A.T.
ジョーンズによる説教
「それだから…あなたがたも完全な者となりなさい」。そして、たった今歌った「きわみまで救われた」という歌は、「それだから」という言葉を問題にするのに十分です。「それだから…あなたがたも完全な者となりなさい」。あなたがたは、そのような言葉は、神の言葉であるのを知っています。自分たちに対して「完全を目ざして進もうではないか」( ヘブル 6:1) と熱心に勧められているのを知っています。福音、わたしたちが宣べ伝えている福音の言うことは、まさに「すべての人が…キリストにあって全き者として立つようになる」(コロサイ1:28)ことであるのを知っています。ですから、わたしたちは、完全はわたしたちに期待されてはいないと言うべきではありません。それはわたしたちに期待されているのです。みなさんはそれを自分に期待せねばなりません。また、完全ということにおいて、神が設けられた完全の標準にふさわしくないものを、自分のうちに、また自分のものとして受けいれてはなりません。期待されてはいないと考えること以上に、完全の達成を妨げ得るものは他にあるでしょうか?もう一度言いますが、わたしたちは完全であるのを期待されてはいないと言うこと以上に、完全の達成の妨げとなり得るものがあるでしょうか?
ですから、わたしたちが完全であるようにとみ言葉が言っているということは確かなので、考えねばならないことは一つだけ、その方法です。それだけです。神が設けられた完全に寸分違わない完全がわたしたちに期待されていることを、確かにしましょう。そして、わたしたち自身の中に、わたしたちのすることに、わたしたちに関するどんなことにも、神が設けられた完全にわずかでも不足するものは受けいれないようにしましょう。また、それをいつまでも確かなものとしましょう。そして、ただその方法だけを求めましょう。そうすれば、事は成し遂げられるでしよう。
では、その標準は何でしょうか?神が設けられた標準は何でしょうか?「それだから、あなたがたの父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」( マタイ 5:48)。神の完全がただひとつの標準です。ですから、わたしたちは自分をそこに正しく位置づけなければなりません。そして、神のものであるような完全がわたしたちのうちにあることをいつも求めて、自分に直面しなければなりません。自分のうちでその完全に足りないことは、考えられるかぎりいっさい値引きして見ることはしないのです。妥協や言い訳をしないのです。
神の偉大さという点で、また神の全能や全知という点で、わたしたちが完全であることはできないのはわかりきっています。神は品性です。そして神のような品性の完全、それが、わたしたちが達成するよう神が設けられたことであり、それだけが期待されており、それだけが自分のうちに受けいれるべきものです。ですから、わたしたちが持たねばならないもの、それだけを自分のものとして受けいれるべきもの、常にその標準に自分を保つべきものとは、神の完全です。するとすぐわかることは、わたしたちにとって、それは、神の判断 ( さばき ) の前に自分を絶えず置き続けることでしかないということです。わたしたちには、義であっても悪であっても、すべての者が立つことを期する所があります。なぜそこに立たないのですか?そしてそこで裁かれないのですか?わたしたちがキリストの裁きの座に立つべきことは定まっています。そして、そこでわたしたちは神の標準で測られます。「神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれを成し遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」( 使徒 17:31)。
キリストのよみがえりは、すべての人がキリストのさばきの座の前に立つという神の誓いを世に対してなしているものです。それは定まっています。わたしたちはそれを期待します。それを宣べ伝えます。それを信じます。ではなぜ、そこに自分自身を置かないのですか?そしてそこに堅く立たないのですか?なぜ待つのですか?待っている人たち、また待ち続ける人たちは、そこに立つことはできないでしょう。不信心な者は、このさばきに立つことはできません。しかし、自分を神のさばきの前に置く者、義の標準に直面して、思いと言葉と行いにおいて、たえずその場に自ら身を置いている者は、いつでもさばきに備えているのです。それに備えていますか?そのような人たちには、備えがあります。そこにいます。それに合格します。彼らはさばきとそのさばきがもたらすものすべてを懇請します。彼らは合格することを期待してそこに立ちます。そしてこうする者だけが安全です。そのことからくる祝福こそが、まさに今、さばきの座の前に自分自身を置く人が必要としている報いのすべてです。ですから、そこに立つことで、何を恐れることがあるでしょうか?何もありません。そしてすべての恐れが追い払われると、どうでしょうか?完全な愛。しかし完全な愛は、そのさばきにおいて、そのさばきの持つ完全な標準にかなうことによってのみ生じ、そこに立つことによってのみ保つことができます。
