2022年10月19日水曜日

よきおとずれ ガラテヤ 2章 キリストを信じる信仰による命 E.J.ワゴナー

 福音の真理 

ガラテヤ人への手紙について他の人はどう考えているのかという好奇心からではなく、聖 書の中でも多くの議論がなされるこの書を理解しようとして、その参考にとこのささやかな書物を読んでいる人々が多くいることでしょう。そのような人たちに、この研究を先に進める前に、わたしの個人的な話を少ししたいと思 います。聖書のどの部分も他のすべての部分とつながりがあります。わたしたちがあることを徹底的に学んで自分の一部にしたとたん、さらに知りたい欲求が出てきて、学んだことがそのために役立ちます。ちょうど、わたしたちが食べて消化する一ローロの食物が、 日毎のバンのための仕事をする助けとなるのと同じようです。だから、 これまでわたしたちがガラテヤ人への手紙の研究を正しいやり方で進めて来たのであれば、聖書全体への広い扉が開かれたことと思います。 

 真理を知る道はとても単純です。 あまりにも単純なので多くの人は無視します。 しかしそれは無視してはならないことです。 

知識に至る王道 

知識に至る王道などはないとよく言われますが、それはあり、その道は全ての人に開かれ ています。 ここに、それが正しい道であることを証明なさった、いと高き王による教えがあります。 

「わが子よ、もしあなたがわたしの言葉を受け、わたしの戒めを、あなたの心におさめ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を悟りに向け、 しかも、もし知識を呼び求め、 悟りを得ようと、あなたの声を上げ、銀を求めるように、これを求め、隠れた宝を尋ねるように、 これを尋ねるならば、あなたは主を恐れることを悟り、神を知ることができるようになる。これは、 主が知恵を与え、知識と悟りとは、み口から出るからである。」(歳言 2:1-6)。 

神がソロモンに現れたのは夢の中でした。 そして、彼に知恵をお与えになると約束なさい ましたが、その知恵が来たのは、何もせずただ夢見ていたからではありませんでした。ソロモンは知識にたいへんあこがれたので、夜毎にそれを夢見ましたが、同時に日々そのために努力しました。先の聖書の言葉が彼の経験を物語っています。

 あらゆることに関する知恵と知識は、神の言葉の中に見出されるはずです。もしあなたが 神の言葉を理解したければ、それを研究しなければなりません。地上の誰もその知識をあなたに与えることはできません。他人の経験があなたの助けになることはあるかもしれませんが、 その人を捕えたものが、あなたを捕えるとはかぎりません。他人はどこをどのように学べばよいか教えることはできますが、何らかのことを本当に知るためには、自分で追求しなければなりません。あなたがある道路を千回歩けば、そこにいくつの曲がり角があっても全部わかってしまうし、頭の中でその道全体を想い描くことができます。ですから、あなたが聖書のある箇所を何回も何回も考え抜くなら、しまいには少し見ただけで、全体と、その中の個々の叙述が全部部わかるようになるでしょう。 そしてそれができると、地上のだれもあなたに語ることのできないことを、あなたはその中に見ることでしょう。 

 特別難解な叙述だけを取り出して、それに関連した個所を照らし合わせることもなく理解しようとするのは無理です。もし、わたしがあなたに一通の手紙を持ってきて、終わりに近い部分を指し示し、相手は何を言いたいのだろうかと尋ねたなら、あなたはすぐに、「彼は何について書いているのですか。前の部分では何と書いてあるのですか」と 質問することでしょう。もしわたしが、手紙の主題は教えたくないし、最初から読ませることもしないと答えれば、あなたは「それでは、わたしはあなたをお助けできない」と言うにちがいありません。 しかし、わたしがその手紙をあなたに手渡して、 難解な文を理解できるように手伝って欲しいと言えば、あなたはまず、最初から注意深く読んで、読んだこと全部を理解したことを確かめた上で、先の難解な文を十分念頭に置いて、その文自体を理解しようとするでしょう。聖書を扱うのにはなおのこと、このように理にかなったやり方が必要です。 

 ですから、一人一人の読者に言うのですが、 聖句の言葉そのものを研究しなさい。何回も何回もやり直しなさい。そして新しい個所の研究を始める度に、最初に戻り、すでに研究したことを復習しなさい。それが王者の方法であり、 輝かしい結果をもたらします。 

 ガラテヤ書第1章 は、福音とは何かについ て、ガラテヤの兄弟たちの状態はどのようで あったか、 またバウロの個人的経験について、 簡潔にわかりやすく見せてくれます。第2章は、パウロの回心から 17年後のエルサレム会議に言及し、論争の主題はなんであったか、パウロとの関わりはどうであったかを語っています。使徒の唯一の重荷は、兄弟たちの間に「福音の真理」を守ることでした。第 1章の内容をしっかりと念頭において、第2章に進みましょう。 これは第1章の続きであることを忘れないでいてください。 

 その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒に、テトスをも連れて、再びエルサレムに上った。そこに上ったのは、啓示によってである。そして、わたしが異邦人の間に宣べ伝えている福音を、人々に示し、「重だった人たち」には個人的に示した。それは、わたしが現に走っており、またすでに走ってきたことが、むだにならないためである。しかし、わたしが連れていたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼をしいられなかった。それは、忍び込んできたにせ兄弟らがいたので―彼らが忍び込んできたのは、キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするためであった。わたしたちは、福音の真理があなたがたのもとに常にとどまっているように、瞬時も彼らの強要に屈服しなかった。そして、かの「重だった人たち」からは―彼らがどんな人であったにしても、それは、わたしには全く問題ではない。神は人を分け隔てなさらないのだから―事実、かの「重だった人たち」は、わたしに何も加えることをしなかった。それどころか、彼らは、ペテロが割礼の者への福音をゆだねられているように、わたしには無割礼の者への福音がゆだねられていることを認め、(というのは、ペテロに働きかけて割礼の者への使徒の務につかせたかたは、わたしにも働きかけて、異邦人につかわして下さったからである)、かつ、わたしに賜わった恵みを知って、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べた。そこで、わたしたちは異邦人に行き、彼らは割礼の者に行くことになったのである。ただ一つ、わたしたちが貧しい人々をかえりみるようにとのことであったが、わたしはもとより、この事のためにも大いに努めてきたのである。

 

 ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。しかし、キリストにあって義とされることを求めることによって、わたしたち自身が罪人であるとされるのなら、キリストは罪に仕える者なのであろうか。断じてそうではない。もしわたしが、いったん打ちこわしたものを、再び建てるとすれば、それこそ、自分が違反者であることを表明することになる。わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。 (ガ ラテヤ入への手紙第 2章)


 エルサレム再訪問 

「十四年後」、物語の自然な成り行きに従えば、 これはガラテヤ書1章18節に記録されている、使徒パウロの回心から三年後になされた最初の訪問から十四年後、という意味です。だから、二度日の訪間は彼の回心から ― 七年後のことでした。又は、使徒行伝15章に記録されているエルサレム会議の年として意見が合致している紀元 51年の頃でした。ガラテヤ書第2章が扱っているのは、その会議で何があったか、その会議を開くに至った理由、その後の展開についてです。だから、この章を読むときは、 使徒行伝15章を理解し、念頭に置く必要があります。 


新しい福音 

ガラテヤ書第1章 (6、7節 )で 、ある人たちが偽の福音を真の福音であるかのように装って提示 し、キリストの福音を歪めて、兄弟たちに問題を引き起こしていたという事を学びました。使徒 15章1節には、「ある人たちがユダヤから下ってきて、兄弟たちに『あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない」と、説いていた」とあります。 わたしたちが承知しているように、 これは別の福音でした。 とは言っても、本物はただ一つだから、別のものというわけはなく、真の福音だと言って兄弟たちを欺いていたにすぎません。 この教えをもってきた者たちが、自分たちは福音を伝えているのだと言っていたことは、救われるために何をしなければならないかを人々に教えると言 っていた事実から明らかです。パウロとバルナバは、その新しい教えに隙を与えず、「福音の真理があなたがたのもとに常にとどまっている」ようにとガラテヤ人に教えて、偽りに反対しました (ガラテヤ 2:5)。 使徒たちと彼らとの間に「少なからぬ綺糾と争論とが生じた」(使徒 15:2)。 その争論はどうでもいいことではなく、真の福音と偽物を扱う論議でした。その問題は新しい信者にとって重大であり、わたしたちにも、大いに関係があります。 それはわたしたちの救いに関わる問題です。


