造した事を記念 する日であり、同じ御言葉が罪人に向 かって義を宣言する時、(天地創造の時 と同様)罪人を実際に義人に造り変え る力を持つ事を保証する。故に安息日 が論争点となる時、神が創造主か否か、 そして罪人を義人に変える力があるか 否かが、問われるのである。

30.「天と地と海と水の源とを造られ た方を伏し拝め」「ここに神の戒めを守 り、イエスを信じる信仰を持ちつづけ る聖徒の忍耐がある」という三天使の 使命はこのような背景のもとに理解さ れねばならない。

31. 宗教改革者たちは霊魂不滅と予 定説を信じていたので、キリストの十 字架(第二の死)に表わされた神の愛と、 救いの計画における神の公平さを十分 に理解できなかった。また原罪という 教理に縛られていたので罪からの救い を理解せず、聖所の清めも、大争闘に おける人間の役割も、安息日の意義も 知らなかったので、信仰による義の理 解が未完成のまま終わってしまった。
32. 彼らがやり残した働きを完成さ せ、福音の働きを終結させるという、

崇高な目的の為に起こされたのが SDA 教会なのである。

C の解釈の分析 :
いかがであろうか?これを聞いて興 奮しない人がいたら、その人は祈って もう一度読み直すべきであろう。どの 教派もどんな神学者も見出し得なかっ た真理がここにある。罪からの救いと いう一大ジレンマの解答がここで答え られている。何故罪に勝利する必要が あるかの理由と、どのように勝利でき るかという方法が明らかにされてい る。さらにその方法の確かさがキリス トの生涯によって実証済みとあれば、 これ以上完璧な神学はありえない。そ して我々がこの真理を受け入れる時、 この理論は単なる神学ではなくリアリ ティー(現実)となる。 何よりも注目したいのは、この義認 観には神の品性が正しく表わされてい るという点だ。神がまず罪人を愛して 救いを与えられた。だから今さら神に 受け入れられよう、憐れみを受けよう、 と努力するのは全く見当違いである。 キリストの十字架は罪人に対する神の 怒りをなだめるためではなく、神に対 する我々の敵意、偏見、恐れを一掃す る為のものだ。永遠に不変であられる 神の愛は、人類が罪を犯す以前も犯し た後も我々に対して全く変らないので ある。罪によって変化したのは我々で あり、キリストは我々が失った神への 愛情を我々の内に再生なさろうとして いる。和解を必要としているのは人間 の側なのであり、その和解は何もむず かしいものではない。我々の心にある 敵意という壁がキリストの愛によって 溶かされる時、冷えていた我々の心に 神の愛が流れ込み、それに文字通り圧 倒されて罪人は回心、新生、献身、勝 利、そしてついには罪を犯さない完全 にまで引き寄せられてしまうのである。 我々の曇っていた眼がこの事実に開か れる時、「救われる為にあれもしよう、 これも我慢しよう」と考えていた自分 の浅はかさ、「まだ救われないかもしれ ない」という恐れと不信、「これくらい まさか救いに関係するわけじゃあるま いし」という不遜さ、「再臨なんていつ あるのかわからない」などと考えてい た僭越さの一つ一つを恥じ入るように なる。それはまた「私はこれだけ律法 を守ってきた」という誇りを砕き、「早 く伝道しなければ今日も何千何万とい う人々が滅んでいく」というパニック から我々を解放する。しかし決して「人 並みにしていれば…」というラオデキ ヤ的自己満足にとどまらせず、「更に高 い標準、更に厳しい自己否定へ」と駆 り立てる。しかもその動機は恐れでも 報いでもなく、神の愛の故にそうせず にはおれなくなるのである。愛に動機 づけられた自己否定の生活はたとえよ うのない満足と平安に満ちたものとな り、その感化力は世の人々に福音の力 を納得させずにはおかないであろう。 (注)A.T. ジョーンズと E.J. ワゴナー が 1888 年にした説教は記録された。に もかかわらず、出版されなかったので 残っていない。しかし次のような現存
の資料をもとに 1888 年~ 1900 年頃ま での彼らのメッセージの骨子をつかむ 事ができる。 GG「ガラテヤ書の福音」 EJW/1888(バ トラー世界総会総理への公開状) CHR「キリストとその義」EJW/1890 (1888 年の説教ノートをもとにして書 かれたと思われる) SR「ローマ書の研究」EJW/1891(世 界総会での講義) GCB「1891 年 世 界 総 会 ブ リ テ ン 」 ATJ/1891(世界総会での説教) GCB「1893 年 世 界 総 会 ブ リ テ ン 」 ATJ/1893(世界総会での説教シリーズ) GC「創造の福音」 EJW/1894 GCB「1895 年 世 界 総 会 ブ リ テ ン 」 ATJ/1895 GT「良きおとずれ」EJW/1900 CCP「 ク リ ス チ ャ ン 完 全 へ の 道 」 ATJ/1905(1888 年のメッセージのダイ ジェスト版) EG「永遠の契約」EJW/ ? BE「バイブル・エコー誌」 ST「サインズ・オブ・ザ・タイムズ誌」 RH「レビュー・アンド・ヘラルド誌」 EJW&ATJ/1889-1900 第五章 地球最後のメッセージ 

 第五章 地球最後のメッセージ

1888 年のメッセージの中心はキリ ストであり、その福音は罪からの救い だった。彼等の主張は①信仰による義 認、②キリストの人性、③完全、④福音、 ⑤聖所の清め等の分野に大別出来るが、 各項目別にジョーンズとワゴナーの言 葉をそのまま引用し、ホワイト夫人の 言葉とも比較してみた。

 I. 義認
1. 我々の義はキリストの内にのみ見 出される。
 「人間は、そして人間のなす行為はそ れがどんなもので誰であろうと、信仰 のみによって義とされます。律法は人 間をその仕業に応じて裁きますが、律 法の標準は途方もなく高いので、どん な人間であってもそれに達する事はで きません。だからこそ仲保者を必要と するのであって、その御方によって義と せられねばならないのです。…この世 で人間が必要としているのはただ一 つ、義とせられる事です。そして“義とす る”というのは実際的な行為で、単なる 理論ではありません。…我々は過去の 不完全な行いを完全としていただくの に、キリストの義を必要としているのと 同じく、今、義とされるのにもそれを必 要とするのです」(EJW GCB 1891, p75)。 「どうして信仰によって義とされるとい う教理が、神の律法を軽視させると考 える必要があるのでしょうか。…義とせ られるというのは心に律法が確立され る事です。…キリストは御自分の義を 与え、罪を取り除き、御自分の義をそこ に据えられます。これはその人を全く変 えてしまうのです」(同上 p85)。

 2. 義とせられる、とは義人に造り変 えられる事である。
 「“義とする”とは義に造り変える、或 いは義である事を見せるという意味で す。…罪深い人間の行いは彼を義人 に造り変える何の力もないばかりか、 かえって悪しき心から出た行為である ため、彼の罪深さを増すだけです。罪 を重ねる手によって人は義とせられま せんので、罪深い人間が自分の努力に よって義とされようとするのは意味が ないのです。彼自身がしようと望んでい る、そして故に要求されている善をな す為には、まず彼自身が義人に造り変 えられねばなりません。…使徒パウロ はすべての者が罪を犯し、神の栄光を 受けられなくなっており、そのために律 法の行いによってはどんな内なる者も 神の眼に義とせられる事はないと証言 した後、このように続けます『(我々は) 価なしに神の恵みにより、義とせられ る(義に造り変えられる)』と。価なしに 義人に造り変えられる…それ以外にど んな方法があるでしょう。…神が罪を見逃されないというのは事実です。そ んな事をして神が公正な御方でいられ る筈がないからです。しかし神は遙か にまさった事をして下さいます。罪があ るのにそれを見逃すという事をしなく てもすむように、神はその罪を取り除 かれるのです。その人は義とせられて 一度も罪を犯さなかったのと同じよう に見なされます…。(ゼカリヤ3:1-5)汚 れた衣を脱がせるというのは、人間か らとがを除くというのと同じ意味です。 ですからキリストが御自分の義で我々 をおおわれるのは罪を隠すのではな く、罪を取り除くという事であるのがわ かります。それで罪の許しとは単なる 形式や、単に天の記録に罪の取り消し が書き込まれる事ではなく、…実際に とがが除かれるという事であり、それ が起こるなら彼は義とせられ、義に造 り変えられ、確かに一大変化を経験す るのです。…価なしで与えられる罪の 完全な許しは、新生として知られる奇 跡的な変化をもたらし、新たな清い心 を与えるのです。もう一度尋ねますが 義認、罪の許しは何によってもたらさ れますか?信仰です。…この同じ信仰 を働かせる事が人を神の子に造り変え るのです」(EJW CHR p51-67)。 「義 認というのは義と宣 言される事 で、…信仰によって義とせられるという のは神の言葉によって義とせられる事 です。神の言葉が発せられると、何でも 言われた通りになってしまいます。…イ エス・キリストによって語られる神の言 葉は、それが語られる以前には世に存 在しなかった物を存在させてしまうの です。人間の内には義なるものはあり ません。…しかし神は人間の上に義を 宣言させる為にキリストをお立てにな りました。キリストが言葉を語られたの で、それを受け入れる者にはただそれ だけで、何もなかった彼の内に義が現 れるのです。…信仰によって受け入れ られた神の言葉は以前は何もなかっ た人間の内に、その生活において義を 造り出します」(ATJ RH 1899 1/17)。

3. 義認は何もしなくても今すぐ与え られる、それはいつでも与えられる。
「人間は信仰によって、つまり神の言 葉に頼る事によって義と造り変えられ るだけでなく、造り変えられたのと同じ 方法で生き続けるのであり、…同じ経 験を重ねるのです」(ATJ RH 1899 3/7)。 「神の御言葉、義の言葉、生命の言葉 が“今”、“この場で”与えられています。 あなたは今、義に造り変えられる事を 望みますか?今、その御言葉によって 生きようとなさいますか?これこそ信仰 による義認です。…世界で最も単純な 事です」(ATJ RH 1896 11/10)。 「神は信じる者の上に義を宣言され ます。宣言するというのは言葉を出す 事です。…そして『あなたは義人だ』と 言われた瞬間、それを信じる罪人は罪 人でなくなり、神の義となるのです。義 を宣言する神の言葉自体が義であり、 罪人が信仰によってその御言葉を自 分の心に受け入れるや否や、その瞬 間から彼は心の内に神の義を持ち、心
の状態は生活に現れますから、新しい 神の律法に従う人生が始まるのです」 (EJW GC p26-28)。

