わたしは今日の午後、進化論という題で話をするつもりです。
皆さん方によく注意して聞いていただきたい、そして、ご自分
が進化論者であるかどうかを見出していただきたいのでありま
す。最初に、進化論とは何であるかについて書いてある物を読んでみます。それを聞けば、皆さん方は自分が進化論者である
のかないのかおわかりになるでしょう。これらの引用文はすべて、主な進化論者の一人によって書かれた進化に関する論文からコピーしたものです。ですから、その定義と同様に彼がすすめている論議はすべて正確です。 「進化論は漠然としたもの
からはっきりしたものへ、単一から多様への少しずつの変容と
して世界の起源を表し、そのようにして変質させられるべき世
界自体にその過程の道筋が内在するはずだと仮定する理論であ
る」。
「進化論はこのように進展とほとんど同意義である。それは、より低いものからより高いものへ、悪いものからより良いものへの変容である。このように進展とは我々の感覚によって判断
されるような、存在の内にある、増し加わった価値を指すものである」。
さて、これら三つの叙述における特殊な点に注意していただ
きたい。進化論は、より低いものからより高いものへの、悪いものからより良いものへの漸進的な変容として世界の起源を表
わすものです。そして、この過程は、このように変容されるべき世界自体物事は自分で良くなるということです。そして、それをより良くする原因はそれ自体であるということです。そしてこの過程は「我々の感覚によって判断されるような、存在の中の増し加わった価値である」と記されています。それは、あなたが、自分がより良くなったとわかるのは、あなたがより良
いと感じるからだというのと同じです。あなたは進展があったことを知る、それはあなたがそう感じるからです。あなたの感覚があなたの標準を規定します。あなたの知覚が、悪いものからより良いものへのあなたの進展を規定します。
さて、悪いものからより良いものへの進展という事柄において、あなたの感情は何か係わりがありますか。もしあるとすればあなたは何でしょうか。今日の午後ここにいるかたがたで、
その感情によって経験の価値、進展を測るかたはみな、進化論
者です。そのかたが四十年間ずっとセブンスデー・アドベンチ
ストであったとしても、それに関係なく、その人は全くの進化
論者です。そして、その人のキリスト教一切、宗教の全体は、
事実のないただの告白、力のない単なる形式です。
さて、わたしは、べつの方法で何が進化であるかについて読んでみます。すると皆さん方は、それが無信仰だということが
おわかりになります。そして、もしあなたが自分は進化論者だ
と気がつくと同時に、無神論者だということがわかるはずです。
「進化の仮説は、物事の始めあるいは創始に関する多くの疑問に答えることを目標としている」。それは、「我々の父祖と生命の
根源の性質に対する古い感情を復興するのを助ける」。
進化論という教理の設立に対して最も多くのことをなした、
この種の科学の一支流は、わたしたちの地球歴史の過去におけ
る想像もできないおびただしい期間という概念を作った新地質
学であります。この主題に関する主要なもう一人の著者が言うように、これらのおびただしい想像もできない期間というもの
は、進化の過程における「人の起源を理解するために必要欠くべからざること」なのです。それゆえに、なしとげられてきた
進展は、数えることのできない年月を通してであったというわ
けです。しかしながら、この進展はその発端から現在の状態ま
で一定しておらず、一貫していません。多くのものが上がり下がりしています。大いなる美と均整のある多くの時代があり、
そして大変動あるいは爆発が起き、それ以前のようにばらばらになってしまったことであろう、また再び物事のその状態から
ある過程が始まり、再び作り上げられたのであろう、というの
です。多大な時間がこの過程において流れた、そしてそれが進
化の過程―下等なものから高等なものへ、悪いものからより良いものへ―なのです。
ところで、悪い状態からよりよくなるというあなたの進展の過程はどのようなものであったでしょうか。「多くの上がり下が
り」を通してですか。善―神のものである良きわざ―をするた
めの力をあなたが得たのは、あなたが初めてキリスト教を告白
した時から今に至るまで、上がり下がりの長い過程を通してで
したか。時には自分がよくやっており、すべてのことがすばら
しく喜ばしく、明らかに大変な進歩をした様に見え、次に何の前触れもなく大変動と爆発が起って、何もかもだいなしにしてしまったのではないでしょうか。それでも、そのすべての上がり下がりにもかかわらず、あなたはもう一度努力を始める、そ
うして長々と続くこういう過程を経て、あなたは今日あるところに至っています。そして、そのすべてを「振り返って見て」、
感覚によって判断するとき、自分はなにがしかの進歩を残すことができるとあなたは考える、それがあなたの経験ですか。それが、あなたが進歩する方法ですか。
言い換えれば、あなたは進化論者ですか。言い逃れてはなり
ません。正直に真実を告白して下さい。というのは、わたしは
今日の午後あなたを進化論者から抜け出させたいのです。そこから抜け出る方法があるのです。そしてこの場に進化論者とし
てやってきた人は皆、クリスチャンとなって出て行くことがで
きるのです。ですから、わたしが進化論者について描写すると、
それは大変はっきりしているので、あなたは自分がわかるでしょ
う。ただわかったと言って下さい―それが自分であると認める