キリストの否認 

偽りの新しい福音が持ち込まれたアンテオケの教会を一瞥 (いちべつ)すると、それは最も直接的にキリストの救いの力を否定したことがわかってきます。福音は、ステパノの死をきっかけに起きた迫害で散らされた兄弟たちによって、初めて彼らのところにもたらされました。 これらの兄弟たちは「アンテオケに行って……主イエスを宣べ伝えていた。そして、主のみ手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依するものの数が多かった」(使徒 11:19- 21)。 それから使徒たちは働きを助けるために バルナバをつかわしました。そして「彼は、そこに着いて、神のめぐみを見てよろこび、主に対する信仰を揺るがない心で持ちつづけるようにと、みんなの者を励ました。彼は聖霊と信仰に満ちた立派な人であったからである。こうして主に加わる人々が大ぜいになった」(使徒 11:22-24)。 それからバルナバはサウロを見つけ、共にアンテオケの教会で一年以上働きました (25、26節 )。 その教会には預言者と教師がおり、彼らが主に礼拝をささげ、断食をしていると、聖霊が「バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当らせなさい」 と告げました (使徒 13:1 3)。 だから、そこの教会は神の事柄において多くの経験を持っていたことがわかります。 彼らは、主と、彼らが神の子供である事実を証しする聖霊の声とをよく知 っていました。そして今、 こうしたすべてのことの後、 この人々は彼らに、「あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない」 と言ったのです。 ということは、まるで、割礼のしるしがなければキリストにあるあなたがたの信仰も、また聖霊の証も皆むだであると言っているようなものでした。信仰を抜きにした割礼のしるしが、外見のしるしをもたないキリストにある信仰よりも高められました。新しい福音は福音への最も直接の襲撃であり、露骨にキリストを否認するものでした。

「にせ兄弟」 

パウロが、 この教えを述べた人々のことを、 デンマーク人のような手厳しい表現で、「忍び込んできたにせ兄弟」と称しているのも不思議ではありません (ガラテヤ 2:4)。 ガラテヤ人に対し彼は、にせ兄弟達は 「あなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしている」と言いました (ガ ラテヤ 1:7)。 使徒たち及び長老たちは手紙で、それらの人々について、「こちらから行ったある者たちが、……あなたがたを騒がせ、あなたがたの心を乱した」 と言いました (使徒 15:24)。 さらに彼らは、「わたしたちからの指示もないのに」とも言いました (24節 )。 つまり、 これらの教師たちは、使徒たちから教師とは認められてはおらず、弟子たちを自分に引きつけるために物事を歪曲して話している「にせ兄弟」だと言っているのです。 その時以来、そのような者たちがたくさん出てきています。彼らのやることがあまりにもあくどいので、使徒は「彼らはのろわれるように」 と言いました。彼らはキリストの福音の上台を故意に破壊し、信じる者たちの魂を減ぼそうとしていたのです。

 「割礼のしるし」 

これらのにせ兄弟たちは 「モーセの律法にしたがって割礼をうけなければ救われない 」と 言いました。本当のところ、あなたには自分を救う力はありません。彼らは、救いを単なる人間の事柄、人間の力を働かせることから生じる結果にすぎないとしました。彼らは割礼が実際は何であるのか知りませんでした。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神か ら来るのである」(ローマ 2:28-29)。 アブラハムが神を信じた後で、彼は神の言葉ではなくサライの言うことを聞いた時がありました。そして彼自身の肉体の力によって神の約束を成就させようとしたのでした。創世記十六章を見てください。 その結果は失敗でした。後を継ぐ子の代わりに拘束された奴隷を生み出したのです。 それから、神は再び彼に現れ、全き心で神の前を歩むように訓戒なさり、神の契約を繰り返されました。 自分の失敗、そして 「肉は無益である」ということを思い起こすものとして、アブラハムは「割礼のしるし」を受けました。割礼とはまさしく肉を切り取ることですが、 これは肉の内には 「良いものが宿 っていない」ので、肉の罪の体を処理することによってだけ、霊によって神の約束が実現することを示すものです。「神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇りとし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である」(ピリピ 3:3)。 だからアプラハムは、神への信仰によって聖霊を受けいれると、すぐ真の割礼をしたのです。「そして、アプラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であっ (た )」 (ローマ 4:11)。 外見上の割礼は、決して心に受けた真の割礼のしるしを超えるものではありません。心の割礼が欠けているなら、 しるしはごまかしです。 しかし真の割礼があるなら、 しるしが施されてもよいのです。アプラハムは、「無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父」です。アンテオケの教会を訪れたその「にせ兄弟たち」は、 弟子たちの信仰をくつがえしました。その後、 キリストの福音をゆがめてガラテヤ人たちを悩ませた人々の仲間になった者たちは、むなしいしるしを本物の代わりとしていました。彼らには、殻のついていない木の実よりも、実の無い殻のほうが大切で した。


「肉はなんの役にも立たない」 

「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。しかし、わたしがあなたがた に話した言葉は霊であり、また命である」 とイエスは言われました (ヨハネ 6:63)。 アンテオケとガラテヤの人々は救いのためにそれまでずっとキリストに信頼してきましたが、今、 肉に信頼を置くように彼らを説得しようとする者たちが現れました。彼らは罪に対して自由であるとは言いませんでした。そうではなく、 律法を守るべきだと言ったのです。そうなのです、 自分自身で律法を守らなければならない、 キリスト無しで自分を義としなければならないと教えたのです。割礼が律法を守ることにあたりました。 ところで、真の割礼とは、霊によって心の中に書かれた律法です。 しかし、これらの「にせ兄弟たち」は霊の働きに代わるものとして、割礼という外見の形に信者たちが信頼を置くことを欲しました。信仰による義のしるしとして与えられた割礼が、単なる自己義認のしるしとなりました。 このにせ兄弟たちは、義と救いを得るために割礼を受けさせようとしたのです。 しかしペテロは、「主イエスのめぐみによって、われわれは救われた」と言いました (使徒 15:11)。 同様にパウロも、「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」と書きました (ローマ 10:10)。 「すべて信仰によらないことは、罪である」(ローマ 14:23)。 だから自分の力で神の律法を守ろうと努める人間の努力はすべて、たとえ彼らがどれほど熱心、かつ真剣であっても、不完全、すなわち罪よりほかの結果は何も得ることはできません。「われわれの正しい行いは、 ことごとく汚れた衣のようである」(イザヤ 64:6)。

 「奴隷のくびき」 

エルサレムに問題が持ち上がってきたとき、 キリストを信じる代わりに自分の力で義とされることを求めようとした人々にペテロはこう言いました。「諸君はなぜ、今われわれの先祖 もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるの か」(使徒 15:10)。 「にせ兄弟ら」が「キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの 自由をねらって、わたしたちを奴隷にするため」に忍び込んできたとパウロが言ったように、このくびきは奴隷のくびきでした(ガラテヤ 2:4)。キリストは罪からの自由を与えて下さいました。彼の命は「自由の完全な律法」です。「律法によっては、罪の自覚が生じる」(ローマ 3: 20).律法は、罪からの自由は与えません。それを非難することによってはただ罪の自覚が生じるからこそ、「律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである」(ローマ 7:12)。 それは道を示す道標ですが、わたしたちがその道を歩けるようにしてくれるものではありません。 しかし、 キリストは道ですから、彼だけがわたしたちが その道を歩けるようにしてくださいます。罪は人をその奴隷にします (箴言5:22)。 神の戒めを守る者たちだけが自由であり (詩篇 119: 45)、戒めはキリストを信じることによってだけ、守る事ができます (ローマ 8:3-4)。 だからキリストなしで義を得ようとし、律法に頼ることを人々に説く者はだれでも、彼らにくびきを負わせ、奴隷状態に縛りつけるだけです。人がもし法により犯罪者とされ、獄に入れられた時、その法は彼を鎖から解き放つことができません。だからといって、その法に間違いがあるのではありません。それが良い法律だからこそ、有罪の者を無罪とすることはできないのです。それで、 これらガラテヤの兄弟たちは、律法をお与えになったおかた、その内にのみ義が見出されるおかたを否定することによって神の律法を高めようとして、愚かにも虚しい努力をしていた人たちにより、奴隷状態にさせられていたのです。 