4. キリストを心に受け入れる事に よってキリストが心を服従させて下さ る。
 「この用語(義認)は義とするという意 味です。さて、ローマ2:13は我々にどう いう人が義とされた者かを教えていま す。『律法を聞く者が神の前に義なる 者ではなく、律法を行なう者が義とさ れる。』義人とは律法を行なう人です。 ですから…人を義とし、義人に造り変 えるというのは、人を律法を行なう者 にする、という意味なのです。信仰によ って義とされるというのは、信仰によ って律法を守れる者に造り変えられる 事です。神は不信心な者を義とされま す。…それは人間の落度を隠して実際 には大変な悪人である人を義人の仲 間に加えてしまう、というのではなく、そ の人を律法を守る者に造り変えるとい うのです。不信心な者を神が義人だと 宣言される時、その瞬間からその人は 律法を守れるのです。…栄化を別にす れば、神が人間の為にお出来になる全 ての事を、義認は可能にします。…義 を保ち続け、律法を守り続けるには信 仰と神への屈服を続けなければなりま せん。こうして次の聖句の意味がはっ きりします。『すると、信仰のゆえに、わ たしたちは律法を無効にするのである か。断じてそうではない。かえって、そ れによって律法を確立するのである。』 (ローマ3:31)つまり、律法を破る事に よって律法が無効になったかのように 生活するのではなく、信仰によって我 々の心の内に律法を確立するのです。 信仰はキリストを心の内に住まわせま すが、キリスト御自身…には律法が宿 っているので、こうして律法が心に確 立されるわけです。『ひとりの人の不服 従によって多くの人が罪人とされたと 同じように、ひとりの服従によって多く の人が義人とされるのである。』このひ とりの服従とは主イエス・キリストを指 し、彼の服従が信じる全ての者の心に もあらわされるのです」 (EJW ST 1893 5/1)。

II. キリストの人性
 「へブル3:1にはクリスチャンがしな ければならない全ての事を一言で言 い表した勧告があります。『そこで天の 召しにあずかっている聖なる兄弟たち よ、あなたがたは私たちが告白する信 仰の使者、また大祭司なるイエスを思 いみるべきである。』これを聖書の命令 通り実行すれば、つまりキリストがどん な御方であるかの真の姿をいつも理 知的に思いみるなら、その人は完全な クリスチャンに造り変えられます。何故 なら『眺める事によって我々は変えられ る』からです」(EJW CHR p5)。 この文章には三つのポイントがある。 ①真のイエスを見る-キリストはど のような性質をとられたのか、どのよ うに勝利されたのかを見る。
 ②キリストの大祭司としての働きを 思う-何の為に聖所を清めているのか 何故まだ清まらないのかを思う。 ③キリストを眺める事により完全に なる-キリストに表わされた福音を理 解し、受け入れる事によって回復され る。 1. キリストは堕落した性質をとられ た。 「キリストを身近な御方としてできる だけ感じさせないようにするのが、人 類に対するサタンの昔からの作戦で した。たとえクリスチャンであっても、 彼らのキリストに対する親近感が少な ければ少ないだけ、サタンは満足する のです。それからサタンは我々が生ま れつき持っている神への敵意を利用 して、行いによって救われようとする制 度を…つくりあげるのです」 (ATJ GCB 1895, p478)。 「私のところに質問が二つ寄せられて いますので、この場で読んでみたいと 思います。一つはこうです。『処女マリ ヤから生まれた聖なる者は罪によって 堕落した肉体を取られたのでしょうか。 そしてその肉体は我々の肉体がそうで あるように、罪への傾向があったので しょうか。』さて私はこれについて聖書 に書いてあることしか知りません。しか し聖書は単純で明らかなので、私に永 遠の希望を与えてくれるのです(会衆: アーメン!)。私も失望落胆と疑いの日 々を経験しましたが、それはもはや過 ぎ去った事を感謝します。私も他の人 々と同じように一生懸命主に仕えよう と試みましたが、失意の内にその努力 を中断し、『無理だ、私には出来ない』 と独白せざるを得ませんでした。それ は私自身の弱さを思い知らされたから で、私の眼に正しく見える人々や、聖書 に出てくるかつての聖人たちは、私と は違っていたから正しい事ができたの だとしか思えませんでした。私は多くの 残念な経験を通して、自分には悪を行 なう事しかできないのを知りました…。 ここで一つ質問したいと思いますが、 もしイエス・キリストの…この地上での 生活が単なる演技にすぎなかったとし たら、どこに望みがあるでしょう。…彼は 『罪は犯されなかったが、我々と同じ ように試みられた』とあります。一晩中 祈られたとも書いてあります。あまりの 苦悩に血のような汗がその顔からした たり落ちたともあります。しかし、もしこ れらが見せ掛けで演技だったとすれ ば、-もしそれらの戦いが本物ではな く、彼は誘惑を何も感じておらず、単に 祈る真似をしていただけなら、これらは 私にとって何の益があるというのでしょ うか…。しかし…決して私が耐えること の出来ない経験を耐え、一生かかって も私自身の力では勝利できない事に 勝利された御方がおられる。…私個人 のどんな誘惑よりも激しい誘惑を経験 され、あらゆる点において私と同じで ありながら、かえって私より困難な境遇 におかれ、肉体を通してサタンがしか けるすべての攻撃にさらされ、なおか つ罪を犯されなかった御方がおられる

からこそ、私は心から喜ぶことができる のです(会衆:アーメン!)」(EJW GCB 1901, P403,404)。 ワゴナーの主張は次の三つである。 ①キリストは我々のように試みられ た。彼の祈りは必要に迫られてのもの だった。彼は我々とあらゆる点におい て同じになられたが、罪を犯されなかっ た。彼は肉体を通してサタンがしかけ る全ての攻撃を感じられた。 ②それでもキリストは “ 罪を知らな い ” 御方で、堕落した肉体において完 全な義を表わされた。 ③キリストを信じる者は彼らをも罪 を犯す事から救い出される力を体験す る。 2. キリストが堕落していない性質を とられた、というのはカトリックの教 えである。 「キリストは…堕落した肉体をとられ たのでしょうか。皆さんはローマ・カト リックの無原罪懐胎という教理をお聞 きになった事がおありでしょうか。それ が何かを御存知ですか。…それをイエ ス・キリストが罪なくして生まれた事だ と思っている人もいるようですが、そう ではありません。無原罪懐胎というの は、イエスの母マリヤが罪なくして生ま れたという教えなのです。何故そうす る必要があるのでしょう。うわべはキリ ストを高めるように見えるこの説は、実 は…イエスと…人類の間に越えられな い淵をもうけようとする悪魔の仕業で す」(同 p404)。 「我々は各々、ローマ教会を脱してい るかどうかを知る必要があります。…イ エスの肉体が清いもので我々と同じで はなかった(我々の肉体は堕落してい るから)という教えは、必然的に処女マ リヤの無原罪懐胎説に導く事に気付 きませんか。…イエスが我々とは全く 異なり、その肉が何の葛藤もない、堕 落していない肉体だったとするならど うしてもローマ・カトリックの無原罪懐 胎という教理が必要になるのです。し かしそこでとどまる事ができるのでしょ うか。マリヤが罪なくして生まれたから には、その母親も罪のない肉体を持っ ていたに違いありません。しかしそこで 終わるわけにもいかないのです。その また母親も同じ事で…そしてついには アダムまでさかのぼってしまいます。結 果は?人類は堕落しなかった、アダム は罪を犯さなかった、という事になって しまい、ここにローマ・カトリックと心霊 術の教えの特徴が浮かび上がってくる わけです…。(キリストは)肉体におい て試みられました。主は肉において苦 しまれました。しかしその思いは一度 も罪に屈する事がなかったのです。主 は肉において神の御旨を完成し、どん な人間でもどんなに堕落した肉体を持 っていても、神の御旨を成し遂げる事 ができることを証明されました。…みな さんの体、私の体、全ての肉体はキリス トによって神の御旨がなされるように
神がつくられたのです」(同 p404,405)。

 3. キ リ ス ト の 模 範 は 特 に 144,000 人のためである。
 「神は御自分の力が、どんなに罪深い 者でも救いだし、堕落した肉体におい て完全な生涯をおくらせる事ができる 事を世に示されます。その後はじめて 神は人間の弱さを取り除き、人間の住 む環境を作り変えてくださるのです。し かしまずこの奇跡が堕落した人類のう ちに表わされねばなりません。それも 単にイエス・キリストという一人の御方 だけでなく、彼に従う何千という人々 の内に表わされるのです。時折見られ る幾人かのケースというのではなく、 キリストの完全…が教会全体を通して 世に示されるのであり、これが人類に 生か死かの選択をせまる最後の働き となるのです。…主は罪の内に生まれ た子供を、或いは姦淫によって生まれ た者でさえ、神の民の王子の列に加え る事がお出来になります。主は御自分 の系図を隠されない事によって、それ を明らかにされました。…我々は罪の 傾向(体質的傾向:tendency)を受け 継ぎ、罪の性質を持って生まれたこと を嘆き、それに勝利できない事を思っ て失望しかけていました。…しかしイエ ス・キリストは「肉によればダビデの子 孫」であり…罪深い者たちを兄弟と呼 ぶ事を恥とされません。ですから我々 の受け継いだ性質がどのようなもので あれ、聖霊の力は肉体の力にはるかに 勝っているので、それまでの肉の支配 を完全にくつがえし、我々を神の性質 にあずかる者として下さいます。福音 には何とすばらしい可能性が秘められ ているのでしょう」 (同 p406-408)。