のです。それから、神が与えて下さった歩みに従って行くのです。
そうすればあなたは完全に抜け出します。しかし、わたしは率直に申し上げます。もしわたしが描き出したものがあなたの経験であったなら、もしそのような種類の進展をあなたのクリス
チャン生涯において成し遂げてきたなら、あなたは進化論者な
のです。あなたが認めようと認めまいとそうなのです。とにか
く最上の道は、それを認め、それを止め、クリスチャンになる
ことです。
さて、さらに別の観点について読みましょう。「進化は、それが続くかぎりは永遠の事柄のように見える」。そしてこのように「仮定することによって」、「創造の概念はそれが適用されて
きた生物の領域から排除される」。さて、もしあなたが、神の国に到達するに違いないような進展が自分のうちになされねばな
らないとする基本的な考え方で自分を見ておられるなら、もし、
あなたが、それはあなたの内に内在しており、それを正しく働かすことができ、そしてそれを働かすことができた時にはそれを正しく司ってすべてのことがうまくいくようになるだろうと
思っているなら―もし、自分の進歩をこのように期待し、見守り、
注目しつづけているなら、あなたは進化論者です。進化とは何かについてさらに読んでみます。「進化の教義が、創造の教義に
完全に対立するのは明らかである……。全体として世界の形成に適用されるものとしての進化の考えは、直接の創造的意志と
いう考えに反対する」。
それが進化論を作った人々によって定義されている進化です
―世界が生じてすべてのものがその中にあり、それ自体の内にあるということ、そして、世界にある状態をもたらした原則は、
それ自体の内に内在し、存在するすべてを生みだすために十分であるということ。ですから、物事の性質において、「進化は創
造とは正反対である」のです。
ところで、世界とその中にあるすべてのものがそれ自体から
生じてきたということを皆さん方は信じてはいません。皆さん
は、自分がそのような進化論者ではないことを知っておられます。なぜなら皆さんは神があらゆるものを創造されたと信じているからです。今日この場にいるかたがたは、神がすべてのも
の―世界とその中のあらゆるもの―を創造されたことを信じるとおっしゃることでしょう。進化はそれを認めません。進化には創造の余地はありません。
ところで、創造に全く公然とは反対しているわけではない、
さらに別の進化の観点があります。わたしが皆さんに先程お読みしたような進化論を作った人々は懐疑論者―信仰のない人―
以外の者にはなろうとはしませんでした。懐疑論者というのは
まさに信仰のない人なのです。たとえある人が信仰を持とうと
したとしても、実際に持たない限り、懐疑論者 ( 不信心者 ) で
す。もちろん「懐疑論者」という言葉は、今日ではずっと狭められています。わたしが皆さんにお読みした進化論を作った人々はそのような人々でした。しかし彼らがそうした教えを世界に広げた時、クリスチャンであると告白する人々、信仰を持って
いると告白する人々、創造を教える神の言葉を信じると告白す
る大勢の人々がおりました。自分自身で神の言葉を理解しておらず、神の言葉を本来あるべき姿で知っていなかったそれらの人々、彼らの信仰は力がなく、信仰の単なる形式にすぎなかった人々―わたしはあえて言いますが、それらの人々は芽を出したこの新しいものに引き付けられ、新しい科学に倣って一般的になりたいと望み、しかしまた、神の言葉と信仰の道を全く捨
て去りたいとは望みませんでした。彼らには、神なしでやっていける、どこにも創造というものはなかったと言う用意はあり
ませんでした。そこでその人々は、創造者が存在するある種の
進化論を形作りました。そのような観点が有神的進化論と呼ば
れます。それは、何らかのかたちで神が物事をスタートした、
しかしその後、そのものは自分で進展してきている、というも
のです。神が始めた、そしてその後成し遂げられた一切の事を
完了する事は自分でできた、というわけです。とにかくこれは
一時の方便でしかありません―見掛けを保つ為のもくろみ―そ
して「創造論的仮説から進化論的仮説への変換という観点」以
外は、本当の進化論者によってはっきりと述べられていること
です。それはただの進化論にすぎません、というのは、創造と
進化の間に中間地帯というものはないからです。
あなたがこのような種類の人でないにしても、そういう人は
セブンスデー・アドベンチストの間にさえも大勢います―しか
し以前ほどに多くはありません。主に感謝しましょう。彼らは、
わたしたちには罪をゆるして下さる神がいなければならないと
信じ、その神はわたしたちを正しい道にスタートさせてくださ
るが、その後は怖れおののきつつ自らの救いを達成しなければ
ならないと信じています。したがって、彼らは常に恐れおのの
いていますが、どんな救いもなされません。というのは、彼ら
には彼らの内にあって絶えず働いて「願いを起こさせ、かつ実
現に至らせ……( それを ) よしとされる」神がいないからです ( ピ
リピ 2:12、13)。
さて、ヘブル 11:3 には、この世界が「神の言葉によって」
造られた―一つにされ、調整され、建てられた―こと、「したがっ
て、見えるものは現れているものから出てきたのではないこと」
を悟るのは、信仰によってであると記されています。わたした
ちのいる地球は岩で造られたのではありません。それに人間は
猿、尾なし猿、また「失われた環」から造られたのではないし、
