悪鬼から解放されたこの2人はデカポリス地方に福音をのべつたえるためにキリストからつかわされた最初の宣教師となった。彼らがキリストの教えを聞く特権を与えられたのはほんの数分間にすぎなかった。彼らはキリストから一つの説教さえきかされなかった。彼らは、毎日キリストといっしょにいた弟子たちのように、人々を教えることはできなかった。だが彼らは、自分自身のうちにイエスがメシアであるという証拠を持っていた。彼らは知っていることを語ることができた。キリストの力について自分自身が目で見、耳で聞き、心に感じたことを語ることができた。これこそキリストの恵みにふれたことのある人ならだれでもできることである。愛された弟子ヨハネは「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について―― このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである」と書いた(Ⅰヨハネ1:1、2)。キリストの証人として、われわれは、知っていること、自分が見、聞き、感じたことを語るのである。もし1歩1歩イエスに従ってきているならば、われわれは、イエスがわれわれをみちびかれた道について何か要点にふれたことを語ることができるのである。イエスの約束を試みて、その約束が真実であったことを語ることができる。キリストの恵みについて知ったことをあかしすることができる。これこそ、主が求めておられるあかしであって、このあかしが欠けているために、世の人々は滅びつつあるのである。
各時代の希望 「静まれ、黙れ」
0 件のコメント:
コメントを投稿