4. 総理を初めとする当時の世界総会 はこれを受け入れなかった。
 「これらの聖句(ローマ8:3;へブル2:9 ;ピリピ2:5-7)はキリストが御自分の 上に人間の性質をとられた事、その結 果、死ぬべき存在となられた事を示し ています。主がこの世に来られた目的 は死ぬ事だったのです。…私はキリス トが罪人だったと言っているのではあ りません。(へブル2:16,17引用)…キリ ストの先祖についての記録を読み、彼 らとて我々と同じ弱さや欲望を持って いたのを知るなら、どんな人間も自分 の罪に関して遺伝のせいにする事は できないのが明らかです。もしキリスト があらゆる点においてその兄弟と同じ になられたのでなければ、彼の罪なき 生涯は我々にとって何の慰めにもなり ません。我々はそれに驚嘆し、感心する かもしれませんが、同時に自分に全く 失望する事でしょう。…あなたは『主が 十字架上で大いなる犠牲として世の罪 を自ら負われた事に我々(世界総会と R&Hの指導者)は同意するが、主は罪 の呪いのもとに生まれたのではない。 主が律法の呪いのもとに生まれた、な どというのは異端神学もはなはだし い。』と言われました。(バトラー著、「ガ ラテヤ書の律法」 p58引用)神学的に 異端であろうと、聖書が確かにそう言 っているのです。…あなたは主が生涯 中に一度も罪を犯さなかったから、律法の呪いのもとに生まれた筈がないと お考えのようですが、しかし同時に十 字架上では主は律法の呪いのもとに あったと同意なさる。それでは主は十 字架上で罪を犯されたのですか?そん な筈はありません。では主が御生涯の ある時点で罪を犯す事なしに律法の 呪いのもとにあったとすれば、それ以 外の時にも律法の呪いのもとにありな がら罪を犯さずにいたというのは可能 ではないでしょうか?どのようにして神 が肉体に、しかも罪深い堕落した肉体 に宿る事が出来たのか私には理解で きません。…ただそうする事なしに主 は人類の救い主とはなれなかったとい う聖書の言葉を受け入れるまでの事 です」(EJW GG p80-82 総理バトラー への公開状)。 「キリストが死を味わう為に人間のよ うになられたのだとすれば、それは堕 落した人間のようになられたのだとい う事は、少し考えれば誰にでもわかる 事です。何故なら死を起こすものは、 罪以外の何ものでもないからです。主 が我々のとがを全て負われなかったな ら、死の力がキリストに及ぶことは、な かったでしょう。しかもキリストのとら れた肉体は罪なき者ではなく、罪深い 者の肉体であり、その内には堕落した 人類に共通した全ての弱さ、罪深い性 向(本質的傾向:tendency)があった という事は…聖句に明らかです。確か に主の母親は純潔で信仰深い女性で あったに違いありませんが、人類が肉 体的にも道徳的にもこれ程堕落する 以前に主が生まれていたなら、体験さ れなかったであろう肉体の弱さをキリ ストは体験されたのでした。…イエス は一晩中父に祈られました。もって生 まれた肉の弱さを通して敵に苦しめら れるという事を主が知らなかったとす れば、何の為にそんな事をされたので しょう。主が『さまざまの苦しみによっ て従順を学び』とあるのは、敵が不従 順であった事もある、というのではな く、…彼が肉において経験したさまざ まな苦しみによって、人間が服従しよう とする時どんな戦いを通らねばならな いかを学ばれたのです。…ある方々は ここまでこの記事を読みながら、我々 がイエスの品性を罪人と同じレベルに 引き下げている、ととられるかもしれま せん。そうではなく、御自分が最も厳し い逆境にあって保たれたそのしみの無 い純潔に我々を引き上げる為、自ら罪 人のレベルまで下って来られた救い主 の力を、我々は強調しているのです。… 彼の生涯中、戦いは続きました。肉体 は敵の及ぼす力によって罪を犯しそう になりますが、主の天来の性質は罪の 欲求を一瞬たりとももて遊ぶことなく、 その天来の力は一瞬たりとも妥協され なかったのです」(EJW ST 1889 1/21)。

 5. ホワイト夫人は EJW(ワゴナー)、 ATJ(ジョーンズ)の主張を支持した。
 「キリストは人間と同じ性質を持って いた筈がない、もしそうしていたなら主 は同じ誘惑のもとに罪を犯していた筈 だ、という手紙が次々と私のところに届 いています。もし主が人間の性質をと られなかったなら、主は我々の模範ではありえません。もし主が我々の性質 にあずかられなかったなら、人間と同 じように試みられる事はなかったでし ょうし、誘惑に屈する可能性がなかっ たなら主は我々の助け主となることは できなかったのです。キリストが人間 の為に自ら人間として戦いを戦われた というのは、厳粛な事実です。主の試 みと勝利は人類がその模範に従うべ き事、人類が神性にあずかるようにな る事を教えています。…人間は悪をし りぞける力を持つ事ができます。この 世も、死も、地獄も負かす事のできな い力、キリストが勝利したように彼らを 勝利させる力を持つ事ができるので す」(朝礼拝バトルクリーク 1890 1/29, Cf 1SM p408,409)。 「多くの人は『イエスは我々と同じで なかった…だから我々は彼のように勝 利する事はできない』と言う。しかしこ れは事実ではない。…キリストは罪人 の試練を御存知である。その誘惑も御 存知である。彼は御自分の上に我々の 性質をとられた」(「我々と同じように試 みられたキリスト」1894年2月出版ホ ワイト夫人によるパンフレット p3-4)。 「クリスチャンにとって最大の誘惑は 内から湧きおこるものである。彼は生 まれつきの心の傾向と戦わねばならな いのである。主は我々の弱さを御存知 である。…罪に対する苦闘の一つ一つ は…キリストの人間の心に対する働き かけである」(同 p11)。 「アダムがエデンで罪を知らなかっ た時でさえ、神の御子が人の性質をお とりになることは無限の屈辱に近かっ た。ところがイエスは人類が四千年に わたる罪によって弱くなっていた時に 人性をお取りになったのである。アダ ムのすべての子らと同じように、イエス は遺伝という大法則の作用の結果を お受けになった。…主は我々の苦悩と 試みにあずかり、罪のない生活の模範 を我々に示すためにこのような遺伝を もっておいでになったのである」(各時 代の希望 上 p35,1898)。 「自分自身の力では我々の堕落した 性質のやかましい要求を拒む事がで きない。この道からサタンは試みをも ってやってくる。キリストは彼が遺伝的 な弱点に乗じ…る事を御存知であっ た。…イエスの中にはサタンの詭弁に 応ずるものは何もなかった。イエスは 罪に同意されなかった。一つの思いに おいてさえ彼は試みに負けたまわなか った。我々もそうなれるのである。キリ ストの人性は神性と結合していた。イ エスは聖霊の内住によって戦いに備え られた」(同 p134-135)。 「人間が誤った行動をとるように強く 影響される時、それをする事が可能で あるのを知りながらも神の力にしっか りとつかまりながら、信仰によってそう する事を拒む時、誘惑はしりぞける事 ができる。これがキリストの経てこられ た経験である」(ユース・インストラクタ ー誌 1899 7/20)。 「この戦いにおいてキリストの人 性 第五章 地球最後のメッセージ 49 は、他の誰も経験することのない程試 みられた。…これらは本物の誘惑であ って、見せかけなどではなかった。…食 欲、神の導きを求めない勝手な行動、 この世の神を拝む事、永遠の福音をこ の世の快楽の為に犠牲にする事、…神 の御子はその人性において人類を悩 ます激しい圧倒的な試みと闘われた」 (手紙 116,1898 cf 1SM p94-95)。

 6. 弱く罪深い性質をとられたキリス トを支えた力は、我々にも同じ助けを 保証する。
「全ての点において我々と同じになら れた主は、試みられた時、我々が試み られる時に感じるものを感じられまし た。…その肉体において彼は我々と同 じように弱かったのであり、御自分で は『何も出来なかった』のです。ですか ら、主が『我々の病を負い、我々の悲し みをにない』我々と同じように感じられ た時、信仰によって与えられた神の力 によってそれらすべてに勝利されたの であり、その力を我々の肉体にももた らされたのです。ですから主の名はイ ンマヌエル『神、我らと共にいます』と いうのです。神がキリストとおられると いうだけでなく、神が我らと共におられ るのです」(ATJ CCP p26)。 「御自分が救う為に来られた者たち と同じ肉をとるのでなければ、わざわ ざ肉体をとる必要などないのです。… この世に存在する唯一の肉は全人類 に共通した哀れな、罪深い、失われた 人間の肉ですから、主が宿られたのが この肉でなかったとすれば、彼は救い を必要としているこの世界に実際には 下ってこなかった事になってしまいま す。…この世にある人間の性質を主が 取られなかったとすれば、人類を…助 ける事に関して主は、地上に来られな かったのと同じくらい遠い存在のまま だからです」(同 p35)。 「キリスト及びマリヤの人性、そして我 々の性質に関するローマ(法王教)の 信仰は、…我々に内住されるには神は あまりにも聖すぎる、そしてあまりに罪 深い我々はあるがままの姿で神の御 前に来る事はできない、という考えか らきているのです。ローマ(法王教)の 信仰は、神が我々の内に住まわれる為 には、まず我々が清まって聖なる者に ならねばならないというのであり、イエ スを信じる信仰というのは我々が清く、 聖なる者となるには、まず神が我々の 内に住みたまわねばならない、という のです」(同 p39)。 「誰にでも、先祖から受け継いだ様々 な罪の傾向というものがあり、たとえま だ罪の行為として現われていなかった としても、機会さえあればいつでもそ の罪を犯す用意があるのです。この生 まれつきの罪を犯す傾向と戦い、それ を征服しなければなりません。…我々 の罪を犯す傾向(liability:罪への抵抗 力の欠如)は、主が肉体をとられた時 その上に負わされました。…こうして『 神子を罪の肉の様で罪のためにつか わし、肉において罪を罰せられた』とあ るように、主は御自分がとられた肉に
おいて罪と闘い、勝利をおさめられた のです」(同 p40,41)。 「ですから遺伝と自らの選びとの二つ の方法によって主は“世の罪”を負われ たのです。このように著しく不利な立場 にありながら、何の障害もなかったア ダムとエバが敗北した戦いを主は勝ち ぬかれたのです。そしてこの肉におい て罪を罰する事により、御自分の肉に おいて敵を打ち破る事により、主は御 自分を受け入れる者を遺伝の法則より 救い出し、御自分の神性と遺伝の法則 に打ち勝つ力を与えられるのです」(同 p43)。