さらにまた尾なし猿、猿、また「失われた環」はオタマジャク
シからできたのではなく、そしてオタマジャクシは最初に逆の
ぼればもともと原形質から造られたのでもありません。ちがい
ます!「この世界は神の言葉で造られたのであり、したがって、
見えるものは現れているものから出てきたのではない」のです。
ところでなぜ、見えるものは現れているものから出てきたの
ではないのでしょうか―それは、それらを作る物が現れてはい
なかったからにすぎません。そして、それらのものが現れてい
なかった理由は、それらの物は全然存在していなかったからで
す。それらは存在していませんでした。世界は神の言葉によって造られ、神の言葉がその特質です。神の言葉は、その言葉が
語られると事物を存在させるばかりでなく、それを作る材料と
か、それを構成する物をも生じさせるという特性を持っていま
す。
皆さんは、もう一つの聖句をご存じかと思います。「もろもろ
の天は主の言葉によって造られ、天の万軍は主の口の息によっ
て造られた……主が仰せられると、そのように……なったから
である」( 詩 33:6 ‐ 9)。ここで皆さんにおたずねします。御
言葉が語られてから、物事がそのようになるまで、どのくらい
時間がかかりましたか。物事がそのようになるまでどのくらい
の時間が過ぎましたか。〔声 ;「時間はかからなかった」〕一週間
もかかりませんでしたか ―〔声:はい〕。六つの長い時の期間
もありませんでしたか―〔声:はい〕。創造主を認めてさえもなお、
進化論は数えきれない時代、または「六つの長いはっきりしな
い時の期間」が、神が仰せになってから後、見えるものの形成
までに過ぎ去ったということを保持しています。しかしそれは
進化であって、創造ではありません。進化は長い過程によります。
創造は語られた言葉によります。
言葉を語ることによって神が世界を創造されたとき、「光あれ」
と言われました。ところで「光あれ」という言葉と光が生じる
までの間にどれくらいの時間を経たでしょうか。このことを皆
さんに正しく理解していただきたいのです。そうすれば皆さん
はご自分が進化論者であるのか創造論者であるのかがおわかり
になれるからです。このことについてもう一度質問させてくだ
さい。御言葉が語られた時と、その事実の実現との間に六つの
長い期間がありませんでしたか。皆さんは、はいとおっしゃい
ます。一週間もなかったのですか―はい。一日もありませんでしたか―はい。一時間もありませんでしたか―はい。一分間も
ありませんでしたか―はい。一秒でさえも、ですか―はい、全く。
神が「光あれ」と仰せになった時と、光の存在との間には一秒
もありませんでした。〔声:「御言葉が語られるやいなや、光が
ありました」。〕はい、そうだったのです。わたしはこれを厳密
に繰り返します。皆さん方の頭の中にこのことが固く据えられ
るように、さらに質問をおしすすめていくとき、皆さんが今は
それでいいではないかとすることのないように。さて、神が「光
あれ」と仰せになったとき、光の輝くまでに一秒もなかったと
いうことははっきりしましたか。〔声:「はい」〕結構です。それ
では、神の言葉と約束の出現との間に、いくらかでも時が経過
したとする人は進化論者です。もしその人が、数えきれない時
代にさらに数えきれない時代を重ねれば、それは一日を要した
と考える人以上の進化論者であるにすぎません。彼は同じ進化
論者ですが、もっとはなはだしいのです。
次に、神は「大空があるように」と言われました。それから
どうなりましたか―そのとおりになりました。神が「……おお
ぞらがあって、水と水とを分けよ」と言われて、大空があるよ
うになるまでにどのくらい時間がかかりましたか。それは瞬間
的になされましたか―そうです。それでは、みことばが語られ
た時と、事実の存在との間に非常に限りなく長い期間があった
とする人は何でしょうか。進化論者です。御言葉が語られたの
と物事自体の存在との間に一日または一時間あるいは一分とい
う時間があったとする人、その人は創造を認識していないので
す。
主が「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」
と仰せになった時、また、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」と
言われた時、「そのようになった」。それから神は天に二つの大
きな光を置き、また星をも造られました。そして神が語られる
と「そのようになった」のです。「水は生き物の群れで満ち、鳥
は地の上、天のおおぞらを飛べ」と言われると、そのとおりに
なりました。「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜とは
うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」と神が言われ
たとき、そのようになりました。神が言われると、いつもその
ようになりました。これが創造です。
おわかりでしょうか、進化論者にとっては、神の言葉をわき
において、何の信仰も持たないのは全く論理的であり、十分理
にかなっているのです。進化論そのものが創造に対立するから
です。進化論は創造に対立し、創造は神の言葉によるゆえに、
進化論は神の言葉に対立します。もちろん、本当のあるいは本
来の正統な進化論者は、御言葉に何の立場も与えていませんで
した。また、中途半端な進化論者―物事の始めに創造と神の言