そのことは定まっているので、その方法を探しましょう。その方法、それがすべてです。それは定まっていますから、わたしたちの標準は、標準とはなりません。その事を考えて下さい!「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。神の完全が唯一の標準です。ではその標準についてのだれのはかり、その標準についてのだれの評価が正しいのですか?わたしのではありません。わたしは神の完全をはかることはできません。みなさんは、おそらく今、この聖句を思い出すのではないでしょうか。「わたしはすべての全きことに限りあることを見ました。しかしあなたの戒めは限りなく広いのです」( 詩 119:96)。
有限な思いは、神の完全をはかることはできません。今までのところをまとめるとこうです。わたしたちは完全でなければならないことは定まっていることなので、神が完全であられるようにわたしたちも完全でなければならず、それは神ご自身の完全を神ご自身が評価するのにしたがった完全さです。ですから、そのことは、わたしたちの計画全部、そのことに関してすることいっさいを、全くわたしたちから取り除いてしまうことなのです。わたしがその標準をはかることができないのに、仮にそれをするようにわたしに言われても、どうやってそれを達成できるでしょうか?では、そのことに関する働きもまた、全くあなたがたの及ぶところではないということも、はっきりさせておきましょう。
これもまた、ずっとずっと昔に言われたのです。「まことにわたしは、その事のそのとおりであることを知っている。しかし人はどうして神の前に正しくありえようか?よし彼と争おうとしても、千に一つも答えることができない。彼は心賢く、力強くあられる。だれが彼にむかい、おのれをかたくなにして、栄えた者があるか」( ヨブ 9:2 ~ 4)。
また、わたしが弁明せねばならない時、どうなるのでしょうか?「たといわたしは正しくても、わたしの口はわたしを罪ある者とする。たといわたしは罪がなくても、彼はわたしを曲がった者とする」( ヨブ 9:20)。もしわたしが、自分が満足するところまで自分がかなうようにできたとして、その評価に折り紙をつけたとしても、それを神の評価に沿わせてみれば、自分を全く罪ありと自ら評価するほかはないのです。そこには義とする根拠はありません。「たといわたしは正しくても、わたしの口はわたしを罪ある者とする」。
「わたしは罪がない、しかしわたしは自分を知らない。わたしは自分の命をいとう」( ヨブ 9:21)。わたし自身の完全の標準は、神の前に置く時、また神の光の中で見る時に、わたし自身それを否定する程度のものでしかありません。「たといわたしは雪で身を洗い、灰汁で手を清めても、あなたはわたしをみぞの中に投げ込まれるので、わたしの着物も、わたしをいとうようになる」( ヨブ 9:30、31)。
もしそれをするのがわたしたちなら、その標準にできるだけ近づくことしかできません。ですから、完全はわたしたちが果す事であるという考えは全く捨て去ってしまいましょう。完全はわたしたちが、獲得すべきものです。神はそれを期待しておられます。そして神はそのための備えをなさいました。そのためにわたしたちは作られたのです。わたしたちの経験のただ一つの目標は、まさにそれ、神の完全で完全にされることです。また、わたしたちは神の品性を持つ完全となるべきことを思い出して下さい。神の品性の標準がわたしたちの標準でなければなりません。そうなのです、神の品性そのものがわたしたちの品性となるのです。わたしたちがそのようなものを作るのではありません。そのものがわたしたちのものとなるのです。そしてそのような完全だけが、神の完全なのです。
さて、それをわたしたちは持たねばなりません。話の全体は三つの聖句で告げられます。第一のものは、エペソ人への手紙第 1 章の中にあります。4 節で言われていることを正しく読み取るために 3 節から始めます。
「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から[さて、神は何のためにわたしたちを選んだのか注意して下さい。それは天地の造られる前から神がもっておられた目的です。わたしたちを選んで今に至らせて下さっている目的です。その核心に面と向かいましょう]、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである」。
それだけが、神がわたしたちに関して考えておられることです。そのためにわたしたちを造られました。そのためにのみ、わたしたちは存在しているのです。そこで次に、もうひとつの言葉が語られます。いつそうなるのですか?そのことにどうして面と向かおうとしないのですか?なぜ、今、この時、わたしたちの生きる目的にかなうようにしないのですか?愛のうちに、みまえにきよく傷のない者とならないのですか?