なぜパウロはエルサレムに行ったのか 

使徒行伝の記録 は、パウロとバルナバと他の者たちがこの件についてエルサレムに行くべきだということが、アンテオケで決められたと言っています。 ところがパウロは、自分は「啓示によって」行ったと宣言しているのです (ガラテヤ 2:2)。 パウロはただ彼らに推薦されたから行ったのではなく、同じ聖霊が彼と彼らの双方を動かしたのでした。彼は福音に関する真理を学ぶためにではなく、それを維持するために行きました。彼は、真の福音はどんなものか見つけるためではなく、自分が異邦人のあいだで宣べ伝えてきた福音を知らせるために行きました。会議のおもだった人々は彼に与えるものは何 もありませんでした。彼は確信のないことを17年間宣べ伝えていたのではありません。彼は自分の信じているかたを知っていました。福音を人から受けたのではなかったし、それが真正なものであるかどうかを誰かに証される必要もありませんでした。神が語られた時は、人による裏付けは不適切です。 主は 、エルサレムの兄弟たちがパウロの証を必要としていることをご存知でした。また新しい回心者たちは、神がつかわされた人々は神の言葉を語るということ、そしてそれゆえその人々は皆同じことを語ることを知る必要がありました。彼らは、多くの神々から唯一の神に回心したので、 真理は一つであり、すべての人にとってただ一つの福音のみがあるという保証を必要としていました。 

魔術ではない福音 

 この経験によってパウロがガラテヤ人に教えた大きな教訓は、恵みと義を人に与えることができるものも、また救いをもたらすために人にできることも世には無いということです。福音は救いを得させる神の力であって、人の力ではありません。像であれ、絵であれ、またその他どんな物であっても、それに信頼させたり、 また最も称賛に価する目的に向けられる努力であっても、救われるために自分の努力やわざに依存するように導いたりする教えは、福音の真理を曲げるもの、偽の福音です。キリストの教会には、ある種の魔術的なわざによって、受ける者に特別のめぐみを与える「秘蹟」というようなものはありません。 しかし主イエス・キリストを信じる者、また彼にあって救われ義とされた者が、その信仰の表明として行う事柄はあります。 この世において、救いの道のために効力ある唯一のものは、キリストにある神の命です。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それはだれも誇ることがないためである。わたしたちは 神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである」(エペソ 2:8-10)。 これが「福音の真理」であり、 パウロはこれを擁護したのです。 これはあらゆる時代のための福音です。

 ガラテヤ人と福音 

この章で、使徒は、 今彼らを誤った方向へ導いている偽物の教えに反対し、「福音の真理」がガラテヤの兄弟たちの間で保たれるように努めました。 これを、第1章 の導入の言葉、及び彼らに宣べ伝えてきた福音に関する彼の熱烈な主張、また彼らが今はそれを捨ててしまったという彼の驚きと比べていただきたい。 そうすればこの手紙は最も力のこもった表現で福音そのものが語られており、その目的以外何も含んでいるはずがないことがおのずと明らかになります。多くの人たちはそれを誤解しているので、そこから個人的に得るものを引き出せないでいます。 というのは、この章は、パウロ自身が兄弟たちに警告していたことに反すること、すなわち「律法についての論争」に貢献したにすぎないと教えられてきたか らです。

 真理の独占はない

「彼らがどんな人であったにしても、それは、 わたしには全く問題ではない。神は人を分け隔てなさらないのだから」。地上には真理を独占する人とか団体などはありません。ですか ら、 真理はどこかへんぴなところで、与えられるに違いないと思いがちな人にはだれにでもそう言っておきたいのです。真理は人には依存しません。真理は神のものです。なぜなら神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であるキリス卜(ヘブル 1:3)が真理だからです。真理を得る者はだれでも、ちょうどパウロが福音を受けたのと同じように神から得るのであって、人からではありません。神は、人を器あるいは通路として使われるかもしれないし、実際お使いになりますが、真理をお与えになるのは神だけです。名も数も、何が真理であるかを決めるのに全く関係がありません。真理は権力などではないし、ただの身分の低い労働者によって保たれてきた場合よりも、一万人の王子たちによって提示されるときに受けいれやすいというようなものでもありません。それにまた、真理は一人の人が持っているより、万人の人が持っていると考えられる証拠はありません。地上のすべての人が、その人が利用しようとするだけの真理を持つかもしれませんが、それだけのことにすぎません。 ヨハネ7章 17節、12章 35-36 節を見てください。 ここで扱われているのは、 真理の独占者だと思い込み、人々を自分のところに強いて来させるような法王的行為をする人物のことであり、そういう者に反対しているのです。仮に彼が本当に真理を持っていたとしても、そういうふるまいをすることで、その真理を失ってしまいます。真理と法王的なものは共存できません。法王、あるいは法上のような立場に立つ者は、真理を持ってはいません。人は真理を受けるとただちに、法王であることをやめます。 もしローマの法王が回心して、キリストの弟子になるなら、まさにその時、彼は法王の座を退くでしょう。 

最大のものが常に最高ではない 

真理の独占者である人はだれもいないので、 それを見つけるために行かねはならない場所などというものはありません。アンテオケの兄弟たちは、真理を学ぶためにエルサレムに行く 必要はなかったし、彼らが持っていたものが本物であるかどうかを見出すためにも、そこへ行く必要はありませんでした。真理が、ある場所で最初に宣言されたという事実は、それはその場所でだけ見つけることができるとか、そこで全部を見つけることができるといったことを証明するものではありません。実際、真理を見つけて学ぶことを期待して行くべき、この世における最終的な場所があるとしたら、それはエルサレム、アンテオケ、ローマ、アレキサンドリヤその他のような、キリスト以後の第一世紀に福音が宣べ伝えられた町々です。 しかし、パウロは、彼より前から使徒であった人々のいる所、エルサレムには行かずに、すぐに宣教を始めました。 

 法王教は幾分かこのようにして起りました。 使徒たち、あるいは彼らのうちの幾人かが宣教した場所に純粋な真理があるに違いないから、だれもがそこで真理を見つけるべきであると思われました。また、都市の人々の方が、田舎や村の人々よりも多くを知っているに違いないとも思われました。それで、もともとは平等であったすべての監督たちのうちで、まもなく、「いなかの監督」は、都会で役割を負っている監督に比べ、三流の者として位置付けられるようになりました。それから、そういう精神が入り込むと、もちろん次の段階は、だれが最も偉い者であるべきかを知ろうとする都市の監督たちの間での競争でした。そして、不潔な争いが続き、ついにローマが権力の貪欲な座を得ました。

 

 しかしイエスは、「ユダの部族のうちで小さい者」(ミカ 5:2)だった場所、ベツレヘムで お生れになって、生涯の大部分をナザレで生活されました。その場所は、そこには賢い者がいないので、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」(ヨハネ 1:45-47)という貧弱な風 評のある小さな町でした。その後、イエスはカペナウムの町に住むようになりましたが、いつも「ナザレのイエス」として知られていました。 最も小さな村や、草原の小さなわびしい小屋は、 最大の都会、または監督の邸宅に比べて天から遠くあるのではありません。そして、「いと高く、いと聖なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる」神は、心砕けて、へりくだる者と共に住まわれます (イザヤ 57:14-15)。 


外見は無である 

神は、人がどんな者であるかをごらんになるのであって、 どのように見えるかをごらんにはなりません。どのように見えるかというのは、人が彼をどのように評価するかということです。そしてその評価の仕方は、彼を見る人の目次第であることが多いのです。彼がどんな者 であるかというのは、彼の中にある神の力と知恵をはかることです。神は役職のある地位に よって階級差をつけることはなさいません。権威を与えるのは地位ではなく、権威が真の地位を与えるのです。その名にどんな肩書も持たず、地上では身分の低い貧しい多くの人間が、 地の全ての王にまさる偉大な権威によって、真に高い立場で働いてきました。権威とは、神が何の東縛も受けずにその人の魂の内に臨在しておられることです。