 7. イエスは我々と同じように誘惑さ かたが、思いにおいてさえ罪に妥協さ れなかった。
 「証の書には、キリストは我々の持っ ているのと同じ欲望を持っておられな かったという文章があります。ある人 は既に見つけたかもしれませんし、捜 せば誰でも見つける事ができます(2T p509等)。さて、著者が言わんとしてい る事以上を皆さんが読み込んだり、言 いもしなかった事を思い込まなけれ ば、この研究には始めから終りまで、何 の矛盾もありません」(ATJ GCB 1895, p312)。 「キリストが我々と同じ欲情(passion: 激情とも訳せる)を持っていなかったと いう事についてですが、聖書のどこを 見ても、主は我々と同じ…肉の様をと られたとあります。…それ以上いっては いけないのです。彼は罪の肉の様をと られたのであり、罪の思いまで同じだ ったと言っていません。…彼の肉体は 我々のものでしたが、その思いは『イエ スの思い』でした」(同 p327)。 ※これは注意を要する点である。キ リストと我々は性質は同じだが、彼は 一度も罪を犯さず我々は犯したので、 我々の場合は体得によって罪の性癖を 身につけてしまった。これは犯した罪 の回数や程度により、その欲情の強弱 に差はあるだろうが、全ての人類が持っ ているものである。 「キリストの 人 性をどう解 釈 するか に特に気をつけなさい。罪への傾向 (propensity:性癖)をもった人間と して彼を人々に示してはならない。… キリストに汚れの一つのしみ、又は傾 向(inclination:好み)が少しでもあっ たとか、或いは汚れに染まられたとか いう印象を少しでも与えてはならな い。…彼は多くの試練に会われたが、 ただの一度もそれに応じなかった。た だの一度たりともサタンの領域に踏み 入る事によってサタンを有利になさら なかった」(手紙 8,1895)。 ※これはホワイト夫人がオーストラ リアのタスマニア島で働いていた SDA 牧師 W.L.H. ベーカーにあてた手紙であ る。この牧師は Adaptationism(キリ ストは普通の人間だったが、神の子と して受け入れられたという教理)に近 い事を教えていたらしく、ホワイト夫 人は彼にキリストは一度も罪を犯されず、当然一つのしみも汚れも傾向も受 けられなかったので、普通の人間と同 様に扱ってはいけない、と注意した。 しかしホワイト夫人がジョーンズとワ ゴナーに、キリストの人性に関してこ のような注意を与えた記録はない。し かもこのベーカーへの手紙をホワイト 夫人は出版されなかったので、1956 年 に「教理の研究」が書かれるまで一般 に公開された事はなかった(注 :「教理 の研究」は 1888 年の主張とは逆の立場 をとっている為、この手紙を引用した ものと思われる)。ともかくワゴナーと ジョーンズの主張は、次のホワイト夫 人の言葉と完全に一致する。
 「彼は人間の性質をとって人類の頭 になられる筈であったが、人間の罪深 さは取られなかった」(サインズ 1901 5/29)。 「キリストは堕落した状態における人 性を取られたが、その罪には全く関与 されなかった」(サインズ 1898 6/9)。 「キリストの人性は彼らと同じもので あったが、更に苦しみに敏感であられ た。何故なら彼の霊性はあらゆる罪の 汚れから自由であったからである。… 彼は従順で神と一つであられた。彼の 上には腐敗のしみは何一つなかった」 (サインズ1897 12/9)。 「彼は…罪は別にして我らの一人のよ うになられて、彼の生涯と品性が全て の者の模範となり、彼らが永遠の生命 の尊い賜物を得る事ができるようにさ れた」(ユース・インストラクター 1886 10/20)。 キリストは肉体的にも知的にも道 徳的にも堕落した性質をとられたと、 各 時 代 の 希 望 は 証 言 し て い る( 上 巻 p124)。肉体的、知的に我々と同じレ ベルであったというのはわかりやすい。 ここまでは意見の相違もないだろう。 問題はキリストがどのように道徳的に 我々と同じレベルであったか、である。 ホワイト夫人はこの点においてキリス トが堕落以前のアダムとは異なってい たことを明らかにしている。 「我々の最初の両親の罪は、神に対す る人間の意志の本能的服従という金 の鎖を断ってしまった」(MS 1,1892)。 「…人間は神に似せて造られたので ある。彼の性質は神の御旨と調和して いた。人間の知力は神の事物を理解す ることができた。彼の愛情は清く、食欲 や情欲は理性の支配のもとにあった」 (人類のあけぼの 上 p20)。
①罪を犯す以前のアダムは本能的に 服従できた。キリストは我々と同じよ うに聖霊の内住によってのみ服従でき た。
②アダムの性質は神のみ旨と調和し ていたので、自己否定する必要がなかっ た。キリストの性質は我々と同じよう に神のみ旨と調和していなかったので、 自己否定する必要があった。(注 : 自己 否定したからこそ、キリストの選択はいつも神のみ旨と調和していた。これ が品性である)。
 ③アダムは理性で食欲や情欲を支配 することができた。キリストは我々と 同じように理性だけでそれらをコント ロールする事はできず、神の助けを常 に受けなければならなかった(注 : ホ ワイト夫人も否定しているようにキリ ストはゆがめられた食欲や、低級な情 欲を持っていなかったが、神の力によっ て支えられなかったらすぐにでもそれ らの傾向〔propensity: 性癖〕を持つに 至ったのである)。

 ワゴナーの結論はこうである。 「ある人はこう言うかもしれません。『 これは私にとって何の慰めにもならな い。正直に言って私には模範が与えら れていても、それに従えない。何故な ら私はキリストが持っていた力を持っ ていないのだから。主は地上において も神であられたが、私は人間に過ぎな い。』しかしあなたが求めさえすれば彼 の持っておられた力にあずかる事が できるのです。『彼自身弱さを身に負う て』おられたにもかかわらず『罪は犯さ れなかった』のです。ですから疲れた、 弱い、罪に苦しむ魂は希望を持ちまし ょう。助けを必要としている時にそれが 必ず与えられる『恵みの御座に』『はば かる事なく』近づきましょう。主は『私た ちの弱さを思いやる事ができる』ので すから」(EJW CHR p29)。

III. 完全
1. 我々に与えられている完全とは、 罪を犯し続ける事からの救いである。
 「小さい角…が天の上なる祭司制… のかわりに地上の人間による堕落した 祭司制、とりなし、聖所をうちたてた事 を我々は見てきました。この…祭司制 によって罪人は祭司に自分の罪を告 白した後、更に罪を犯し続けます。その 祭司制には…それ以上の力はないの です。しかし残念な事に不法の秘密の 力に属していない者、イエスとその祭 司制を心から信じる者さえ、告白した 後罪を犯し続けているというのが現実 ではないでしょうか。  これは我々の偉大な大祭司とその 払われた犠牲、とりなしに対する侮辱 ではありませんか。このようにして我 々が主とその犠牲ととりなしを『荒す 憎むべきもの』と同位置に置き、主と そのとりなしには『不法の秘密の力』 以上の力はないと言い表す事は大そ れた事ではないでしょうか」(ATJ CCP pl21,122)。 「全ての信じる者がこの世にあって生 きている限り、清く罪と汚れのない… 生活をおくる事のできる道を開き、そ れを私たちのために聖別されたので す」(同 p83,84)。 ※ホワイト夫人も全く同意見である。 「あがなわれることは、罪を犯さなくな る事である(RH 1900 9/25)。

2. その完全はこの不完全な肉体にお いて到達できる。
 「品性の完成-この世にあって、人間 の肉体において得られる完全-がク リスチャンのゴールである。キリストは この世にあって、人間の肉体において それを完成されました。それによって 全ての信じる者が彼にあってそれを完 成する事のできる道を開かれたので す…」(ATJ CCP p84)。 「さて、取り違えていただきたくないの ですが、私も皆さんも主に頼らないで 生きる事ができる程、清くなるなどと考 えてはいけません。この肉体が変化す るのを期待してはいけません。もしそう するなら重大な危険に陥り、恐ろしい 罪を犯すでしょう…。この滅ぶべき体 は主が来られる時に朽ちないものに変 えられます。…誰でも自分の体は清め られたと思い込み、全ての衝動は神か らのものであると考えるなら、それは自 分の罪深い肉の欲求と聖霊とを取り違 えているのです。その人は神と自己と を置き換え、自分自身を神の位置に置 いているのであり、これこそ法王教の 精神なのです」(EJW GCB 1901, p146)。

 3. 完全とは誘惑を感じなくなる事で はなく、それに応じなくなるのである。
 「クリスチャンには何とすばらしい特 権が与えられているのでしょう。…どん なにサタンが攻撃しようとも、肉の一 番弱い所を攻めようとも、彼は全能者 の陰に宿り、神の力に満たされる事が できます。サタンより強い御方がその 心に絶えず住まわれる」(EJW ST 1889 1/21)。
 「ある者たちは他よりもずっと整えら れた気質を持っています。自分の好ま しくない性格の為にいつも悩まされ、 苦しめられ、問題にぶつかったり…内 なる敵と闘っている人々がいる一方で はその半分もしなくてすむ人たちもい る」(2T p74)。 ホワイト夫人はこの違いは子供の頃 の家庭での訓練がもたらすと指摘し、 良いしつけのおかげで苦しまないで済 んだ人々は、これらの不幸な人々を裁 いてはならないと注意している。しか し同じ教育を受けても気質が異なる場 合がある。 「ある子供たちには道徳的な力が強 く支配しており、彼らは自分たちの思 いと行動をコントロールする意志の力 を持っています。他の子供たちにはほ とんどおさえがたい程の、動物的な激 情があります。同じ家庭でもしばしば見 られるこれらの違った気性に対処する 為、母親と同じように父親も天の助け 主から助けと忍耐をいただかねばなり ません」(サインズ 1887 12/20)。
 「天使たちは一番必要とされている所 にいつもいて、自我と最も激しい争い をしている人や、最も失望的な環境に ある人の側でいつも働いている。多く のよくない性格をもった弱い臆病な人 々にも天使たちの特別な保護がある。 利己的な人がはずかしい仕事と思うような事、すなわちあらゆる方面に劣っ た素質をもつ不幸な人々に仕えること が…天使たちの働きである」(ミニスト リー・オブ・ヒーリング 1905 p76)。
 ※性癖、性向、気質は勝利すること によって清められていく。 「新しい改心者は長年の習慣や、特 別な誘惑との激しい戦いをしばしば経 験するであろう。そして支配的な激情 や性質に負けて…あやまちや罪の行 為を犯す事があるかもしれない」(5T p604,605)。 「天よりの恵みの影響下にあって、品 性の悪い特徴は確実に弱まっていく一 方、全ての良い性質は力強くなってい く」(サインズ 1882 9/27)。 「 神と神 が つ かわされたイエス・キ リストを体験によって知ることは…人 を自己を治める者にする。低い性質 の 衝 動と欲 望とは高 度 の 意 志 の 力 に支配されるようになる」(実物教訓 p73,1901)。 「真理のパン種も誰にも気づかれな いうちに、徐々に魂を変えていくのであ る。生れながらの傾向(inclination:好 み)がなごやかに静められる」(同 p73)。 「我々は一つだに罪の傾向 (propensity:性癖)を持ち続ける必 要はない。…我々が神性にあずかる につれ、先天的、後天的な罪への性向 (tendency)は品性から切り離される」 (RH 1900 4/24)。