次の聖句は、コロサイ 1:19 ~ 22 です。「神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである」。
第一に、神は、わたしたちをその目的のために造ってくださいました。罪により、わたしたちはその目的から全くそらされてしまいました。目的全体が、くじかれてしまいました。しかし、イエスは、十字架を耐えられました。神はそのようにすることを喜ばれました。キリストはそのようになることを喜ばれました。神の本来の目的が成就されるようになるためです。要点はこうです。キリストは、この本来の目的にわたしたちがかなうようになるために、ご自分の十字架によってわたしたちを和解させて下さいました。その目的とは、天地の造られる前から神が持っておられたもので、わたしたちが愛のうちに、みまえにきよく傷のない者となるということです。キリストの血、イエス・キリストによって世にもたらされた回復とは、イエスがわたしたちを清い者として立たせることでした。イエスが天地の造られる前に思っていたことそのものを、イエスがなさるためでした。イエスがわたしたちを聖なる傷のない責められるところのない者として、みまえに立たせて下さるためでした。
クリスチャンの完全の道は、十字架の道であり、他には道はありません。あなたがたにとってもわたしにとっても、それ以外の道はないということです。それをわたしたちにもたらす方法、ただ一つの道は、十字架の道によるものでした。彼はその道を来られました。そしてその道を示してくださいました。わたしたちにとって、それを得る唯一の方法は十字架の道による方法です。イエスはこのこと、すなわち彼ご自身がなさる備えをなさいました。わたしたちは、それをすることに関し全く何もすることはありません。
では、このことにおいて本当に何がなされたのか、神がいかにしてその必要を満たされたのかを、エペソ 4:7 ~ 13 で注意深くみてください。
「キリストから賜わる賜物のはかりに従ってわたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている」。さて、考えて下さい。今までの研究で、キリストの賜物は何をしたのでしたか?それは「キリストの十字架の血によって平和を作り」、すべてのものを神と和解させました。そして、それは天地が造られる前から、神が計画しておられたわたしたちのあるべき様、すなわち、わたしたちを「みまえに聖なる傷のない責められるところのない者」としました。それがこのことにおけるキリストの賜物のはかりです。またそれはすべての人のために道を開いて、すべての人のために目的を達成しました。そして今まさに、わたしたちひとりびとりに対して、同じそのはかりに従って恵みが与えられています。それから、十字架がわたしたちにもたらしたもの、わたしたちの届く範囲におかれたもの、すなわち神の恵みが与えられ、わたしたちのうちにこのことが成就するのです。
さて、続けて読みましょう。そうすれば、すべてその通りであり、まさに完全という言葉そのものがぴったりとふさわしいものである事がわかるでしょう。「キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。そこで、こう言われている、『彼は高いところに上った時、とりこを捕えて引き行き、人々に賜物を分け与えた』…そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師としてお立てになった」。何のために?「それは聖徒たちをととのえ…るためである」。兄弟がた、これらの賜物が、その目的で与えられているとき、その事実に面と向かわないでおいてどうするのですか?その賜物を求め、そのために祈り、その目的を達成する賜物を受けるのです。他にどうするというのでしょうか?
「聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ」、はっきりとした、まぎれもない、決定的なその目標がついに達成されるのです。それは「聖徒たちをととのえる」ために与えられ、「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリスト・イエスの満ちみちた徳の高さに至るため」に与えられています。
このように、完全がただひとつの目標です。神の標準はただ一つです。「それだからあなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。わたしたちはそれをはかることはできません。また、仮にそれをわたしたちがするように言われていたら、達することはできませんでした。それはわたしたちが創造された目的です。そして、その目的が罪によってくじかれてしまった時、イエスはその十字架によって、すべての人にとってそれが可能になるようになさいました。そしてまた、聖霊の賜物によってすべて信ずる者にそれを確実なこととされました。
それでもう一度尋ねます。なぜ、たえずクリスチャンの完全に面と向かい、完全にされる自分を受けいれてはならないのですか? ユダ 1 章 24 節は、今までに読んできたことと直接結びついていて、こう言っています。「あなたがたを守ってつまずかない者とし、また、その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さるかた、すなわち、わたしたちの救い主なる唯一の神に、栄光、大能、力、権威が…今も、また、世々限りなくあるように」。
神は、わたしたちを「みまえにきよく傷のない者となるようにと…愛のうちに」天地の造られる前から選んでおられます。わたしたちが罪によってすべてのチャンスを失っていた時でさえ、十字架によって神はすべての魂にとって、それを可能にしてくださいました。そして、神は十字架によって、「あなたがたをみまえに聖なる、傷のない、責められることのない者にするための」権利を買われました。このことをする権利はただ神のものです。みなさんもわたしたちも、仮にそれをするようにと言われてもできませんでしたが、それをする権利はわたしたちには属していなのです。わたしたちがそれを失った時、カルバリーの十字架のほかには、その回復はできませんでした。その価を払ったかたを除いては、だれも十字架という価を払うことはできませんでした。そして、確かにその価を払ったかただけが、その価を払うことができたので、わしたちたちにそれをもたらしてくださるに違いありません。ですから、カルバリーの十字架の権利によって、その権利は彼にだけあるのです。また、文字通り、カルバリーの木の十字架を耐えることのなかった者は、だれひとりとして、それを達成する任務を負う権利は持たないのです。ただ十字架を耐えたイエスだけに、彼だけに、その任務は属するのです。それで、あなたがたをその栄光のまえに傷なき者として立たせることが、彼には「できる」、彼には「できる」と告げるこのみ言葉があるのです。十字架を負うことのできるかたが、その十字架が可能にしたことを達成することができます。ですから彼は、「あなたがたをその栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さる」ことができます。いつですか?質問はそれです。いつですか?
〔声:「今」〕
そうなのです。彼は、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがありません。彼は、当時と同じく、またこれからも同じく、たった今、それができます。
けれども、十字架の道によってのみ、それはたった今でも、いつでも、わたしたちに起きるということが変わらぬ真理であることを心にとどめて下さい。このみ言葉を調べてみましょう。そうすればこのことがわかります。ローマ 5:21 を読んで下さい。それから 6 章をひとわたりみて下さい。この個所はこの話を扱っているのです。ローマ 5 章の終わりの 2 節にはこのように書いてあります。「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・26 章 クリスチャンの完全キリストにより、永遠のいのちを得させるためである」。
そこでここにある比較、いやむしろ対照といった方がよいでしょう。つまり、「ように」とか「もまた」という言葉を使って表現されている罪と恵みの比較対照についてみてみましょう。「罪が支配するに至ったように」。みなさんは、罪がどのように支配するものかわかっています。ここにいるだれもが、罪はどのように支配してきたかを知っています。ある人は今でも、それがどのように支配するのかを知っているでしょう。罪が支配したとき、その支配は大変なものでした。ですから、正しいことをするよりも、間違ったことをする方が容易でした。わたしたちは正しいことをしたいと願いましたが、「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」のでした ( ローマ 7:19)。それが罪の支配です。ですから、罪が支配した時は、正しいことをするより間違ったことをする方が容易でした。
「恵みもまた義によって支配し」。恵みが支配するとき、間違ったことをするより正しいことをする方が容易です。そのように対照的です。気をつけてください。罪が支配したように、恵みもまた支配するのです。罪が支配したときは、恵みに反対する支配をしました。神がお与えになった恵みの力を全部はねかえしてしまいました。それでそのことが文字通り事実であるように、恵みの支配の下では、間違ったことをするより正しいことをする方が容易です。罪の支配のもとでは、正しいことをするより間違ったことをするのが容易であるというのが事実だからです。
ですから道ははっきりしています。そうではありませんか?その道を行きましょう。それは「罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるベきであろうか」。
〔声:「断じてそうではありません。」〕
みなさんは「断じてそうではない」と言います。それが正しいのです。恵みが増し加わるために罪を犯すということに対して、神は禁令を出され、みなさんはそれを是認しています。では、神は、罪を全く犯さないようにと命じていますか?みなさんそれを是認しますか?恵みの支配のもとでは、あなたがたは全く罪を犯すべきではないと、神が言われたということを是認しますか?