葉を持ち込む人々―も、同様でした。何事かを作り上げるのに
は数えきれない、無限とでもいうような長い時間がかかるのだ
というのが進化論であって、創造とはかけはなれたものなので
す。
真正の進化論者は、創造は瞬間的でなくてはならないと認め
ています。しかし、彼は瞬間的な行為を信じませんから、創造
を信じないのです。創造は瞬問的なものであって、それ以外の
ものは創造ではないということを忘れないで下さい。もし瞬間
的でなければ、進化なのです。それでは最初の時の創造にもう
一度触れますが、神が言われるとき、その御言葉の内には、そ
の言葉が言っていることを生みだすための創造的エネルギーがあります。それが創造です。神の言葉は、きのうも今日も永遠
に同じだということは、永遠に生き続けるということです。神
の言葉はその内に永遠の命を持っています。神の言葉は生きて
いるものなのです。その内にある命は神の命―永遠の命です。
ですから主イエスが言われたように、それは、永遠の命の言葉
なのです。物事の性質の中にそれは受け継がれ、永遠に残るのです。それは永遠に神の言葉であり、その内には永遠に創造的
エネルギーがあります。
ですから、イエスは地上におられた時に、「わたしがあなた
がたに話した言葉は霊であり、また命である」と言われました。
イエスが語った言葉は神の言葉です。永遠に続きます。そして
その中に語ったことを生みだす創造的エネルギーがあるのです。
新約聖書に語られているように、このことはキリストの生涯における多くの出来事によって示されています。わたしはそれらをすべて引き合いに出す必要はありませんが、一つ二つにつ
いて述べてみるつもりです。そうすれば皆さんはこの原則を把握することができるでしょう。覚えておられるでしょうが、山上での説教の後、イエスは下って来て、そこで一人の百卒長に
会いました。彼は「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで
家に寝ています」と言いました。「イエスは彼に『わたしが行ってなおしてあげよう』と言われた」。その百卒長は、「わたしの
屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただお言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」と言い
ました。イエスはそばにいた人々の方を向いて、「イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」と言われました。
イスラエル人は聖書を持っていました。彼らは神の言葉を知っ
ていました。彼らは、聖書の民、神の民であることを誇りにしていました。彼らはそれを読み、会堂で、「わが口から出る言葉
……わたしの喜ぶところのことをなし」と説教しました。彼らはその言葉を読むとき、それはみな正しい、事はなしとげられ
ねばならない、我々はその必要性を見る、だからそれをしよう、
我々が御言葉の言うことを成し遂げようと言いました。それから彼らは、それを成し遂げる為に最善を尽くしました。彼らに
とって長い時間がかかりました。本当のところあまり長すぎて、
彼らは決して成し遂げはしませんでした。御言葉を真に行うこ
とがあまりにも大変だったので、彼らの中のもっとも偉大な人
をして次のように叫ばせました、「もしひとりの人でも一日の間
律法全体を守ることができれば、そして一つの点においても落
ち度が無ければ―それどころか、もしひとりの人でも安息日遵
守に関した律法の一つでも守ることが出来れば―そうすればイスラエルの患難は終わるだろう、そして遂に救い主がおいでに
なるだろう」。ですから彼らは御言葉が言ったことを行い始めた
にもかかわらず、あまりにも時間がかかるので成し遂げること
がありませんでした。彼らは何だったのでしょうか。
「それ ( わが言葉 ) は、わたしの喜ぶところのことをなす」と言っ
た神の言葉がありました。それは創造的な力をもってこのよう
に語られたのです。イスラエル人は、神の言葉の創造的エネルギーを認めると告白したにもかかわらず、彼らの生活において
はそれを度外視して、わたしたちがしましょう、と言いました。
彼らは自分たちを、御言葉と自分たちが同意する点まで達する
過程として見ました。彼らは何だったのでしょうか。皆さんは
自分がそのようなところにいたのではないかと言うのを恐れま
すか。彼らが進化論者であったと言うのを恐れないで下さい。
彼らはそうだったからです。それに皆さん方の多くがそうだか
らです。彼らの方向は創造とは反対でした。創造はなんの関係もありませんでした。彼らは何の被造物をも造りませんでした。
新しい生命がその内に形作られたりしませんでした。物事は神
の力によって完成されたのではありませんでした。それらはす
べて彼ら自身のものでした。彼らは創造を決して信じなかった
ので、創造主を拒否し、彼を世の外で十字架につけました。そ
れは進化論がいつもすることです。「進化論は創造への直接的反対である」ことを忘れてはなりません。
さて、イスラエル人の中の信仰について述べられた時、イエ
スはこのような人々について述べたのでした。ここに一人のローマ人がいました。その男はイエスの教えを無視した人々、ユダヤ人の間で育ちました。その百卒長はイエスのおいでになった
場所の周辺にずっといました。彼が話すのを見、彼の言葉を聞き、その効力を見ました。ついに彼は、あのかたが何を語って