 4. 罪とは誘惑に応じる事である。
「誰も罪を犯すように強制されること はない。彼自身の同意がまず必要であ って、欲望が理性を支配し、不義が良 心を征服する前に、その魂が、罪の行 為を意図しなければならない。どんな に強くとも、誘惑は罪の言い訳にはな らない」(5T p177)。 「イエスは罪に同意されなかった。ひ とつの思いにおいてさえ彼は試みに負 けたまわなかった。我々もそうなれる のである」(各時代の希望 上 p135)。 「あなたがむなしい想像にふけりあな たの頭脳に不純な事柄を考えめぐらす のを許すなら、ある程度神の前にあな たはその想像を実際に行動に移した のと同じく罪がある。行動を阻んでい るのはその機会がないというだけの事 である」(2T p561)。 「不純な思いが心に秘められるなら、 それだけで罪となり、何も言葉や行動 として表わさなくてもよい。…あなたを 誘惑するのはサタンの仕業だが、それ に属するのはあなた自身の行動であ る。誘惑されている者を犯行に至らせ る為に強制する力は、サタンの全勢力 をもってしてもありえない。罪の言い訳 はない」(4T p623)。 「好ましくない言葉の罪は悪い思いを 心に秘める時に始まる…不純な思いをそのままにし、聖くない欲望を心に 秘めるなら、魂は汚され、その忠誠さ は妥協させられる。…我々が罪を犯さ ない事を望むなら、その最初の兆しを 避けなければならない。どんな聖くな い思いも、瞬時に追い払わねばならな い」(5T p176-177)。

5. キリストの最後の贖いは我々の総 ての罪を示す事によって完全な勝利を 可能にする。
 「主は我々の承諾なしに我々の罪を 取り去る事はなさいません。私はいつ でも主を選ぶか、自分の罪を持ち続 けるかの選択をしなければなりませ ん。…これから後神が罪だと示された ら、それが何であろうと捨てる事をため らうべきでしょうか。…主にこう言いま しょう。『主よ、私は今選びます。私はこ の罪とあなたとを引き換えます。わたし はあなたを選びます…。』一体どこの誰 が自分の罪を示されて失望する必要 があるのでしょうか。 さて兄弟がたの何人かはこの選びを さっそくなさっているかもしれません。 ここに来た時は何も感じていなかっ た、今まで気づかなかった何かを聖霊 が彼らに示されました。…するとそのよ うに示された事を感謝して、罪を捨て るかわりに…彼らは失望するのです。『 一体どうしよう。私の罪はこんなに多い のか』と…。 もし以前には考えてもみなかった罪を 示されたとすれば、それは主がこころ の深みを清めようとしておられる、とい うまでの事で、いつかそれはついに心 の底にまで達するのです。そして御自 分の御旨にそわない、不純で汚れたも のの最後の一つを取りだして我々に示 される時、我々が『そんなものよりキリ ストを持った方が良い』と言うならば 働きは終了し、生ける神の印がその人 の品性のうえに押されるのです(会衆: アーメン!)。 完全にイエス・キリストによって満たさ れているのと…いくつかの罪を知らさ れずに保ち続ける事と、どちらを望まれ ますか?もし我々が罪を持ち続けるな ら、どうして神の完全な品性である神 の印が我々に押されましょうか。それで 我々が夢にも思わなかったような深い 所まで主は掘り下げられるのです。我 々自身は自分の心さえ知らないのです から、…主にその働きを続けていただ きましょう。…もし主が我々に知らせる 事もしないで我々の罪を取り去るとし たら、それには何の意味があるでしょう か。我々は機械にすぎなくなってしまい ます。…我々は理知的な、神の器なの です。…理性を備えた道具なのです。 我々は自分の選びによって神のご用 に用いられるのです」(ATJ GCB 1893, p404,405)。
 ホワイト夫人もこの主張を支持する。 「あなたの置かれた状態が、あなたの 品性の新たな欠陥をあなたに示す役 割を果たしました。しかし示されたもの は、もともとあなたの内にあったものに他なりません」(RH 1889 8/6)。 「主の日には…心のすべての部屋を さがして隠れた全ての自己欺瞞を見 つけだされる」(彼を知る為に p290)。 「知られなかった品 性の傾 向は… 明るみにだされねばならない」(7 T p210,211)。「神は…彼らの隠された 欠点を示される」(4T p85)。
 「 大 い なる贖 罪 の日を閉じるにあ たり… 残りの 教 会 は … 自 分 たちの 罪深さに完全に気づ いている」(5T p472,473)。 ※告白は罪人の為である。それを告 白して義と取りかえる事によって勝利 し、品性を完成させるのが目的である。 だから神が我々にのぞんでおられる告 白は、今までの罪を全部思いだして、 いつどんな罪を犯したかのリストをひ とつずつ告白して謝罪することではな い。罪の行為を引き起こさせる「品性 の傾向」が直されねばならない。その 為に神は品性の落度が現れるような情 況に我々を置かれるのであって、罪が 示されるのは有り難い事なのだ。

 6. この完全は恩恵期間終了前に到達 されねばならない。
 「主は…堕落した肉体においても罪 を犯さずに生きる事ができるのを証 明されました。七つの災いが下る時に は全ての者がそれを認めるように、主 の完全な生涯が朽ちるべき肉体に表 わされているのです。…もしこの力が 恩恵期間の終了以前に表わされない なら、それは人類に対して何の証にも なりません。…ですから思恵期間の終 了以前に、罪の肉を持ち続けているに もかかわらず主にあって完全となり、 罪を犯さなくなった人々のグループが 現れるのです。…これ以上の神の力の 証明はありません」(EJW GCB 1901, p146,147)。 「これはすべてこの思恵期間中にな されねばならない。この働きが我々の 内に完成されるのは、今である」(2T p355)。 「心の内にあるものがことごとく示さ れる時が近い。すべての者は鏡に写し て見るように、隠れた動機が結ぶ実を 見せられる。…我々の思恵期間は閉じ つつある」(RH 1896 11/10)。 「今我々の大祭司が我々の為に贖い をしておられる間に、我々はキリストに あって完全になる事を求めなければな らない。救い主はその思いにおいてさ え、誘惑の力に屈服されなかった。サ タンは人々の心の中になんらかの足 場を見つける。心の中に罪の欲望があ ると、サタンはそれを用いて誘惑の力 を表わす。…しかしキリストは御自身に ついて『この世の君が来る…。だが彼 はわたしに対してなんの力もない』と 宣言された。サタンは神の子の中に彼 に勝利を得させるなんのすきも見つけ る事ができなかった。神の御子は天父 の戒めを守られた。そしてサタンが自分に有利に活用できる罪が彼の中に はなかった。これが悩みの時を耐えぬ く人々の内になければならない状態な のである」(各時代の大争闘 下 p397)。

7. 1888 年の信仰による義=第三天 使の使命である。
 「(信仰による義)を自分で理解して いる者は100人中1人もいない」(RH 1889 9/3)。
 「信仰による義認とは何か、それは人 が己のために自分の力では出来ない ことを人の代わりに行なうことによっ て、人間の誇りを地に落とす神の働き である」(シリーズA No.9, 1897)。
 「何人かが私に手紙を送って信仰に よる義のメッセージが第三天使の使 命かどうかを尋ねていますが、私は『そ れこそ真に第三天使の使命である』と 答えました」(RH 1890 4/1)。
 「それを信じると主張する者の中にさ え第三天使の使命を理解している者 は少ない」(原稿 15,1888)。 「第三天使の使命を説いている牧 師の全部がそのメッセージが何であ るのか理解している訳ではない」(5T p715,1889)。
「我々は第一、第二天使の使命につい て口にするし、第三天使の使命につい てもある程度知っているものと思って いるが、限られた知識で満足している ならば、我々は真理の更に深い理解を 得るには失格である」(GW p251,1892)。
 「第三天使の使命は滅びつつある世 に対する唯一の救いの望みとして示さ れなければならない」(手紙 87,1896)。

8. 1888 年の信仰による義が体験さ れる時、大いなる叫びが始まる。
「我々はそれに参加する事もしない事 もできます。…すべての民族、国家を 代表する白人、黒人、黄色人種、インデ ィアン、大多数は貧しい者だが、何人 かの金持ちもおり、わずかの上層階級 の人々と多くの取るに足りない群集か らなる集団ができあがるのです。世界 中のありとあらゆる性格、人種、国柄を 代表する人々が同時に同じメッセージ を語り、主イエス・キリストの品性をあ らわすのです。…それが起こらねばな らない事を我々が知り、信じるならそ れは実現するのです」(EJW GCB 1901 p149)。 「神は御自分の力が…完全な生涯を おくらせる事が出来るのを世に示され ます。…それも単にイエス・キリストと いう一人の御方だけでなく、彼に従う 何千という人々の内にあらわされるの です。…キリストの完全…が教会全体 を通して世に示されるのであり、これが 人類に生か死かの選択をせまる最後 の働きとなるのです」(EJW 同 p406)。
 「世界は神に関する誤った解釈の暗 黒に覆われている。人々は神の品性の知識を見失い、それを誤解し、誤って 理解している。この時にあたって、神か らの使命、良き感化を与え、救いの力 を持った使命を宣言しなければならな い。神の品性を明らかにしなければな らない。…憐れみに満ちた最後の光、 世界に伝えるべき最後の憐れみの使 命は、神の愛の啓示である。神の子ら は神の栄光を表わさなければならな い。彼らはその生活と品性において、 神の恵みが彼らのためにどんなことを なしたかを表わさなければならない」( 実物教訓 p391,392 1900)。

