しかし、キリストは、長く父の家から離れていたとはいえ、父のみ心から忘れ去ることのできない神の子供たちとして、彼らをお迎えになった。そして、彼らが悲惨と罪の中にあること自体が、特別に神の憐れみの対象になる理由であった。彼らが神から遠ざかっていればいるだけ、彼らに対する熱望も大きく、彼らの救いのために大きな犠牲を、神は払われるのである。
イスラエルの教師たちは、これをみな、自分たちが保管者で解釈者であると誇っていた聖書から、学ぶことができたのはずであった。罪を犯したダビデは、「わたしは失われた羊のように迷い出ました。あなたのしもべを捜し出してください」と書いたのではなかったか(詩篇119:176)。ミカも罪人の対する神の愛を記して、「だれかあなたのように不義をゆるし、その嗣業の残れる者のためにとがを見過ごされる神があろうか。神はいつくしみを喜ばれるので、その怒りをながく保たず」といった。(ミカ7:18)
キリストの実物教訓 第15章 この人は罪人たちを迎えて
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