もそうなる、あることを言われるとそれが成し遂げられる、さあ、
わたしはその益にあずかろうと言いました。それで彼はイエス
のところへ行きました。そして聖書に書かれているように申し
上げました。イエスは、事を成し遂げるためにイエスの言葉が
持つ力についてその男が考えている事をよく知っていました。
ですからイエスは、「よろしい、わたしが行ってあなたの僕を癒やして上げよう」と応じられました。ところが百卒長は、「とんでもありません、主よ、あなたはおいでになる必要はありません」
と言いました。おわかりでしょうか、この男は御言葉の中に何
か力があるのかないのかという事をためしていたのです。ですから彼は、「ただお言葉を下さい、そうすれば僕はなおります」
と言いました。イエスは、「あなたの信じたとおりになるように」
と答えました。「すると、ちょうどその時に僕はいやされた」の
です。「そのようになるように」という言葉が発せられた時、そ
の僕はどのくらいかかって癒やされましたか。20 年ですか―いいえ。彼が完全に癒やされるまでに多くの浮き沈みを経なけれ
ばなりませんでしたか。正直に言って下さい―いいえ違います。
御言葉が語られたとき、その言葉は語った事を成し遂げました。
御言葉と同時にそれは成し遂げられました。
また別の日に、イエスが歩いておられると、一人のらい病人が離れたところからイエスを見て、それをイエスと認めました。
彼もまた神の言葉の創造的エネルギーという祝福された真理を
つかんでいました。彼はイエスに、「みこころでしたらきよめて
いただけるのですが」と言いました。イエスは立ち止まって、
「そうしてあげよう、きよくなれ」とおっしゃいました。「する
と、らい病が直ちに去って、その人はきよくなった」( マルコ 1:
41、42)。わたしたちは、御言葉が語られた時と成し遂げられた
事実との間に一瞬もおくことを認めません。「直ちに」そのらい病人はいやされました。
さて、皆さん、創造の始めの時の神の言葉は、その言葉が発
したことを生みだすための創造的エネルギーを内に持っていた
ことがおわかりでしょう。イエスが命の道を人々に示すため、
また人々を罪から救うためにこの世界においでになった時、繰
り返し繰り返し、あちこちで、到る所で、すべての人々に、絶
えず、同じ神の御言葉はなお内に同じ創造的エネルギーを持っている、だから御言葉が語られると、物事を生みだす創造的エネルギーがそこにあるのだということを、実際にお見せになっ
たのでした。
ところで皆さんは進化論者ですか、それとも創造論者ですか。
御言葉があなたに語りかけています。それをお読みになりまし
た。それを信じると告白しました。あなたがたは、進化論者と
は反対に創造を信じます。ところで皆さんは、自分に反対するような創造を信じるつもりがありますか。あなたと御言葉の創
造的エネルギーとの間に何も―1時間という期間であろうと一
切―認めない台の上に今日自分を置くつもりがありますか。
イエスはある人に、「あなたの罪はゆるされる」とおっしゃい
ました。それがそうなるまでどのくらいかかりましたか。「ゆる
される」という言葉とその事柄との間にはいかなる時間的長さ
もありませんでした。「あなたの罪はゆるされた」という同じそ
の御言葉は、今日皆さんに語りかけています。なぜ、皆さんに
語りかけられているこの御言葉とその成就との間に何らかの時
を経過させるのですか。皆さんは、つい先ほど、神の言葉と物
事の出現との間に、一分あるいは一秒でも時の経過を認める人
は皆進化論者であると言いました。たいへん結構です。そうな
のです。それにしがみついていて下さい。さて、お尋ねします。
神があなたにゆるしをお語りになる時、どうしてゆるしを得る
まで、それがあなたの内で真実になるまで、何日も経過させる
のですか。あなたは先程の人は進化論者だと言いました。皆さ
んは何でしょうか。わたしは知りたいのです。あなたは進化論
者である事をやめて創造論者になりませんか。
本日はここにおいでになる多くのかたがたにとって特に重要
な日となることでしょう。というのは、多くのかたがたがこの
質問に対しどちらか一方に決める時だからです。もしあなたが
この場を進化論者として出て行くとすれば危険です。今この時
はあなたにとって命か死かという問題なのです。わたしは、進化論は不信心であると言いました。その通りなのです。ですから、
もしあなたがこの家を進化論者として出て行くとすれば、あな
たの立場はどうなるでしょう。あなたの選択は何ですか。そしてもし、あなたが罪のゆるしを得ないで出て行けば、あなたは進化論者です。というのは、あなたは、御言葉が語られた時と
事実の成就との間に時を経過させるからです。
わたしが読んだことから、御言葉が語られてからそのことが
成るまでの間に、いくらかでも時を経過させる者は進化論者だ
ということがおわかりでしょう。あなたに対する神の言葉は、
男よ、「あなたの罪はゆるされる」、女よ、「あなたの罪はゆるされる」、です。〔コーリス長老:「あなたの罪はゆるされるであろう、
と言ってはいませんか」。〕いいえ、ちがいます。「あなたの罪は
ゆるされる」―強調した現在時制です―「あなたの罪はゆるさ
れる」。わたしはそうであるのを神に感謝します。というのは、「ゆ
るされる」というその御言葉の内の創造的エネルギーがあらゆる罪を取り去り、人を新しい被造物に創造するからです。わた
しは創造を信じます。あなたは信じますか。あなたに語られた「ゆ
るされる」という言葉の内にある創造的エネルギーを信じます