Ⅳ . 福音
 1. 滅びるのはむつかしい。
失われる為には、既に与えられた賜 物と今も強く迫ってくる神の愛を拒ま なければならない。 「なぜなら、キリストの愛がわたしたち に強く迫っているからである。わたした ちはこう考えている。ひとりの人がすべ ての人の為に死んだ以上、すべての人 が死んだのである。そして、彼がすべて の人のために死んだのは、生きている 者がもはや自分のためにではなく、自 分のために死んでよみがえったかたの ために、生きるためである」(第二コリ ント5:14,15)。
 ①ひとりの御方が我々の為に死なな かったら、現在全人類は生きていない。
②我々がクリスチャンであろうとな かろうと、この生命はキリストの犠牲 によって無償で与えられている。
 「この世の生命さえキリストの死のお かげである。我々の食べるパンはキリ ストの裂かれたからだをもって買われ たものである。我々の飲む水はキリス トの流された血によって買われたので ある。聖徒であろうと、罪人であろうと、 日毎の食物を食べる者は誰でもキリス トの体と血によって養われているので ある。どのパンにもカルバリーの十字 架の印がおされている。どの泉にもカ ルバリーの十字架が反映している」( 各時代の希望 下 p141,1898)。
 ③これを心から信じる者にとって利 己的に生きる事は不可能になる。 「なぜなら、キリストの愛がわたしたち に強く迫っているからである」(第二コ リント5:14)。 「神の慈愛があなたを悔い改めに導 く」(ローマ2:4)。 「我々は『神の慈愛が人間を悔い改 めに導く場合もある』と言い換える必 要はありません。聖書はそれが必ずや 人を悔い改めに導くと断言しているの であり、我々はその確かさを確信して よいのです。神の慈愛が続く限り、全人 類は必ず悔い改めに導かれるのです」 (EJW ST 1895 11/21)。
「もちろん人は自分がキリストに導か れていることを意識する前に、罪深い行為を恥じて悪い習慣をやめる事があ ります。けれども人が正しい事をしたい と切望して改めようと努力する時はい つでも、キリストの力が働いて彼らを 引きつけているのです。自分たちは意 識してはいないけれども、その力が心 のうちに働いて良心を呼びさまし、行 為が改められるのであります。…罪人 はこの愛を拒み、キリストに引かれるこ とを拒むこともできますが、逆らいさえ しなければ、自然にイエスに引きよせ られるのであります」(キリストへの道 p28,29 1892)。
※神は我々が何もしないうちから 我々を救われる為にあらゆる手を尽く してこられた。「○○さんをどうか救っ てください」「弱い私を助けてください」 などと祈る前から助けは目の前に与え られている。我々がすべきなのは、既 に神自ら率先して我々を救おうと働い ておられるのに気付くことである。そ れに気付くならおのずと感謝が起こり、 悔い改めに導かれる。知りつつ罪を犯 し続けるのは不可能になる。罪を犯せ るのはその人がまだ神の愛を知らない か、知ったうえで聖霊を拒んだかのど ちらかである。 「(福音が示されても)すべての人は 悔い改めません。何故でしょう?彼らは 神の慈愛と忍耐と寛容との富を軽ん じ、主の憐れみの導きから離れるから です。しかしどんな人でも主に抵抗し なければ、悔い改めと救いに導かれて しまうのです」(EJW ST 1895 11/21)。 「はかり知れない愛は、主に贖われた 者たちが世から天へわたる為の通路 を設けられた。その通路というのは神 の御子である。天使の道案内人たちは 我々の迷いやすい足を導くためにつ かわされた。天からの輝くはしごは全 ての人の行く手をさえぎり、人が不道 徳と愚行に落ちていかないように立ち はだかる。人が敢えて罪の生活を続け るには十字架につけられた贖い主を 踏みにじっていかなければならないの である」(サインズ 1882 1/28)。

 2. 人類は既に神の子で、永遠の命を 譲り受ける資格を与えられている。
 「しかし、信仰が現れる前には、わたし たちは律法の下で監視されており、や がて啓示される信仰の時まで閉じ込 められていた。このようにして律法は、 信仰によって義とされるために、わた したちをキリストに連れて行く養育掛 となったのである。…あなたがたはみ な、キリスト・イエスにある信仰によっ て、神の子なのである。…相続人が子 供である間は、全財産の持ち主であり ながら、僕となんの差別もなく、父親の 定めた時期までは、管理人や後見人 の監督の下に置かれているのである。 それと同じく、わたしたちも子供であっ た時には、いわゆるこの世のもろもろ の霊力の下に、縛られていた者であっ た。しかし、時の満ちるに及んで、神は 御子を女から生まれさせ、律法の下に 生まれさせて、おっかわしになった。そ れは、律法の下にある者をあがない 出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった」(ガラテヤ3:23- 26;4:1-5)。 「神は人類を見捨てられてはいない ので、最初に創造された人間が神の 子と呼ばれて以来、全人類は神の子孫 であり、跡継ぎなのです。…「信仰が現 れる前には」すべての人間が神からさ まよい出ていたにもかかわらず、いつ かその約束を受け入れるようになるま で律法の下で監視され、養育掛に閉 じ込められて、守られていたのです。不 信心な者、罪の奴隷となっている者で さえ神は自分の子供だと認められると は、何という特権でしょう。さまよえる 放蕩息子ではありますが、それでも子 供なのです。神は全人類を『御子にあ って受け入れられた』のです。この思 恵期間は神が父である事を我々が知 り、実際に神の子となる為のチャンス として与えられているのです」(EJWOT p166,167)。 ※律法の下にあるのは旧約時代の 人々ではなく、今日でも信仰によって 罪の支配から解放されていない人々で ある。信仰によって学ばない事を我々 は痛みによって学ぶ。多くの人は苦し みに遭い、窮地に陥るまで神に頼ろう としない。神の鞭は愚かな者をキリス トのもとへ引きずって行く養育掛であ る。 「相続は信仰の義によるものですか ら、どの子孫にも確実に与えられてお り、誰でも手に入れる事ができるので す。信仰は誰でも楽に自分のものとす る事ができるので、全ての人が公平な チャンスを与えられているわけです。神 はすべての人に等しく信仰を分けあた えておられます。信仰のはかりは恵み のはかりであり、『キリストから賜わる 賜物のはかりに従って、わたしたちひ とりびとりに、恵みがあたえられてい』 ます(エペソ4:7)。キリストは全ての人 におしみなく与えられているからです」 (EJW ST 1896 2/27)。 ※我々の伝える福音に力がないのは 人々が悪いのではく、我々の福音の理 解がないせいである。それを真に理解 し、体験する時、大いなる叫びが始まる。 1888 年の使命者たちはこの大いなる光 の最初の兆しを見たのだった。

 3. すべての人はすでに義と認められ ている。
 「このようなわけでひとりの人によって 罪がこの世にはいり、また罪によって 死がはいってきたように、こうしてすべ ての人が罪を犯したので死が全人類 に入りこんだのである。…このようなわ けでひとりの罪過によってすべての人 が罪に定められたように、ひとりの義な る行為によっていのちを得させる義が 全ての人に及ぶのである。すなわち、ひ とりの人の不従順によって多くの人が 罪人とされたと同じように、ひとりの従 順によって多くの人が義人とされるの である」(ローマ5:12,18,19)。 「ここに例外はありません。罪の定め が全ての人に臨んだように、義認は全ての人に及ぶのです。主は全人類の為 に御自分を与えられました。いえ、あら ゆる人々に御自分をお与えになったの です。無償の賜物はすべての人のもの となりました。それが何の価もいらな い賜物であるという事自体、それが例 外なく与えられるのを証明しています。 もしそれが何らかの特別な資格を有 する者に与えられるのであれば、もうそ れは賜物とは呼べません。ですからキ リストの義と生命の賜物が地上のすべ ての人に与えられたというのは事実で あり、聖書が明らかにそう証言してい ます。もし本人が拒みさえしなければ、 今まで生を受けたどんな人間も救わ れてならない理由はないのです。多く の人々はこんなに気前良く与えられて いる賜物を受けようともしないのです」 (EJW ST 1893/126)。 「信仰を持つという事は主御自身を 持つという事ですから、キリストにある 信仰は必ず神の義をもたらします。こ の信仰はキリストが御自分をすべての 人に与えられたように全人類に与えら れています。では何が総ての人が救わ れるのをはばむのかと皆さんは聞か れるでしょう。実は何もないのです。た だ、総ての人はその与えられた信仰を 保たないというだけで、もしすべての 人が神から与えられた信仰を捨てな いなら、一人残らず救われるでしょう」 (EJW ST 1896 1/16)。

 4. 神は御自分から罪人を滅ぼされる のではない。 罪人が壁を作って救いを拒み続ける 時にのみ、滅びという実を刈り取る。
「悪人の子供が信じるのは、善人の子 供が信じるのと同じくらい自然な事で す。人間が信じる事に困難を感じるの は、自己に対する誇りという壁を築き 上げた場合だけです」(EJW ST 1896 8/6)。 ホワイト夫人も全く同意見である。 「神は光であり、その内に闇はない。 光がなければ影もできない。しかし影 は太陽によってできるが、太陽がそれ をつくり出すのではない。影をつくり出 すのは光をさえぎる障害物であり、神 の与えられる光を拒むと必ずその結果 があらわれる。影ができ、その暗さは与 えられた光の分だけ暗いのである。… 『人は自分でまいたものを刈りとるよ うになる』(ガラテヤ6:7)。神は誰一人 として滅ぼしたまわない。滅びるすべ ての人間は自分で自分を滅ぼすので ある。人間が良心のささやきを聞き流 す時、不信の種がまかれ、必ずその実 を刈り取る事になる」(RH 1885 11/24)。

