キリストに自分たちをささげはしたものの、まだ、主のご用のために大きな仕事をしたり、大きな犠牲をする機会を得ない人々がたくさんいる。このような人々は、神が一番お喜びになることは、必ずしも、殉教者の自己犠牲ではないことを知って、慰めを得るべきである。天の記録の最高位に立つのは、必ずしも、日ごとに危険と死に当面する宣教師であるとは限らないのである。その私生活においてクリスチャンである者、日ごとの自己犠牲において、心の真実さと純潔において、ののしられても柔和なことにおいて、信仰と敬虔において、小さいことに忠実なことにおいて、家庭生活において、キリストの品性を表す者、このような人は、世界的に名高い宣教師や殉教者以上に、神の前には尊いのである。
品性を評価するにあたって、神と人との標準は、なんと大きな相違があることであろう。世の中や親しい友人さえも知らない、家庭内や心のなかの誘惑、数々の誘惑に打ち勝ったことなどを、神はごらんになる。自己の弱さを知って、謙遜にしていること、一つの悪い思いでさえ、心から悔い改めることなどを、神はごらんになる。また、神は、ご用のために心から奉仕する人をごらんになる。自己とのはげしい戦い、そして遂に、その戦いに勝利したことなども注目なさるのである。これらすべてを、神が知っておられ天使も知っている。主をおそれ、主の名をおぼえる者のために、主の前に記憶の書がかかれている。
学識があるとか、地位があるとか、人の数とか、才能の数とか、人間の意志の力とかに、成功の秘訣があるのではない。わたしたちは、自分の無力を感じて、キリストを瞑想すべきである。そうするならば、 すべての力の力であり、すべての思いの思いであるキリストの助けによって、 喜んで従っていく人々は、勝利から勝利へ進むのである。
わたしたちの働きは、どんなに短く、またどんなに卑しいものであっても、単純な信仰をもって、キリストに従っていくならば、必ず報酬を受けることができる。いかに偉大で賢明な人々でさえも、得ることができなかったものを、最も弱く卑しい者が受けることができるのである。天の黄金の門は、自己を高める者のためには開かれない。また、高慢な心の者にもあげられない。しかし、永遠の門は、小さな子供のふるえる手が触れた時に広く開かれるのである。単純な信仰と愛とをもって神のために働いた者の受ける恵みの報酬は、実に祝福されたものである。
~キリストの実物教訓 恵みの報い~
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