か。それともあなたは進化論者であって、わたしにはどうして
そんなことがあり得るのかわからない、わたしはあまりにも悪
すぎるから、とおっしゃいますか。わたしは正しい事をしよう
と心掛けてきたが多くの失敗をした、わたしには多くの浮き沈
みがあった、そして浮くことよりも沈むことの方がずっと多かった。もし、あなたがそのように言うなら、あなたは進化論者です。
それは進化だからです。
多くの人々が清い心を求め続け、なお求め続けています。彼らは、「わたしは罪のゆるしを信じます。そしてわたしはそれを
全部受けようと思いました、もしわたしが確かに続けられれば。
けれどもわたしの心にはあまりにも多くの悪があり、あまりに
も多くの勝利すべきことがあるので、全く確信が持てないのです」と言います。しかし、「わたしの内に清い心をつくって下さい」という御言葉があります。清い心は創造によって生じます。他の方法によってではありません。そして、その創造は神の御言
葉によって成し遂げられます。神は次のように言われるからで
す。「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け……る」。あなたは今創造論者ですか、それとも
進化論者ですか。あなたはこの家を悪い心を持って出て行くつもりですか、それとも新しい心を生みだす創造エネルギーを持つ神の言葉によって創造された新しい心を持って、ですか。御言葉はあなたに新しい心のことを語っています。それは、すべ
ての人にまさにその方法を告げています。もしあなたが、御言
葉が語っていることと新しい心との間に一瞬でも時を経過させるなら、あなたは進化論者です。あなたが語られた言葉とあな
たの経験におけるその成就との間に何らかの時を経過させるなら、あなたは進化論者です。
この場には、はいわたしは信じる、わたしはそれ(新しい心)
を持つのだ、わたしは御言葉がそれを成し遂げる事を信じる、
と言ったかたがたがいます。しかしながら、そのかたがたは次
の集会まで時を延ばしました。そしてそれが続き、何年も過ぎ
て行くのです。ですからその人々はそれだけの進化論者にすぎません。「非常に多くの人々が信仰と信心の奥義についてためらいつつも、宣言する事〔広く告げることと、それを口に出すこと〕
によってそのことを解決することができた。『わたしはイエス・
キリストが永遠にわたしの嗣業であることを知っています』と」。
生みだす力が神の言葉の内にあります。そしてこのことが受けいれられると、創造エネルギーがそこで語られた事を生みだします。ですから皆さん、キリストが永遠にあなたの嗣業だということを知っていると宣言することにより、信仰と信心の奥義の問題全体を解決することができるのです。
あなたのような罪深い肉のうちに、神はどのようにして現れることがおできになるのかということの中には奥義があります。
しかし、覚えて下さい、今問題は、その奥義についてではあり
ません。問題は、創造にそのようなことがあるかということで
す。あなたの内に清い心を創造できる創造主にとってそのよう
なことがあるでしょうか。それとも、物事一切はただ進化なの
でしょうか。たった今も、また、この日より世の終わりに至る
まで、セブンスデー・アドベンチストの間にこの問題は存在す
るにちがいありません。あなたは創造主を信じますか。そして
あなたが創造主を信じる場合、神はどのようにして創造すると
信じますか。もちろん神の言葉によってと、あなたは言います。
たいへん結構です。では、神は御言葉によってあなたのために
創造をされますか。あなたは進化論者に相対する創造論者です
か。それとも創造論者に相対する進化論者ですか。いかがでしょ
うか。
別のことですが、御言葉は「清くあれ」と言います。神がかつて「光りあれ」と言われると光がありました。イエスが、ら
い病人に「清くなれ」と言われました。すると「直ちに」清く
なりました。イエスは今、あなたに言われます、「清くあれ」。
すると今どうでしょうか。皆さん方全員何と言いますか。〔声 ;
「そうなった」。〕それでは、あなたの魂のためにその創造の御言
葉に自分をゆだねなさい。聖書の中であなたに告げられている
神の言葉の中にある創造エネルギーを認めなさい。聖書にある
神のこの言葉は、今日ここであなたにとって高き宇宙に世界を
呼び出し、闇に光をもたらした時と、また、らい病人に清めを
もたらした時と同じだからです。今日あなたに語られたその言
葉は、もし、あなたが受けいれたなら、キリスト・イエスにあっ
てあなたを新しくします。語られたその言葉があなたの心の空虚な暗い空間に受けいれられたなら、そこに神の光を生みだし
ます。罪のらい病で悩まされたあなたに今日語られるこの言葉
は、受けいれられたなら直ちにあなたを清くします。そうさせ
なさい、そうさせなさい。
わたしはどのようにして清くされるのでしょうか―「清くな
りなさい」というその言葉の持つ創造エネルギーによって。で
すから、「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既に清く
されている」と書かれています ( ヨハネ 15:3)。清くされてい
ますか。あなたはこの瞬間から創造論者になるつもりはありま
せんか。それとも、進化論者であり続けるつもりですか。
これがいかに祝福された事かおわかりでしょうか。あなたが
御言葉を読み、その言葉を受けいれ、その言葉を思い巡らすとき、
それはあなたにとって常に何ですか。おお、それが創造です!