〔声:「はい。」〕
それでは、神は、わたしたちが罪を犯さないように守ろうとしておられるのではないでしょうか?また神にはそのつもりがあることを知って、それを確信し、受けいれることがわたしたちはできます。もしそれを受けいれなければ、決してそれはなされません。
ですからローマ 6 章の 1 節は、神には、わたしたちが罪を犯すことのないように守るつもりがあることを示しているのではありませんか? 2 節では何と言っていますか?「断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか」。さあ、どうしてですか?では、この句は何を言おうとしているのでしょう?罪を続けることが全くないということです。死んでいる者は葬られます。バプテスマによってキリストと共に死んで葬られ、新しい命に歩むためによみがえりました。「わたしたちは、このことを知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである」。わたしたちの前に置かれた道筋があります。それは十字架の道です。
さて、そこで三つの事柄に気をつけて下さい。「わたしたちはこのことを知っている、わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた」。何のために?「それは、この罪のからだが滅びる…ためである」。そして、それは何のために?「わたしたちがもはや罪の奴隷となることがないためである」。罪のからだが滅びなければ、わたしたちは罪に仕えます。古き人が十字架につけられないうちは、罪のからだは滅びません。では、罪を犯さないようになる道は、十字架につけられ、滅びる道です。
それでひとりびとりに向けられているただひとつの問いは、わたしは罪を犯すことよりも、十字架にかけられて滅びることの方を望むのか、です。もしあなたがたにとって今この瞬間に、罪を犯すよりは十字架につけられて滅びることの方がいいということが永久不変に定まれば、決して罪を犯すことはありません。「キリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや罪の奴隷となることがないためである」。ですから、罪に仕えることからの解放は、十字架につけられ、ただ滅びることによるのです。あなたは罪を選びますか?それとも、十字架につけられることを選びますか?あなたは滅んで、罪からのがれることを選びますか?それが質問です。どちらでもいいというものではありません。滅びを逃れるために、滅びを避ける人は、滅びます。滅びを免れようとする人は、滅びを選ぶのです。
ところで、キリストの十字架による滅びの道は、救いの道です。イエス・キリストは十字架の滅びへと進んでいきました。わたしたちに救いをもたらすためです。わたしたちに救いをもたらすためには、十字架で神のみ子が滅びるという価が必要でした。わたしたちは、救いのために滅びようとするでしょうか?あなたはそうするでしょうか?生涯のすべての瞬間に、救いのために滅びること、そこに焦点を合わせて、永久不変の命令として、しっかりと保持する者はだれでも、救いに欠けることは決してありません。
ところが、そこが問題の生じるところです。古き人にとって滅びることは喜ばしいことではありません。たやすいことではないのです。生れながら古き人の選択として、滅びることはたやすいことではありません。しかし、それをする人にとっては容易なことです。それがなされると容易になり、それがなされるといつまでもそれを続けることが容易になります。
このことをすべき時はいつでしょうか?今。ただ一つの道は滅びの道です。今が滅びを選ぶときです。今があなた自身を永遠の滅びに解き放つべき時です。しかし、わたしが身をひいて後ずさりするなら、何から後ずさりしていることになるのですか?救いからです。「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それはこの罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである」。
では、もし滅びと見える圧力の下に自分を押し込むような経験に出会うなら、それは全くよいことなのです。その滅びは、罪に仕えることのないようにとわたしが選んだことだからです。そのような明け渡しが、生活にクリスチャンの喜びをもたらします。喜び、とこしえの平和、罪を犯すことのないように守られている満足は、わたしたちにやってくるあらゆる・完全な滅びに価するものです。その価値があります。ですから、それはむずかしい取引ではありません。それは今までに人のところにやってきたものの中でも、もっともすばらしいことなのです。