5. 罪に死ぬ時、それ以上罪を犯し続 けることに耐えられなくなる。
 「一人の人が…腸チフスで死んだとし ます。もう一度よみがえって意識を回復 したとして、この人は再び同じ闘病生 活を続ける事ができるでしょうか。彼は 殺される事を願うでしょう。何故なら一 度彼を死に至らしめた病気でまた苦し
まねばならないのですから。同様に人 が罪に死ぬ時、…自分を殺した罪と一 緒によみがえることはできないのです。 しかし多くの人の問題は、死にたくな る程罪にいや気がさしていない、とい う事です。彼らはいくつかの特定の罪 に関してうんざりし、それらの罪に死に たいと願い、そしてそれを捨て去ったと 思い込むかもしれません。それからま た別のいくつかの罪を嫌うようになる かもしれません。その罪があると、人々 からは嫌われるし、低く評価されるとい うので、それらも捨てようとします。しか し彼らは罪ー心に巣くっている、まだ 行動にあらわれる段階にない罪自体 を憎むに至っていないのです。…人が 罪を心から憎むようになる時…それ以 上罪の中に生き続けなさいと言うのが 無理な話なのです」(ATJ GCB 1895, p352)。 「我々にはいつでも罪を犯す機会が あります。毎日それは目の前にありま す。しかし『いつも主イエスの死をこ の身に負うている』『私は日々死んで いる』という御言葉が立ちはだかりま す。…罪の誘いにのるよりは死んだ方 がましだと思うのです。…『罪に対して 死んだわたしたちがどうしてなおその 中に生きておれるだろうか。それともあ なたがたは知らないのか。キリスト・イ エスにあずかるバプテスマを受けたわ たしたちは、彼の死にあずかるバプテ スマを受けたのである』…『あなたが たは…罪に支配されることはない』罪 の支配から救われた者は、罪に仕える 事から救われたのです」(同 p353)。

 6. 聖霊に支配される時に善を行なう のがたやすくなる。

 「聖霊によって歩きなさい。そうすれ ば決して肉の欲を満たすことはない。 何故なら肉の欲するところは御霊に反 し、また御霊の欲するところは肉に反 するからである。こうして二つのもの は互いに相逆らい、その結果あなた がたは自分でしようと思うことをする ことができないようになる」(ガラテヤ 5:16,17)。

 この聖句は二通りに解釈できる。

 ①聖霊があっても肉の欲が強すぎて 勝利できない。

結論 : この肉が変るまで罪を犯し続 ける。

 ②肉の欲があっても聖霊の力が強す ぎて罪を犯せない。

結論 : 今から勝利することが可能。

ど ち ら が 福 音 だ ろ う か。1888 年 の メッセンジャーたちは②の立場をとっ た。戦いは聖霊がして下さる以上、ど んな肉の欲にも勝利できるのである。

 「人間が悔い改めて神の御霊の下に ある時、それは肉とその傾向や欲望 から分離できるという事ではありません。…否、以前と同じく堕落した罪深い 肉を持ってはいますが、もはやその人 はこれらの奴隷ではないという事なの です。彼は傾向や欲望といった肉の支 配から解かれ、御霊の支配に服するの です。今やその人は肉に勝利し、肉を 十字架につけ、肉を抑え続ける力に支 配されるのです。…肉自体が聖霊によ る神の力の支配下につながれるので すべての悪は根もとから断たれ、生活 の内に表わされなくなります」(ATJ RH 1900 9/18)。

「罪の増し加わったところには恵みは それ以上に満ちあふれた(原語訳)。そ れは罪が支配するに至ったように恵み もまた義によって支配し、わたしたちの 主イエス・キリストにより永遠のいのち を得させる為である」(ローマ5:20,21)。 「恵みが支配する時、悪を行なうより も善を行なう方がたやすい…というの がその比較です。お気づきになりまし たか?罪が支配するに至ったように、 恵みもまた支配するのです。罪が支配 している時は恵みを締め出し、神が与 える力を全く寄せつけないようにする のですが、一旦、罪の力が破られて恵 みが支配するとそれは罪を追いだし、 罪の力を残らず撃退するわけです。で すから罪の支配のもとに善より悪を行 なうのがたやすいのと全く同じように、 恵みの支配下においては悪を行なうよ り、善を行なうほうがたやすいのです」 (ATJ RH 1899 7/25)。

 「もし恵みに罪以上の力がなければ、 罪から救われるのは不可能ですから、 罪からの救いは恵みに罪以上の力が あるか否かにかかっているのです。… 昔から人間にとって善を行なうのは非 常な努力を要してきました。これは人 間が生まれつき罪の力の絶対的な支 配に服している為です。そしてその支 配が続く限り、人間が知っている、そし て欲している善は行なう事が困難どこ ろか、全く不可能なのです。しかしそれ 以上の力が支配するなら、先の力に服 していた以上にその力に服することが たやすいのは、自明の理でありません か」(ATJ RH 1896 9/1)。

 「新生すると古い性質に対しはるかに 優勢な立場になります。…神の相続に あずかる者は地上の両親よりも天の 父が偉大であるように、遺伝によって 受けた悪への傾向よりも義を行なわせ る力のほうが、彼の内に強く働きかけ るのです」(EJW EC p66)。

 7. 選択は我々にまかされているが、 実行力を与えるのは神である。
「我々は自分自身を主に明け渡すべ きである。この明け渡しが完全になさ れる時、キリストは…我々の為に始め られた働きを終えることがおできにな る。それから主は我々を完全に回復 する事ができるのである」(RH1907 5/30)。 「ただ必要なのは本当の意志の力と は何であるかを知ることであります。意 志とは人の性質を支配している力、決 断力、選択の力であります。すべてはた だ意志の正しい行動にかかっている のであります。神は人間に選択の力を お与えになりました。つまり人がそれを 用いるようにお与えになったのであり ます。私どもは自分の心を変えたり、ま た自分で愛情を神にささげることはで きません。けれども神に仕えようと選ぶ ことはできます。意志は神にささげるこ とができます。そうすれば神は私どもの うちにお働きになって神の喜びたもう ように望み、また行なうようにしてくだ さいます。こうして性質は全くキリスト のみたまに支配されるようになり、キリ ストが愛情の中心となり、思想もまた 彼と一致するようになります」(キリスト への道 p57)。 ※エンジンは神の力だが、ハンドル は我々が聖霊の導きに従って握らねば ならない。

8. 安息日は勝利する力を与える喜び の日である。

 「万物はみな御子によって造られたか らである。…万物は彼にあって成り立 っている。そして自らはそのからだなる 教会のかしらである。…神は御旨によ って御子の…十字架の血によって平 和をつくり、万物…をことごとく彼によ って御自分と和解させて下さったので ある。あなたがたもかつては悪い行い をして心の中で神に敵対していた。し かし今では御子はその肉のからだに よりその死をとおしてあなたがたを神 と和解させ、あなたがたを聖なる、傷 のない、責められるところのない者とし て、みまえに立たせてくださったのであ る」(コロサイ1:15-22)。 「キリストが創造主であるという宣言 と、彼にあって我々は贖われているとい う宣言が同時になされているのには、 理由があります。…やみの力から救わ れる事について書いているパウロは その救い主の力を我々に知らせようと しているのです。教会のかしらが全て を造られた創造主であるのを知ること は、我々に希望を与えてくれるのです」 (EJW CHR p34)。

 「神は御子を万物の相続者と定め、 また御子によってもろもろの世界を造 られた。御子は…その力ある言葉をも って万物を保っておられる」(へブル 1:2,3)。 「目を高くあげて、だれが、これらのも のを創造したかを見よ。…イスラエル よ、何ゆえあなたは、『わが訴えは我が 神に顧みられない』と言うか。あなたは 知らなかったか、あなたは聞かなかっ たか。主はとこしえの神、地の果の創造 者であって、弱ることなく、また疲れる ことなく、その知恵ははかりがたい。弱 った者には力を与え、勢いのない者に は強さを増し加えられる。年若い者も 弱り、かつ疲れ、壮年の者もつかれは てて倒れる。しかし主を待ち望む者は 新たなる力を得、わしのように翼をはっ て、のぼることができる。走っても疲れ ることなく、歩いても弱ることはない」( イザヤ40:26-31)。
「主の力は何もないところに何でも創 造できるという能力です。ですから主 は力のない者を通して奇跡を行なうこ とができるのです。それで何でもキリ ストの創造の力を思い起こさせるもの は、我々の霊的力と勇気を奮いたたせ るに違いないのです。そしてこれが安 息日の目的なのです」(EJW CRR p35)。

 「詩篇92篇、安息日の歌を読んでみ て下さい。…安息日は創造の記念日で す。…詩篇記者は神の望まれる安息日 の守りかたを実行しました。自然界に 思いをはせ、そこにあらわされた神の 力と慈愛を読み取ったのです。そうす る事によって、百合の花をソロモンをさ えしのぐ美でよそおわれる神は、はる かそれ以上に人類を覚えていてくださ るのを悟り、…天体を見上げてそれら が無から創造されたのを思う時、その 同じ力が人間を弱さから救い出される との希望が湧いてくるのでした。…ま とめると次のようになります。

 ①神に対する信仰はその力を知ること によって得られる。神への不信とは、神 が御自分の約束を果される力がある のを知っていないことを意味する。

 ②神の創造のわざをよく考える時、神 の力についての正しい知識が得られる (ローマ1:20)。

 ③信仰が勝利を与える(第一ヨハネ 5:4)。…聖書と自然を通して神の力 を知ることにより、信仰を得て勝利す る。…ですから安息日を正しく守ること は、戦うクリスチャンにとって力の補給 となるのです」(同 p36,37)。