 働かれるのは神である 

「ペテロに働きかけて割礼の者への使徒の務につかせたかたは、わたしにも働きかけて、異 邦人につかわして下さった」。神の言葉は生きていて活動します (ヘブル 4:12)。 福音の働 きにおける活動は何であれ、 もし何事かがなし遂げられたな ら、それはすべて神のわざです。 イエスは、「神が共におられるので、 よい働きを ……された |(使徒 10:38)。 彼自ら、「わたしは、自分からは何事もすることができない」(ヨハネ 5:30)、 「父がわたしの うちにおられて、みわざをなさっているのである」(ヨハネ 14:10)と言われました。それでペテロは彼の事を、「神が彼をとおして、……行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、 神につかわされた者である」 と言ったのです (使徒 2:22)。 弟子は主よりも偉大ではありません。ですからパウロとバルナバはエルサレムでの会議で、「彼らをとおして異邦人の間に神が行われた数々のしるしと奇跡のこと」を語りました (使徒 15:12)。 パウロは、「すべての人 ……がキ リストにあって全き者として立つようになるため……わたしの うちに力強く働いておられるかたの力により苦闘しながら努力している」と明言しました (コ ロサイ 1: 28-29)。 これと同じ力を持つことが、最も身分の低い信者にとっても可能であり、 また特権なのです。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピ リピ 2:13)。 イエスの御名はインマヌエル、「神われらと共にいます」です。 イエスと共におられる神が、良いことをするために彼を出て行かせられました。神は変わることがありません。だから、もしわたしたちが本当に イエスを持っているなら、神はわたしたちと共におられます。わたしたちも同じように、 良いことをするために出て行くでしょう。 

賜物を認識する 

エルサレムの兄弟たちは、パウロとバルナバに与えられた恵みを認めることで、彼らが神 と結び付いていることを示しました。バルナバは最初にアンテオケに行ったときに、そこに働いていた神の恵みを見て喜びました。「そして、主のみ手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依するものの数が多かった」(使徒 11:21- 24)。 神の霊に動かされる人々はいつ も、他の人々の内に働いている神の霊をすばやく見抜きます。ある人が聖霊について個人的には何も知らないという最も確かな証拠は、その人は聖霊の働きを認めることができない ということです。他の使徒たちは聖霊を持っていたので、 神がパウロを異邦人の間での特別の働きのために選ばれたことに気がつきました。そして、 彼の働きの方法は彼らの方法とは違 っていましたが、神が彼に特別な働きの賜物をお与えになったので、彼らは彼に友好の手を差し伸べました。ただ、 自分たちの国民の間にいる貧しい人々を顧みることを求めましたが、これはすでにパウロが、すすんでそうする気持ちのあることを示していたことで した (使徒 11:27-30)。そこで、バウロとバルナバは、アンテオケでの仕事をするために戻って行きました。 

完全な一致 

パウロがエルサレム会議に関して考えていた目的を見失ってはなりません。それは、福音が何であるかについて、使徒の間にも教会の中にも違った意見はないことを示すことでした。 「にせ兄弟たち」がいた、それは事実です。しかし、彼らはにせ者である限り、真理であるキリストのからだなる教会の一部ではありませんでした。クリスチャンだと公言するまじめな人たちの中に、教会の中に違いのあるのはほとんど必要なことだと思っている人が多くいます。普通言われるのは、「すべてのものが同じようではなぃ」 ということです。だから、彼らはエペソ4章13節を読み、神は、「わたしたちすべての者が、・・・信仰の一致・・・に到達するまで」、わたしたちに賜物をお与えになったのだというようにして、間違って解釈しています。 そのみ言葉が教えることは、「信仰の一致と彼を知る知識の一致のうちに」、 わたしたちは「全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまでいたる」 ということなのです。主はただひとりであるように、ただ「ひとつの信仰」(エペソ 4:5)、 キリストの信仰だけがあります。 そしてその信仰をもたない人々は当然、キリストの外にいます。真理に関する問題では、たとえわずかの違いでも全くあってはなりません。真理は神の言葉であり、神の言葉は光です。盲日の人以外はだれでも、輝いている光を見るのになんのさしつかえもありません。 人が夜の明かりとして獣脂のろうそく以外の明かりは生涯見たことがないにしても、初めて電球の光を見た瞬間、その明るさを認めるのに少しもさしさわりはありません。もちろん、真理の知識の程度には違いがありますが、それら程度の違う知識の間にくいちがいは決してありません。すべての真理は ―つてす。

ペテロに反対する

 「ところが、ケパがアンテオケにきたとき、 彼に非難すべきことがあったので、わたしは 面と向かって彼をなじった」。ペテロ、 または 他のどんな善人であれ、その過ちを大きく見せたり、 こだわったりする必要はありません。なぜならそれはわたしたちにふさわしいことではないからです。 しかし、ペテロは決して「使徒たちの第一人者」などと思われてはいなかったし、そうではありませんでした。また彼自身自分を法王であるとは考えてもいなかったという、この確実な証拠に注目しなければなりませ ん。レオ13世 (現代な らヨハネ・ パウロ3世 :訳者注)に 、公の集まりで反対をしている司祭、主教または枢機卿を思い描いて見てください。仮に法王の警備人が彼を生きたまま取り逃がしでもしたら、「神の御子の代理人」だと自らふるまう法王にずうずうしくも反対した彼は、全く運がよかったと思われるで しょう。 ところでベテロは過ちを犯しました。彼は無謬ではなく、その過ちは決定的な教理 に関するものでした。そして、誠実で謙遜なクリスチャンだった彼は、パウロの譴責を柔和 に受けいれました。もしも当時の教会にだれかひとり、人間の頭たるものがいたとしたら、物語全体からそれはペテロではなくパウロだったように見受けられます。パウロは異邦人につかわされ、 ペテロはユダヤ人につかわされました。 しかし、ユダヤ人は教会の中でわずかな割合を占めていたにすぎません。異邦人からの回心者たちがすぐに彼らユダヤ人の数を超 えてしまったので、彼らの存在はかろうじて認められるほどでした。 これらのクリスチャンは皆、ほとんどがパウロの働きの実であって、彼らは自然と他のだれにもまして彼を尊敬ました。だからパウロは、「日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある」と言ったのです (第2コリント 11:28)。しかし誰も自分には絶対に誤りがないとは言えないし、パウロ自身そんな主張はしませんでした。キリストの教会で最も偉大な人は、最も弱い者の上にさえも支配権を持ったりしません。「主は一人、キリスト、そしてあなたがたはみな兄弟である。」「互いに謙遜を身につけなさい。」 

分けへだてをするもの 

ペテロはエルサレムでの会議における彼の説教を通じて、異邦人によって福音が受けいれられたことについての事実を次のように語りました。「人の心をご存知である神 は、聖霊をわれわれに賜わったと同様に彼らにも賜わって、彼らに対してあかしをなし、また、その信仰 によって彼らの心をきよめ、われわれと彼らとの間に、なんの分けへだてもなさらなかっ た」(使徒 15:8-9)。 神は心の清めという事において、ユダヤ人と異邦人との間に分けへだてをなさいません。なぜなら、神は心を知っておられ、「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっているので、すべての人にとって「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされる」より他に道はないことを知っておられるからです (ローマ 3:22-24)。 ところが、主によってこの事実が示された後、また、異邦人に宣教がなされ、彼らにユダヤ人の信者と同様に聖霊の賜物があかしされた後、そして、異邦人の回心者と共に食事をして忠実に自分の方向を弁護した後、さらにユダヤ人と異邦人との間に神はなんの分けへだてもなさらないと会議であかしした後、 しかも彼自身も分けへだてをしなかったその直後に、急に、そういう自由を認めないと思われる人々がやってきたとたん、 ペテロは分けへだてをし始めました。「彼は… 割礼の者どもを恐れ、 しだいに身を引いて離れて行った」。 これはパウロが言ったように偽善であり、それ自体が間違いだったばかりでなく、弟子たちを混乱させ誤らせることでした。 はっきりしていること、つまりこれが偽善だったという事実は、兄弟たちの間に本当は分けへだてはなかったという事実を強調するものです。いっときペテロを支配したのは信仰ではなく、恐れでした。