創造エネルギーがあなたの内にその言葉が語っている事を生みだしているのです。そしてあなたは創造の力の臨在そのものの
中に生きるのです。創造はあなたの命のうちにあって進められ
ていきます。神はあなたの内に、義、聖、真理、忠実―あらゆるよいもの、慈愛深いものを造り出されるのです。
ですから、こうであるなら、あなたの安息日遵守は実体のあるものです。というのは、安息日は創造の記念日であるからです。
それを守る人は創造主を知っているというしるしであり、創造
の過程に精通しているからです。しかし、あなたが進化論者で
あれば、必ずやあなたの安息日遵守はまやかしです。
あなたが、神の言葉を、あなたの命における創造エネルギー
として日々認識しない限り、あなたの安息日遵守はまやかしです。なぜなら安息日は創造の記念日だからです。それは、「わたしとあなたがたとの間のしるしとなって、主なるわたしがあな
たがたの神 ( すべてのものの創造主 ) であることをあなたがたに
知らせるためである」( エゼキエル 20:20)。
エペソ人への手紙第 2 章 8 節から 10 節に、次の言葉が書かれています。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、
信仰によるのである。それはあなたがた自身から出たものでは
なく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは
だれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品
であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって
造られたのである。神は、わたしたちが良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」。
あなたは、何か良い行いを成し遂げる事を自分に期待する必要はありません。あなたはずっと努めています。進化論者は努
力します。それを完成することのないまま常に努めています。
自分が失敗することがわかるのになぜ良い行いをしようとする
のですか。お聞きなさい。その内に創造エネルギーを持ってい
る御言葉により、創造主ご自身により創造されるのでなければ、
あなたの内にはどんな種類の善も、今から世の終わりに至るま
で決してありはしないでしょう。そのことを忘れてはなりませ
ん。あなたはこの場を出て行くとき、良い行いに歩みたいでしょ
うか。良い行いをするためにイエス・キリストにあって造られ
ていることによってのみ、それはなされ得ます。努める事をお
止めなさい。創造主をごらんなさい。そしてその創造の言葉を
受けなさい。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るよ
うにさせなさい」。そうすれば、良い行いが現れてくるでしょう。
あなたはクリスチャンになるでしょう。そのとき、あなたは創造主と共に生き、創造エネルギーの臨在の内にいるのですから、クリスチャンに属する喜び、静かな平安、そして真正の強さを持ち、築き上げていくことでしょう。
「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キ
リスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたち
が良い行いをして日を過ごすようにとあらかじめ備えて下さっ
たのである」と、神があなたに告げるとき、創造主を認めなさ
い―創造されたものでない行いには何の注意も払わずに、あなたの内に創造される良い行いだけを認めなさい。主によって創造されるもの以外には何の良いものもないからです。
さあ、あなたはキリスト・イエスにあって新しく造られたの
です。神がそう言っておられます。そうであることを神に感謝しなさい。なんですって!その聖句に関してあなたは進化論者
となるつもりですか。その聖句は現在時制です、「わたしたちは
神の作品である」。わたしたちは良い行いをするようにキリスト・
イエスにあって造られたのです。あなたは造られましたか。み
ことばが語られました。それは創造する言葉です。神の言葉と
あなたが新しく造られることとの間にどのくらいの時間を経過
させるつもりですか。最初の創造において御言葉と物事との間
に一分でも時間の経過を認める人は進化論者であると皆さんは
言いました。キリスト・イエスにあって良い行いをするように
人を造られるという神のこの御言葉に対して、あなたは今、どうあるのですか。ここではあなたがたは進化論者になるのです
か。さあ、どなたも創造論者となりましょう。
このように、栄光のうちにあって主にお会いする備えには、
うんざりするほどのあきあきするような過程を要しないという
ことがおわかりになりませんか。非常に多くの人々が自分自身
を見つめています。彼らは、本質的に主にお会いする用意を完全にするためにはとてつもなく長い時間をかけねばならないこ
とがわかっています。もしそれが進化によってなされるなら、
決して成し遂げられることはないでしょう。しかし、創造によっ
てなされるならば、確実にすみやかに成し遂げられるでしょう。
わたしが先に引用した御言葉は、ここにいるだれもが自分自身