V. 聖所の清め
1. 今は大いなる贖罪の日である。
ジョーンズとワゴナーと一緒に各地 でリバイバル集会を持っていた頃のホ ワイト夫人の言葉をみると、贖罪の日 に我々がなすべき特別な働きがあるの を繰返し強調している。 1890 1/21 「我々は大いなる贖罪の日に 住んでおり、民の罪から聖所を清める キリストの働きに協力しなければなら ない」(以下RH記事)。 1/28 「キリストは天の聖所におられ て民のとりなしをしておられる。…主は 聖所を民の罪から清めておられる。我 々の働きは何であろうか?キリストの 働きに協力することである。」 2/4 「キリストの仲保の働きは、…誰 よりも多くの光を与えられていると公 言する民によって学ばれもせず、理解 されてもいない。」 2/11 「キリストは天の宮を民の罪か ら清めておられるが、我々は魂の宮を 道徳的汚れから清めることによって、
 主の働きに協力しなければならない。」 2/25 「人々はイエスが(彼らの)… 贖いをするために入って行かれた聖 所に入っていない。我々は現代の真理 を理解する為に聖霊を必要としている が、教会は霊的かんばつ状態にある。」 3/4 「神の御座からの光が照らして いるが、これは何の為だろうか。それは 民が大いなる神の日に立つことができ るように、用意させようとしておられる のである。」 3/11 「この二年間伝えられてきたメ ッセージに我々は主の御声をさらに確 かに聞いた。…我々は信仰とは何であ るか、その栄光をやっとかいま見はじ めた。」 3/18 「過去三年半の間、あなたが たは天からの光を受けてきた。…主は それをあなたの品性に現わし、あなた の経験に織り込もうとされる。…もし兄 弟たちが神と協力してきたなら、過去 三年間我々に送られてきたメッセージ が天からのものであることを疑わなか っただろう。」

2. 聖所の清めとは神の民の清めであ る。
 「地上の聖所の清めは、聖所からイス ラエルの子らの汚れを取り除く働きで した。…この聖所の働きをなし終える という事は、また民の為の奉仕の終了 を意味します。…(地上の)聖所の清め は…真の幕屋においてイエスを信じ る者の罪による汚れが清められるの を予表していたのです。そしてこの清 めの時期は…2300の夕と朝の間、紀 元1844年だとキリストが宣言されまし た。…イエスを信じる者を完全に罪に 勝利させ、罪人を滅ぼすことによって 宇宙から罪のしみをぬぐい去る時に、 この聖所は清められるのです。神の奥 義の完成は福音の働きの終了を意味 します。福音の働きの終了とは、まず第 一に一人びとりの信者から全ての罪… を除き、永遠の義をもたらし、その内に キリストが完全にあらわされることで す。…そして第二に福音を受け入れな かった者の滅びです。…もはや生かさ れていても自分たちの惨めさを増して いくだけなのに、敢えて生命を与え続 けるというのは神の御心ではありませ ん。… 聖所が清められて福音の働きが終了 する為には、まず民の間に清めがなし 終えられねばならないことを、地上の 聖所での働きは示しています。つまり 聖所での奉仕にあずかる一人びとり が罪を犯さなくなって、とがの贖いが なし終えられるまでは、聖所自体が罪 から清められることはないのです。… 民の告白と祭司のとりなしによって罪、 とが、不法が聖所に流れ込み続ける間 は、聖所は清められないのです。…聖 所の清めを可能にする為には、この流 れがその源泉である礼拝者の心…で 根絶やしにされねばなりません。…真 の幕屋におけるキリストの働きは罪を 永遠に取り除き、彼のもとに来る者を
完全にします」(ATJ CCP p113-119)。

「たとえすべての罪の記録が…消され ようとも、罪は残ります。何故なら罪は 我々の内にあるからです。…罪の除去 とは人間の本質、その性質から罪を消 し去ることです。罪を消すというのは、 それを我々の性質から除去する事によ って、我々が再び罪を知らなくなる事 なのです。…それは永遠に彼らから離 れ去り、彼等の新しい性質にとってそ れは異質のものとなり、自分達がかつ て罪を犯したことを覚えてはいるかも しれませんが、罪自体を忘れる…つま り二度とそんなものを犯そうとは思わ なくなっているのです。これが真の幕 屋におけるキリストの働きです」(EJW RH 1902 9/30)。
 「…再臨の直前になされる聖所の清 めは、地上の神の民の完全な清めと 同時に行なわれ、…彼らを天に移され るにふさわしい者とするのです」(EJW EC p365-367,1900)。
 「イエスが来られる時には…『しみや しわやそのたぐいのものが一切なく』『 清くて傷のない栄光の姿の教会』を御 自分に迎え、御自身がすべての聖徒の 内に完全に反映されているのを御覧 になります。そして主が来られる前にそ の民はこの状態に達していなければな りません。…この完全の状態、一人び とりの信者にイエスのかたちが完全に あらわされることこそ神の奥義の成就 であり、…聖所の清めによって完成さ れる最後の働きです。…ですから我々 は今や、かつてなかった程悔い改めて 生まれかわり、我々の罪が取り除かれ るようにしなければなりません」(ATJ CCP p123-125)。

 3. 清められない者は三天使の使命を 伝えることができない。
 「もしあなたの精神が、思いが、考え 方、願い、傾向がわずかでも世的であ るなら、髪一筋ほどでもこの世とのつ ながりがあるなら、この世の悪の勢力( 獣とその像)について世の人々に警告 し、そこから全く離れるようにと呼び掛 けても、それは全く力のないものとなる でしょう」(ATJ GCB 1893, p123)。

4. 我々が清められるのは神を擁護す るためでもある。 「我々は厳粛な立場にあります。いま だかつて誰も想像しなかった程の献 身をしなければならないところまで来 ているのです。『彼らはあなたのおきて を踏みにじりました。今は主の働かれ る時です』(詩篇119:126日曜休業令 を指す)。との厳粛な思いで神に献身 し、仕える時なのです。…皆さん、その 同じ厳粛な警告がオーストラリアから 送られています。『大きな決定的な事 件がすぐにも起ころうとしている。少し でもそれを遅らせるなら、神の品性と その主権が軽んじられる』と。皆さん、 我々の不注意と無関心な態度が神の 主権を危うくするというのです」(同 p73)。

 「神はサタンによって不公平で無情で 残酷でさえあると非難されています。 多くの人々がその同じ批判を繰り返し てきました。しかし裁きは神の義を証 明します。人間の品性と同様、神の品 性が裁かれているのです。天地創造以 来、神と人がどのような道をたどってき たか、そしてその結果がどうなったか が、裁きにおいて…明らかにされます。 そしてすべてが完全に明るみに出され ると、神の正しさは敵でさえも認めざ るを得なくなるのです」(EJW ST 1896 1/9)。

5. 清めは福音である。

「皆さん、後の雨とは天に移される為 の準備だと考えれば、喜ばしい事では ありませんか。…主が私や皆さんの心 に何か語られるのは、主が我々を天へ 移そうにも罪まで一緒に持って行くこ とはできないからなのです。そうではあ りませんか?ですから何の為に主が我 々に罪の深さと大きさを見せるかと言 えば、罪から我々を救い出し、天に移 す為に他なりません」(ATJ GCB 1893, p205)。


結論 下手な評論はやめにして、各自の判 断におまかせしたい。真剣に心に問い かけて欲しい。我々に欠けていたのは これではなかったのか、と。これを受 け入れなかったから百年間も再臨を遅 らせたのではないか、と。そしてこれ を受け入れたら、すぐにでもリバイバ ルの炎は燃えあがるのではないか、と。 独断的な言いかたは避けたい。しか し私個人はこれを信じるが故に、全て の人々から歓迎されるでもないこのよ うな印刷物を、読者が送って下さる献 金を十数万円もつぎ込んで、今回も出 版させて頂いた。リアリティーも創刊 以来 1 年半、6 回目を迎え、今までの 号をふりかえると欠点ばかりが目に付 く。それにもかかわらず取るに足りな い本誌を支え励まして下さった、北は 北海道から南は沖縄、遠くはアメリカ、 フ ィ リ ピ ン、 シ ン ガ ポ ー ル の 信 者 の 方々、また牧師の先生方、本当に感謝 に耐えない。 しかし一つのお願いがある。今回の メッセージでリアリティーは行きつく べきところまで達したような気がする。 これを体得せずに先に進んではいけな いし、たとえ進み出しても、またこの メッセージに引き戻されるだろう。読 者もこの奥義を把握するまで次号を期 待しないで頂きたい。まだまだ書きた い事、書かねばならない事はいくらで もある。しかし実践の伴わない知識は 人を盲目にするだけである。 知らされるとは恐ろしく責任のある 事だと思う。義の太陽はそれを受け入 れる者の心を氷のように溶かすが、受 け入れない者、聞き流す者の心は粘土 のように固めてしまう、とはよく言っ 第五章 地球最後のメッセージ 69 たものだと思う。1888 年のメッセージ を聞いた指導者の中には心の底で拒み 続け、ついに「立ち返って悔い改める 事ができないところまで行ってしまっ た者もいる」とホワイト夫人は書かれ た。あの運命の総会以来「多くが暗黒 の道に入って行った。ある者は二度と 戻ることができない。彼らはよろめき、 ついに倒れてしまう。彼らは神を試み たのであり、光を拒んだのである」(バ トルクリーク教会への特別な証 1896 p32-42;「牧師への勧告」 p89,90)。 1888 年のメッセージに対して我々は 二通りの立場を取ることができる。真 理として認めるか、誤りだとするか… その中間はないように思える。何故な ら預言者は全面的にこのメッセージを 支持したからであり、そこにいくらか でも誤りが含まれていたとすれば、彼 女がそれを指摘した筈だからである。 1888 年の信仰による義は彼女の言う通 り、「大いなる叫びの始まり」であった か、それともジョーンズとワゴナーが 勘違いしていたかのどちらかである。 そしてもし後者だとするなら、預言者 自身の信頼性も疑われねばならない。 もし真理だとすれば、これまた二通 りの反応が期待できると思う。それを 受け入れて清められるか、拒んでかた くなになるか、二つに一つである。真 理とはそれほど強力なのであって、そ うでなければ真理とは言えない。これ を書いている私自身は読者の皆さんよ り責任が重いかも知れない。それはす ぐには表面化しないかもしれないが、 私自身この真理に触れたことによって すでに運命のわかれ道を歩み始めたと 信じている。知った以上何も起こらな い筈がない。聖霊を受けるか、拒むか のどちらかである。 時は迫っており、どこかで何かが起 こらねばならない。「今、何故 SDA か」 の解答となる何かが…。 1986 Vol.1 リアリティより 津嘉山 睦

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