福音の真理に相対するもの 

恐れの波がユダヤ人の信者たちを通りすぎたようです。 というのは、「ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた」からで す。このこと自体、もちろん、「福音の真理に従ってまっすぐに」歩いていないことを表していますが、偽善という事実だけが福音の真理をさまたげる全てではありません。その状況下では、それはキリストを公然と否定することでした。それはまさしく、以前に一度ペテロが恐れのせいでしたことと同じ罪でした。わたしたちは皆、さばきの座につくことを自分にゆるすことで、同じ罪に問われることがあまりにもよくあります。わたしたちはただ自分自身への警告として、この事実と結果とに注目できるだけです。 ペテロ及び他の者たちの行動 が故意ではなかったにしても、 これがどれほど事実上のキリストの否定であったかを見てください。ちょうどその頃割礼の問題をめぐって大きな争論がありました。それは、キリストを信じる信仰によって救われるのか、それとも外見のしるしによるのかという、義認と救いの問題でした。救いは信仰のみによるという明瞭なあかしがそれまでなされてきました。そ して今、「にせ兄弟たち」がいまだに彼らの間違いを宣伝しており、その争論がまだ残っていた時に、 これらの忠実な兄弟たちが急に異邦人の信者たちに向かい、割礼がないからといって分けへだてをしたのです。それは、事実上、あなたがたは割礼なしには救われないと言 っているようなものでした。彼らの行動が語っているのはこういうことでした。すなわち、わたしたちもまた人が救われるのはキリストを信じる信仰だけによるというのは疑間に思 う、本当に救いは割礼と律法の行いに依存すると思う、キリストを信じることは結構だがその他にまだすることがある、信仰だけでは不十分だ。彼らが福音の真理をそんなふうに否定することにパウロはがまんできず、すぐさま問題の根に体当たりしました。

 「異邦人なる罪人」とユダヤ人なる罪人 

パウロは、「わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが ……」とペテロに言いました。彼は、だからユダヤ人は罪人ではないという意味で言ったの でしょうか。そんなことを言ったのではありません。なぜなら彼はすぐに、彼らはキリストを信じる信仰によって義とされると付け加えているからです。彼らはユダヤ人なる罪人であって、異邦人なる罪人ではありませんが、ユダヤ人として誇るべきことは全て、キリストのゆえに損とみなされます。キリストを信じる信仰以外には、彼らにとって益となるものは何もありません。そういうわけだから、異邦人なる罪人は、ユダヤ人たちの不信仰の結果与えられたところの、多くの死んだ形式を踏襲することなしに、直接キリストを信じる信仰によって救われることができるのでした。 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』 という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである」(第 1テモテ 1:15)。 「すべての人は罪を犯した」、そして神の前に皆同じく、罪ある者として立っているのです。 しかしどんな人種や階級の者であっても皆、「このかたは罪人を受けいれ、彼らと食事を共にしてくださる 」と言って、それを受けいれることができます。割礼のある罪人 は割礼のない罪人にまさるのではなく、一教会員として立つ罪人は教会外の罪人にまさるの ではありません。バプテスマという形式を通った罪人は、宗教に関する告白をしたことのない罪人にまさるものではありません。教会内にいてもいなくても罪は罪であり、罪人は罪人です。 しかし神に感謝しましょう、キリストは全世界の罪のためであるのと同様に、わたしたちの罪のためのあがないです。キリストの名を口にしたことのない罪人にも、宗教の告白に不忠実な者にも望みがあります。世界に宣べ伝えられるのと、教会に宣べ伝えられる福音は同じです。ただひとつの福音があるだけだからです。「それは教会員である罪人同様、世界の罪人たちを回心させると同時に、真にキリストにある者たちを新しくするのです。

 

「義とされる」

 「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである」と使徒は言いまし た。「義とされる」 という言葉の意味は、「義人とされる」ということです。 これは他の言語に見られるそのままの言い方で、適当でない言い方はしない言葉です。義に相当するラテ ン語はjustitiaです。正しくあることは、義であることです。英語では、その語の終わりに fy、 ラテン語の「~にする」という意味のものを加えて、「義とする」という意味の、より単純な言い方でまったく同じ言葉(justify)があります。それにふさわしい意味で、わたしたち は「正しいとされる」という言い方を、ある人がとがめを受けていた事柄に関して実は何も悪いことはしていなかった場合に使っています。 しかし厳格に言えば、そういう人は彼がもともと正しかったのだから、正しい人とされる必要はありません。彼の正しい行いが彼を正しい者としており、彼は彼の行いにおいて正しいとされています。 しかし神の前には、すべての人が罪を犯したので、正しい人あるいは義人は一人もいません。ですから彼らは神の前に義とされる、または義人にされる必要があります。 それは神のわざです。ところで、神の律法は義です。ローマ7章 12節、9章 30-31節、詩篇 119篇 172節を見てください。ですから、律法、もちろんそれは石の上あるいは書物に書かれた律法という意味ですが、その律法によって人は義とされることはできないと述べているにもかかわらず、パウロは律法をけなしはしませんでした。そんなことはしませんでした。彼は律法に非常に高い感謝の念を持っていたので、律法が要求してはいるが与えることはできない義のために、キリストを信じたのです。 「律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである 」(ローマ 8:3-4)。 すべての人を罪人であると宣言する律法は、罪を罪ではないと宣言しないかぎり彼らを正しいとすることはできませんでした。そしてそれは律法の自己矛盾以外の何ものでもなく、正義にかなうことではありませんで した。

 律法は義とすることができない 

「律法の行いによっては、だれひとり義とされることがない」。では律法を取り除いてしま おうと言うのでしょうか。それは、罪に定められた犯罪人がだれでも考えることです。 しつ こい法律違反者は彼らを有罪だとし、悪を正義とは言おうとしない法律を取り除いてしまうのを喜ぶことでしょう。 しかし、神の律法は神のみこころの声明だから、取り消すことはできません (ローマ 2:18)。 まったくのところ、律法は神の命であり、品性です。「律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである」(ローマ 7:12)。 わたしたちは書かれた律法を読み、その中にわたしたちの義務が明らかにされているのを見ます。 しかし、それを行わなかったから、 わたしたちは有罪です。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、」「善を行う者はいない。ひとりもいない」(ローマ 3:23、 3:12)。 そればかりでなく、律法を行う力を持っている人はひとりもいません。 その要求はあまりにも大きいのです。そこで、 律法の行いによって義とされる者はだれもいないことははっきりしすぎるほどはっきりしています。そして失敗は律法にではなく、個々人にあることも同様に明らかです。人が信仰によってキリストを心に持つ ようにさせましょう。そうすれば律法の義もまたそこに存在するでしょう。なぜならキリストは、「わが神よ、 わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」 と言われたからです (詩 篇 40:8)。 悪を善とは呼ばないからといって律法を捨て去る者は、神は「罰すべき者をば決してゆるさない」(出エジプ ト34:7)からと言って、神を拒むことでしょう。 しかし神は、律法との調和の内にあって、罪のとがめを取り去り、罪人を義とされます。そして、以前には彼らをとがめたその律法が、彼らの義であることをあかしするでしょう。

 「キリストの信仰 」 

聖書を読む際に、そこで言われている通りに受けとらないせいで、多くの人たちが失われます。ここに、黙示録 14章 12節 にある「キリストの信仰」と同じ「キリストの信仰」とい う文字があります。キリストは信仰の導き手 (創始者)であり完成者です (ヘブル 12:2)。 神は、すべての人にキリストをお与えになることで、各自に、量りにしたがって信仰を分け与えられました (ローマ 12:3)。「信仰は聞くことによるのであり、間くことはキリストの言葉 から来るのである」(ローマ 10:17)。 また、キリストは言葉です。すべてのものは神のものです。悔い改めと罪の許しをお与えになるのは神です。


 それだから、自分の信仰は弱いと言って、言い訳をする余地はだれにもありません。賜物を受けいれず に役立てていない人はいるかもしれませんが、「弱い信仰」などというものはありません。ある人は「信仰にあって弱い」かもしれません。それは信仰に依存することを恐れているのであって、信仰自体は神のみ言葉と同じくらい力強いものなのです。キリストの信仰のほかに、信仰はありません。それ以外に信仰と言われているものは、皆まがいものです。キリストだけが義です。彼が世に勝利なさって、 彼だけが勝利する力を持っておられます。彼の内に神の満ち満ちたものが宿っています。なぜなら、律法、すなわち神ご自身が彼の心におられたからです。彼だけが律法を完全にお守りになったし、 また守ることがおできになります。 それだから、彼の信仰一生きた信仰、それはわたしたちのうちにある彼の命 一によってのみ、 わたしたちは義とされることができます。 