に当てはめることができるのです。「非常に多くの人々が信仰と
信心の奥義についてためらいつつも、宣言する事〔それを口に
出すこと〕によってそのことを解決することができた。『わたし
はイエス・キリストが永遠にわたしの嗣業であることを知って
います』」と。
わたしたちがどれほどの進化論者であったかおわかりですか。
やめようではありませんか。さあ、今、創造論者となりましょう。
そして、そうすることによって完成されましょう。真実な安息日遵守者となりましょう。主を信じましょう。主はゆるしを語られます。彼は聖を語られます。それを創造なさいます。あな
たの内に主がそれを創造なさるがままにさせましょう。進化論者である事をやめて、主の創造の御言葉があなたのために働くままにさせましょう。その御言葉が発したことをあなたの内に
成し遂げるため、創造のエネルギーが働くようにさせましょう。
そして、この場を去る前に、神はあなたに主に会う備えをさせることがおできになります。実際そのことの中にあってこそあ
なたは主にお会いするのです。そしてあなたがこのようにして主にお会いしたとき、また、このようにして日々主にお会いする時、そのときあなたは主にお会いする用意ができたのではないでしょうか。あなたは信じますか。みなさんは、神が語ったとき世界が造られた事、神が語ったとき御言葉によって光が生
じた事、そして神が語ったときらい病人が「直ちに」清められた事を信じています。しかし自分に関しては、御言葉が語られる時と、事実が完成される時との間にかなりの時間が経過しな
ければならないと考えています。おお、なぜあなたは進化論者
になろうというのですか。創造、創造、―それが事実なのです。
みなさんもわたしも人々を宴会に招かなければなりません。
わたしたちはすべての人々に、「さあ、おいでください。もう準
備ができましたから」と言わなければならないのです。わたし自身用意ができていないのに、すべて準備ができましたと言っ
て人を招くことがどうしてできるでしょうか。それは始めから
偽りです。わたしの言葉は人々に届かないでしょう。それは空しい音にすぎません。しかし、おお、わたしたちを準備させ、
罪から清め、良い行いをするように造った御言葉、神が定めた
進路に太陽が捕えられるごとくわたしたちをしっかりととらえるその御言葉の創造のエネルギーが、その招きの中にあるなら
ば、そうすれば、わたしたちが出て行って、悪の内にある世に
向かって、「さあ、おいでください。もう準備ができましたから」
と言う時、彼らは聞くでしょう。彼らはその招きの中に、羊飼いである神の声の調子を聞くことでしょう。そして、彼らを新
しい被造物にし、招かれている宴会に備えさせる創造のエネルギーを彼ら自身のために求めて、主のもとに行くようにと励まされることでしょう。
これが今、世界史の中でわたしたちがいる位置なのです。神の印は人々に印されつつあります。しかし、覚えて下さい。神はあらゆる汚れから清められていない人にその印を押すことは
決してありません。神は良くない物、本物でないものにその印を押そうとはなさいません。みなさんは全く不義であるものに
義の印を押して下さいと主にお願いするつもりですか。あなたにはそのようなことをする厚かましさはないでしょう。あなた
は、神は非常に正しい方であるのでそのようなことはなさることができないことを知っています。それならば、神はあなたを清くしなければなりません。そうすれば神はその印をご自分の作品に押すことができます。神は、ご自分の印をあなたの作品に押すことはできないのです。神の印は神ご自身が是認した文書にのみつくものです。神のご品性をあなたの心に書き付けていただきましょう。そうすれば神はその印をそこに押すことがおできになります。神の創造の言葉があなたの心の内にその目的を成し遂げたときにのみ、神はあなたの心の上に是認の印を書くことがおできになります。
わたしたちは何という神のご臨在の内にいるかおわかりで
しょう。このような主題を半ば究明するのにもどれほどの時間がかかるか、ある程度おわかりでしょう。しかし、兄弟方、立
ち止まる時は、創造のなされる場に立ち止まりましょう。もは
や進化論者にならないようにしましょう。神があなたに語られ
た言葉と、その事のあなたの内での成就との間に一瞬も経過させないようにしましょう。こうして創造のなされている場に生
き、創造主と共に歩み、創造の力によって支えられ、創造のエ
ネルギーによって感動されている、そのような人々でもって、
神は短い間に世を動かす事がおできになります。
もし、みなさんが最初、今日のような場合にこれは奇妙な主題だと思われたとしても〔この日は祈祷週の最終日であった〕、今はまさしく現代の真理である事がおわかりでしょう。世のす
べての男女は、創造論者か進化論者かのどちらかであります。
進化論は不信心であり、死です。創造論はキリスト教であって、
命です。創造、キリスト教、そして命を選びなさい。そうすれば生きる事ができるでしょう。創造論者でのみありましょう。
永遠にそうでありましょう。そしてみなさん、アァメンと言い
ましょう。
レビュウ・アンド・ヘラルド
1899 年 2 月 2l、28 日、3 月
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