十字架につけられること、滅びること、その後罪に仕えないこと、そこにクリスチャンの完全の道があります。なぜですか?「それは、すべて死んだ者は、罪から解放されているからである」( ローマ 6:7)。主に感謝しましょう。死んだ者は罪から解放されています。ですから、わたしの生活において、またあなたがたの生活において、生じ得る質問は、ただ一つです。それは、わたしは死んでいるだろうかということです。もし死んでいなければどうにかする必要があります。罪からの自由こそが死んだ結果であり、それにはどんな代価をも払う価値があるからです。
次の聖句も読んでみましょう。「もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」(ローマ 6:8)。このローマ6章の1節では、わたしたちは罪にとどまるべきではないと言っています。2節では、わたしたちは罪から自由になるのだと言っています。第 6 節は、わたしたちはもはや罪に仕えないと言っています。7 節は、死んでいる者は罪から自由になっていると言っています。8 節は、もしわたしたちがキリストと共に死ぬなら、彼と共に生きると言っています。その人は、どこに生きるのでしょうか?義にですか、罪にですか?
次の聖句も読んでみましょう。「もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」(ローマ 6:8)。このローマ6章の1節では、わたしたちは罪にとどまるべきではないと言っています。2節では、わたしたちは罪から自由になるのだと言っています。第 6 節は、わたしたちはもはや罪に仕えないと言っています。7 節は、死んでいる者は罪から自由になっていると言っています。8 節は、もしわたしたちがキリストと共に死ぬなら、彼と共に生きると言っています。その人は、どこに生きるのでしょうか?義にですか、罪にですか?
〔声:「義に」〕
結構です。では、ローマ書の 6 章 1、2、6、7、8 節は、わたしたちは罪を犯さないように守られると言っているのです。
9 節はどうでしょうか?「キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼と共に支配しないことを、知っているからである」。死がイエスを支配したのはどのようにしてでしたか?「罪を知らないかたを罪とされた」のですから、彼自身のものではない罪、わたしたちの罪のためにです。ですから、死はもはや彼を支配しません。彼は罪とそのすべての結果に永遠に勝利しています。では、この聖句はわたしたちに何を告げているのでしょうか?わたしたちは彼と共によみがえる、「なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである」。では、9 節 10 節も共に、わたしたちは罪を犯すことから守られると言おうとしているのです。
11 節、「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず」。こうしてこの句も、わたしたちは罪を犯さないと言おうとしているのです。
11 節、「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず」。こうしてこの句も、わたしたちは罪を犯さないと言おうとしているのです。
「また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである」。恵みの支配は魂を罪から引き上げて、保ち、罪の力に反する支配をし、罪を犯すことからその魂を解放します。
「それではどうなるのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない」。このようにして、ローマ 6 章の第 1 節から14 節まで、繰り返し繰り返し、罪を犯すことからの自由が宣べられています。これはすばらしいことです。しかし、まだ先があるのです。「完成を目ざして進もうではないか」。
お聞き下さい。「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって、服従するのなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義に至る従順の僕ともなるのである」。罪の力から解放されたあなたがたは、自分自身をだれに従わせるのですか?神に従わせるのです。では、あなたがたは神の僕です。義の僕となるために自由にされたのです。神は、わたしたちを、罪を犯すことから守るのに何もすることのない生活にはならないようにしようとされます。彼は活動的な知性ある奉仕となるようにと考えておられます。義だけがそういう結果に至らせます。罪から自由にされ、罪を犯さないように守られるというのは、たいへんすばらしいことです。わたしたちは義の僕とされて、義に仕えるということは、なおさらたいへんすばらしいことです。