しかしこれで十分です。彼は「試みを経た石」です。彼がわたしたちに与えて下さる信仰は、 彼がご自分で試みて証明したものであって、どんな争闘においても負かされることはあ りません。わたしたちは彼がなさったと同じほどのことをやってみるようにとか、彼の持っていたほどの信仰を働かせてみるようにとは、勧められておらず、ただ彼の信仰を受け取 り、それが愛によって働き、心を清めるがままにさせるように と勧められているだけです。そうすれば、 それはその働きをするでしょう。それを受けとりなさい。


 信じることは受けること 

「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたの である」(ヨ ハネ 1:12)。 ということは、彼の名を信じた者は彼を受けいれたということで す。彼の名を信じることは、彼が神の御子であることを信じることです。彼が神の御子であると信じることは、彼の名は「神われらと共にいます」なので、彼は肉、人の肉、すなわちわたしたちの肉の中に来られたと信じることです。 だから、彼の名を信じることは、彼がすべての人の内に、すべての肉の内に個人的に住まわれることを信じることを意味します。わたしたちが信じることによって、そうさせるのではありません。わたしたちが信じても信じなくても、 それはそうなのです。わたしたちはただすべての自然が啓示している事実を受けいれるだけです。

  だからそのようにする結果として、つまりキリストを信じる結果として、わたしたちは キリストの信仰によって義とされます。なぜなら、わたしたちは自分の内にキリストを個人的 に宿らせて、彼自身の信仰を働かせていただくからです。天と地にあるすべての力は彼のみ手の内にあります。そしてそれを認めて、わたしたちはただ彼ご自身のやりかたで、彼ご自身の力をわたしたちの内に働かせていただくだけです。神は、「わたしたちのうちに働く力」によって、「思いをはるかに超えて」働かれます。 


キリストは罪に仕えるかたではない 

イエス・ キリストは [聖なる正しいかた」です (使徒 3:14)。 「彼は罪を取り除くために現れたのであつて、彼にはなんらの罪がない」 (第 1ヨハネ 3:5)。 彼は罪を犯さなかっただけでなく (第 1ペ テロ 2:22)、 「罪を知らなかった」(第 2コリント5:21)。 だからどんな罪も彼からくることはありえません。彼が罪をお与えになることはありません。その傷つけられた脇腹を通り、キリストの心臓からあふれでる命の流れの中には、不純なものは何もありません。それは「水晶のように透き通った、いのちの水の清い川」です。彼は罪に仕えるかたではない、 ということは、彼はだれの罪にもつかえることはなさらないということです。だれでもキリストによる義を求め、求めるばかりでなく それを見出した人が、その後罪を犯したら、それはその人が流れを堰き止めて、水をよどませてしまったからです。み言葉は自由な道筋を与えられなかったので、栄光とされることができなかったのです。活動のないところには、死があります。 このことのゆえに、その人自身をさしおいて責められるべき人は他にだれもいません.クリスチャンだと公言する人々は自分の不完全さを弁護して、クリスチャンにとって罪のない生活をするのは不可能だと言わないようにしましょう。真のクリスチャン、信仰に満ちている人にとっては、罪のない生活以外の生活をするのが不可能なのです。罪に対して死んだわたしたちが、 どうして、なお、その中に生きておれるだろうか」(ローマ 6:2)。 「すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、 その人のうちにとどまっているからである」(第 1ヨハネ 3:9)。 だから「彼につながっていなさい。」


何が打ちこわされたのか 

「もしわたしが、いったん打ちこわしたものを、再び建てるとすれば、それこそ、 自分が違 反者であることを表明することになる」。 もう一度お尋ねします、それを立て直せばわたしたちは違反者であることを表明することになる 何が打ちこわされたというのですか。パウロが、 イエス・キリストにあって信じた人々はキリストの信仰によって義とされるということについて語っていることを思い出せば、質問に対する答を次のみ言葉に見つけることができます。「わたしたちは、この事を知 っている。 わたしたちの内の古き人はキリストと共に十宇架につけられた。それは、 この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである」(ローマ 6:6)。 また、「あなたがたは、キリストにあって、それ (満ち満ちているいっさいの神の徳)に満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである」(コロサイ 2:10-11)。 打ちこわされるものは罪のからだであり、それは、ただキリストの命の個人的な臨在によってのみ打ちこわされます。罪のからだは、わたしたちがその力から自由になり、もはやそれに仕える必要がなくなるために打ちこわされます。それはすべての人のために打ちこわされます。キリストはご自分の肉において、「恨み 」、 肉の思い (それは彼のではなくわたしたちのものです、彼は持っていなかったのだから)を滅ぼしてしまわれたか らです。わたしたちの罪、わたしたちの弱さは、彼の上に置かれました。すべての人のために勝利は得られ、敵は武器を奪われました。わたしたちはただ、キリストが勝ち取られた勝利を受けいれるべきです。すべての罪に対する勝利はすでに現実のものです。それを信じるわたしたちの信仰が、勝利をわたしたちにとっての現実にするのです。信仰をなくすことが、その現実の外にわたしたちを置くことになり、古い罪のからだが 再び現れてくるのです。信仰によって打ちこわされたものが不信仰によって再び建てられるのです。 この罪のからだの破壊は、すべての人のためにキリストによってなされました。 しかしながら、 これは個々人においては今現在の個人的な事柄である事を覚えましょう。 

「律法に対する死」 

多くの人々が、「律法に対する死」というの は律法が死んだのと同じ意味だと、なんとなく思っているようです。律法は力に満ちていなければなりません。そうでなければ誰もそれによって死ぬことはありえません。 どのようにして人は律法に対して死ぬようになるのでしょうか。その罰である死を完全に受けることによって彼は律法に対して死ぬのです。 しかし彼を殺した律法は、なお別の罪人を殺す用意があります。 ところで、はなはだしい犯罪のために死刑を執行された人が、なにか奇跡的な力で生き返ったと仮定してみましょう。彼はそれでも法に対しては死んではいないでしょうか。確かに、以前の彼の犯罪を法によって とやか く言うことはもうできません。 しかし、もし彼が再び罪を犯せば、法は再び彼に死刑を執行するでしょう。 しかし、それは別人として、です。そこでわたしたちは、神のために生きることができるように、律法によってわたしは律法に対し死んでいると言います。キリストのからだにより、わたしは、自分の罪のゆえに律法によって死んだその死からよみがえっており、今は 「新しい命の内」を、神に対する命の内を歩いているのです。昔のサウルのように、わたしは神の霊によって「変わって新しい人」とされたのです (サ ムエル上 10:6)。 これがクリスチャンの経験なのだということが次のことによって示されています。 


キリストと共に十字架につけられた 

「わたしはキリストと共に十字架 につけられた。生きているのは、 もはや、わたしではな い。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」。キリストは十字架につけられました。彼は、「わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」(ローマ 4:25)。 しかしわたしたちが彼と共に十字架につけられなければ、彼の死と復活はわたしたちに何の益ももたらしません。 もしキリストの十字架がわたしたちから切り離されて、たとえほんの一瞬、 ほんの髪の毛一筋ほどの隙間であっても、わたしたちの外に置かれるなら、わたしたちにとって彼はあたかも十字架 にかかられなかったかのようになってしまいます。立てられるはずの十字架と、また将来の定められた時に十宇架にかけられるはずのキリストを、ただ将来に見ることによって救われた者はだれもいません。また、過去のある時キリストが十字架にかけられたことを、ただ信じるだけで今救われる人もいません。いいえ、もし人が十字架につけられたキリストを見るとするなら、彼らは将来または過去ではなく、上を見るべきです。なぜなら、 カルバリーに立てられた十字架の腕は、失われたパラダイスから回復されたパラダイスにまで達しており、罪の全世界を抱きかかえているからです。キリストの十字架はただ一日の出来事ではありません。彼は「世の初めからほふられた小羊」(黙示録 13:8)であり、 カルバリーの激しい痛みは、宇宙にたった一つの罪、またはたったひとりの罪人でも存在するかぎり、終わらないでしょう 。今でさえ、キリストは全世界の罪を負っておられます。「彼のうちにすべてのものは含まれているからです。」そして最後の時に、義人とならなかった悪人を火の池で減ぼすことを神が余儀なくされるとき、彼らが 苦しむ苦悩は、彼らが拒んだキリストが十字架の上で苦しまれた苦しみにほかなりません。


十字架はどこに 

キリストは木の上でわたしたちの罪をご自分の身に負われました (第 1ペテロ 2:24)。 彼は木にかけられたことで、「わたしたちのためにのろいとなられた」(ガラテヤ 3:13)。 十字架の上で、彼は人の弱さと罪ばかりでなく、地の弱さをも負われました。いばらはのろい、 つまり地の弱められた不完全な状態のしるしです (創世紀 3:17-18、 4:11-12)。 そして十字架の上で、キリストはいばらの冠をかぶられました。それだから、あらゆるのろい、その すべての形跡は、キリストが負われました、つまりすべてはキリストによって十字架にかけ られました。だから、わたしたちがのろいを見る所いずこにも、あるいはのろいのある所どこにでも、わたしたちに見えても見えなくても、そこにはキリストの十字架があります。 このことは次のことからもわかります。のろいは死であり、死は殺します。のろいはあらゆるものの中にあります。 しかしながら、わたしたちはあらゆるところに命を見ます。 ここに十字架の奇跡があるのです。キリストは死というのろい受けて苦しまれましたが、 しかし復活されました。彼だけが、そうすることのできたただ一人のおかたです。それゆえに、のろいはあらゆるところにあるにもかかわらず、 どこにでも、 白分の内にさえも命を見るという事実は、十字架にかけられたかたの十字架がそこでそれを負っておられるのだということの決定的な証明です。ですから、すべての草の芽、森にあるすべての木の葉、わたしたちが食べ るパンの一切れ一切れすべての上に、キリストの十字架の印が押されています。そればかりでなく、 とりわけわたしたちにとって、それは同じことなのです。堕落し、罪に傷ついた、みじめな人間がいるところにはどこでも、その人のためにまたその人の内にあって神が十字架につけられたキリストもまた、そこにおられるのです。十字架上のキリストはすべてのものを負われたのだから、人の罪は彼の上に置かれています。不信仰と無知のゆえに、人は重い荷の重量を全部感じるかもしれませんが、 しかしそれでも重荷はキリストの上にあるのです。それはキリストには負えますが、その人にとっては重い。 もしその人が信じれば、彼はその重荷から解放されるでしょう。要するに、キリストは十字架上で全世界の罪を負われました。それゆえに、罪が見出されるところではどこでも、そこに十字架があるということをわたしたちは確信するのです。 


罪はどこに

 罪は個人的な事柄です。人は、他の人が犯した罪ではなく、 自分自身の罪の責めを負います。 ところで、わたしはわたしがいる所以外で、つまりわたしのいないところでは罪を犯す ことはできません。罪は人の心の中にあります。「すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貧欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高 慢、愚痴、これらの悪はすべて内部から出てきて、人を汚すのである_|(マルコ 7:21-23)。 「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」(エレミヤ 17:9).生 れながら、罪はわたしたちの存在のすみずみにまで及んでいます。わたしたちは罪の中に生れ、わたしたちの命は罪です。だから、わたしたちの命を取ることなしに、わたしたちから罪を取り去ることはできません。わたしが必要とするのは、わたしの罪からの解放です。その罪というのは、わたしが個々に犯した罪ばかりでなく、 心の中に宿っているもの、わたしの命全部を構成している罪です。

 罪に縛られる 

「悪しき者は自分のとがに捕えられ、自分の罪のなわにつながれる」(蔵言 5:22)。 「『たといソーダをもって自らを洗い、また多くの灰汁を用いても、あなたの汚れは、なおわたしの前にある』と主なる神は言われる」(エレミヤ 2: 22)。 わたしの罪は、わたしがわたしのうちで犯し、わたしはそれを自分から引き離すことができません。それを主に投げつけるのですか。 ああ、その通り、それがいいでしょう。だが、 どうやってそうするのですか。わたしはそれを手に集め、わたしから投げ出して、彼にくっつける事ができるでしょうか。できません。もし 罪を髪の毛一すじほどの隙間であっても、自分から引き離すことができれば、わたしは安全なはずです。それがどうなろうとも、それはわたしの中には見つけることはできないからです。 そういう場合には、わたしにはキリストは要らないと言えるでしょう。もし罪がわたしの中に見つけられなければ、それがどこで見つけられようと問題ないからです。もしわたしが自分の罪を集め、それを、わたしからは離れた所で十字架につけられたキリストの上に置くことができるのであれば、わたしはそれをあえて彼の上に置く必要などはないのです。罪を自分から引き離すことができれば、わたしはきれいになることでしょう。しかし、わたしを救うことができるわたしのわざは何もありません。だから、わたしの罪から自分を引き離そうとするわ たしの努力のすべてはむなしいのです。


 キリストはわたしたちのうちで罪を負われる。

 今まで語ってきたことから、わたしの罪を負う者は誰でも、わたしのいるところに来なければならないことが明らかです。そう、わたしの中に来なければならないのです。そして、実 にこれこそキリストがなさったことです。キリストは言葉です。そして、神が何を要求されているか自分たちには分からないと言って、言い訳をするすべての罪人に対し、彼は、「この言葉はあなたにはなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる」と言われます (申命記 30:11-14)。 だから彼は、「自分の口で、 イエスは主であると告白し、 自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせた と信じるなら、あなたは救われる」と言われるのです (ロ ーマ 10:9)。 わたしたちはイエスのことを何と告白すべきなのでしようか。なぜ、彼はあなたの近くにおられ、あなたの口に、あなたの心におられるという真理を告白し、彼は死からよみがえられたと信じるのでしょうか。「さて「上った』と言う以上、 また地下の低い底にも降りてこられたわけではないか 」(エペソ 4: 9)。 よみがえられた救い主は、十字架につけられた救い主です。だから、キリストが罪人の心の中にあってよみがえられるとき、そこには十 字架につけられたキリス トがおられるのです。 もしそうでないなら、だれにも望みはありませ ん。ある人は、 イエスは千八百年前 (現在から約二千年前 :訳者注)に 十字架にかけられたことを信じ、 自分の罪のうちに減びるかもしれません。 しかし、キリストは自分の内で十字架にかけられ、そしてよみがえったと信じる者は救われます。 世界中のだれもが救われるためにしなければならないことの全ては、真理を信じることです。それは事実を認知すること、物事を実際のありのままに見ること、そしてそれを告白することです。キリストは自分の中で十字架につけられたという、あらゆる人の場合におけるその事実を信じ、その十字架にかけられたキリスト がまたよみがえられたこと、そしてその復活の力によって、またその力をもって、キリストが自分のうちに宿っておられることを信じる者は、罪から救われます。そして、その告白をしっかりと持ち続けるかぎりその人は救われるでしょう。これだけが真の信仰告自です。 罪のあるところにはどこにでも、キリストがおられます。罪からの救い主がおられる、 これはなんと栄光に満ちた思想でしょうか。彼は罪、すべての罪、世の罪を負われました。罪はすべての肉のうちにあります。だからキリストはその肉の中に来られました。キリストは地に 住むすべての人の中で十字架にかけられます。 これが真理、救いの福音、すべての人に伝えられるべきことです。そして、それを受けいれる者はみな救われるのです。 

信仰によって生きる 

ローマ十章で、すでに注意して見たように、キリストはすべての人の内におられるということ、「悩めるときのいと近き助け」(詩篇 46:1)であることを学びました。罪人が罪から義に転じるためにあらゆる刺激 (動機 )と便宜を持てるように、キリストは罪人の中におられます。彼は「道であり、真理であり、命である」(ヨハネ 14:6)。 彼の命以外に命はありません。彼は命です。 しかし、彼はすべての人の内におられますが、すべての人が自分の命の内に彼が現わされた義を持っているのではありません。ある人たちは「不義をもって真理をはばんでいるからです (ローマ 1:18)。 さて霊の感動を受けたパウロの祈りは、人の内に住む神の霊によってわたしたちが強められるようにということで した。「信仰によって、キリストがあなたがたのうちに住み 」、 「神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように」(エペソ 3:16-19)。 では罪人とクリスチャンとの違いは何かというと、それは、すべての人の中に十字架につけられてよみがえったキリストがおられるのですが、罪人の内では彼は認められず無視されており、一方クリスチャンの内では信仰によって宿っておられます。

  キリストは罪人の中で十字架にかけられました。罪やのろいのある所ではどこでも、彼はそこでそれらを負っておられるからです。今必要なことのすべては、罪人の滅びゆく肉のなかにイエスの命が現わされるために、その人がキリストと共に十字架にかけられること、キリストの死がその人の死となるようにすることです。神が造られたすべてのものの中に見られる、神の永遠の力と神性とを信じる信仰は、だれにでもこの奥義をとらえることができるようにすることでしょう。種は「死ななければ」発芽しません (第1コリント 15:36)。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一 粒のままです。 しかし、もし死んだな ら、豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネ 12:24)。 だから、キリストと共に十字架にかけられた者は、すぐに生き始めます。 しかし、それは新しい人として、です。「生きているのは、もはや、 わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」

 世界のいのち 

「だが、キリストはほんとうのところ千八百年以上も前 (現在からは二千年前 )に十宇架に かけられたのではないか」。確かにそのとおりです。「では、 どうしてわたしの個人的な罪が彼の上に置かれたということがありうるのか。 また、わたしが今彼と共に 十字架にかけられるということがどうしてありうるのか」。わたしたちはその事実を理解することができないかもしれませんが、だからといってそれは事実そのものを変えはしません。 しかし、キリストは命、「永遠のいのち…父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたもの」(第 1ヨハネ 1:2) だということを、わたしたちが思い出す時、わたしたちは理解ができることがあるのではないでしょうか。「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」。「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた」(ヨハネ 1: 4、9)。

 キリストは、人が見ることのできた人間ナザレのイエスよりも大いなるかたです。肉と血、すなわち目に見えるものは、「生ける神の子、キリスト」をあらわすことはできない (マ タイ 16i16-17)。 「『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた』。そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである」(第1コリント2:9-10)。 だから、ナザレの大工だったその人をいくらよく知っていたとしても、御霊によらなければだれも彼を主と呼ぶことはできませんでした (第 1コリント12:3)。 御霊、すなわち彼自身の個人的な臨在によって、彼は地に住むすべての人の内に宿ることがおできになり、肉にあるイエスにはできなかったひとつのこと、すなわち天をも満たすことがおできになります。それゆえに、去って行くこと、そして慰め主をお送りになることは彼にとって適切なことでした。「彼は万物よりも先にあり、 万物は彼にあって成り立っているのである」(コロサイ 1:16-17)。 ナザレのイエスは、肉において現わされたキリストでした。 しかし、その肉がキリストだったのではありません。なぜなら、「肉はなんの役にも立たない」からです。 初めにあったのは、その力がすべてのものをささえているところの言、神のキリストでした。 キリストの犠牲は、 この世に関するかぎり、世の初めから始まっています。キリストはユダヤやガリラヤで、良いことをするために出ていかれた一方で、世界の罪のためのあがないをしながら父のもとにおられました。 

 カルバリーでの場面は、罪が存在するかぎり何が起るのか、また救われたい と思う人がすべて救われるまでは何が起るのかを現わすものでした。キリストは世の罪を負っておられます。彼はそれらを今負っておられます。わたしたちが考えているのは永遠の命なのだから、一人の死と復活がどんな時のためにも十分でした。ですから、犠牲が繰り返される必要はありません。その命がすべてのものにみなぎり、ささえているので、信仰によってそれを受けいれる者はだれでもキリストの払われた犠牲すべての益をこうむるのです。 ご自分で彼は罪の清めとなられました。命を拒む者、または自分が持っているのはキリストの命であることを認めようとしない者はだれでも、 もちろん、その犠牲による益を受け損ないます。


神の御子の信仰 

キリストは神によって生活なさいました (ヨハネ 6:57)。 世におられた彼に、神がお与えになった信仰は、彼が死なれるとき三日目によみがえるべきことを、確固として繰返し言われ たことに示されているような性質のものでした。 この信仰にあって、「父よ、わたしの霊を み手にゆだねます」と言って彼は死なれました (ルカ 23:46)。 罪に対する完璧な勝利を彼 に与えたゆえに、死に対する勝利を彼に与えたその信仰は (ヘブル 5:7)、 信仰によって彼がわたしたちのうちに宿られるとき、彼がわたしたちのうちで働かして下さる信仰です。「彼はきのうも今日もまた永遠に変わることがない」からです。生きているのはわたしたちではなく、 キリストがわたしたちのうちにあって生きておられ、わたしたちをサタンの力から解放するためにご自分の力をお用いになるのです。わたしたちは何をしなければならないのかとお聞きになるなら、こうお答えします。キリストがわたしたちのうちにあって、キリストのやり方で生きるようにしていただきましょう。「キリスト・イエスのうちにあったのとおなじその思いがあなたのうちにあるようにしなさい」。 どうしたらわたしたちは彼にそうしていただけるでしょうか。ただ彼を認めることによって、 彼を告白することによってです。わたしたちは 理解することはできないし、栄光の望み、わたしたちのうちにいますキリストという奥義を説明することはできませんが、わたしたちの命をささえるために奉仕している自然界のすべてのものがその事実を教えています。わたしたちの上に輝く日光、吸う空気、食べる食物、そして飲む水はみな、わたしたちに命をもたらす手段です。それらのものがわたしたちにもたらす命は、キリストの命にほかなりません。彼は命だからです。 このようにわたしたちは、キリストがわたしたちのうちに生きることがおできになるという事実の証拠を、わたしたちの前にも、またわたしたちの内にも常に持っているのです。もしわたしたちが、み言葉に、わたしたちの内にあって自由な道筋をとらせるなら、それはわたしたちのうちで栄光となり、またわたしたちを栄光あるものとします。 


わたしのための贈り物 

「わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子」。 これはなんと個人的な 事柄でしょう。わたしは、彼が愛して下さった者です。世界中の者が皆、各自、「彼はわた しを愛し、わたしのためにご自身をささげてくださった」と言うことができます。 この句を読むとき、パウロのことは問題外としておきましょう。パウロは死んだが、彼が書いた言葉は今もなお生きています。それはパウロにとって真実でしたが、ほかの人々すべてにとっても全く同じです。それは、わたしたちが受けいれさえすれば、聖霊がわたしたちの口に置いて下さる言葉です。キリストの賜物はすべて、一人一人のために、そしてわたしのためにあ ります。キリストは分けられませんが、だれもが皆、彼のものを全部受けます。それぞれが輝いている光を全部受けるのです。太陽が何百万人もの人々の上に光を輝かしているという事実は、わたしのための光 がいくらかでも少なくなることを意味するものではありません。わたしはその益を十分に受け、たとえ世界にいるのがわたしただ一人だとしても、それ以上受けることはできないほどです。それはわたしのために輝いているのです。キリストはわたしのためにご自身をささげられました。それは世界でただわたし一人が罪人だったとしても同じです。そして、 この事実は他のすべての罪人にとっても同じです。 あなたが一粒の麦をまくと、より多くの同じ穀粒を手に入れます。その一つ一つが同じ命を持っており、それは元の種が持っていたのと全く同じものです。だから、真の種、キリストにおいてもそうなのです。わたしたちも同じ真の種を持つことができるようにと、彼はわたしたちのために死んで、わたしたち一人一人にご自分の命を全部与えて下さいました。「言いつくせない賜物のゆえに、神に感謝せよ。」 

むだではないキリストの死 

「わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、 義が律法によって得られるとすれば、キリス トの死はむだであったことになる」。 これが、問題としてきたことの要約であり、先に述べてきたことの本質です。 もし義が律法によって得られるなら、キリストの死は無益であったことになります。律法自体は、人の義務を指摘する以外のことはできません。だから、律法によって義が得られると言うことは、わたしたちの働きにより、わたしたちの個人的な努力によって得られるという意味です。ですからこの聖句は、 もしわたしたちが自分自身で救いを得られるなら、キリストは意味のない死をとげたのだ、 得なければならないことは救いなのだから、 と言っているのと同じなのです。 ところで、わたしたちは自分で救いを得ることはできません。 そしてキリストは無駄に死んだのではありません。だから、彼のうちに救いがあるのです。 ですから、約束は確実です。「彼が自分を、 とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する」(イ ザヤ 53:10-11)。 「だれでも望む者は」その数に入れられるでしょう。彼は無駄に死んだのではないのだから、「神の恵みを無にはしない」ようにしましょう。

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