ですから、すべての魂は、「神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教えの基準に心から服従して、罪から解放され、義の僕となった」との声を反響させましょう。そのことを神に感謝しましょう。神は、あなたがたは義の僕であると言われます。神がそうであると言われるなら、そうなのです。そのことを神に感謝しましょう。あなたがたは罪から解放されていることを感謝しましょう。また、あなたがたが義の僕であることを主に感謝しましょう。神は、あなたがたをそのようにされました。神がそう言われるからです。
しかし、まだこれで全部ではありません。「わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不信の僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて清くならねばならない。あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった」。ここで主は、あなたがたの経験に訴えておられます。「あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった」。あなたがたはそうであることを知っています。ではその全容をとりあげてみましょう。「その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、清きに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである」。
わたしたちは、義とは縁のない罪の僕ではなく、罪から自由な義の僕です。わたしはこのことをじっくり考えていた時に、主はわたしの魂を、そのことで完全に養ってくださいました。わたしは時々、ミルトンが天使の歌のことを語っている表現を思い出します。「のびやかな、見事に均整の取れた、耳に快い調ベ」。このローマ 6 章は、のびやかな見事に均整のとれた耳に快い調べの一つです。
それは罪からの解放で始まります。それはすばらしいことです。その次に罪を犯すことからの解放、それはすばらしいことです。その上に義の僕、これはすばらしいことです。その上に、清きにいたる、それはすばらしいことです。そしてさらについには、永遠のいのちです。それはすばらしいことです。主の歌う、すばらしく均整のとれた耳に快い調べではありませんか。おお、それを受けなさい。それをじっくりと考えなさい。その美しい調べを捕えなさい。そして、夜となく昼となく、魂の中にいつまでもとどまらせなさい。それは魂によいことをします。
そして、そこにクリスチャンの完全があります。それは十字架の道です。罪のからだの滅びに至り、罪を犯すことからの自由に至り、義の僕として仕えることに至り、清さに至り、聖霊によりイエス・キリストの完全に至り、永遠のいのちに至る道です。
「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである」という、賜物は聖徒を完全にするためにあるという声明をもう一度みてみましょう。型があります。キリストが罪深い肉―あなたがたの肉、わたしの肉―にあって、罪を負い、この罪の世を行かれた道、完全でありまた完全に向かって彼が行かれた道が、わたしたちの前に置かれています。
キリストは、聖霊によって生れました。言い替えれば、イエス・キリストは新しく生れました。彼、神のひとり子は天から地に新しく生れました。しかし、キリストの働きにおけるいっさいのことは、わたしたちのために逆方向に向いています。罪のないイエスが罪とされました、わたしたちが彼にあって神の義とされるために。命の君、また命の創始者で、生けるものであるイエスが、わたしたちが生きるために死なれました。生存する力が永遠の日から有るかた、神の子が、わたしたちが新しく生れることができるようにと、新しくお生れになりました。
もしイエス・キリストが新しく生れなかったら、わたしたちは新しく生れることができたでしょうか?いいえ。ところが、キリストは、義の世界から罪の世に向かって新しく生れました。それはわたしたちが罪の世から義の世界へ向かって新しく生れるためでした。彼は新しく生れて、人の性質を持つ者とされました。それは、わたしたちが新しく生れて、神の性質を持つ者とされるためでした。彼は、地に、罪に、人へと、新しく生れました。それはわたしたちが、天に、義に、神へと新しく生れるためでした。
それからイエスは、聖霊によって新しく生れました。マリヤに向かってそう語られ、書かれているからです。「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子ととなえられるでしょう」( ルカ 1:35)。
イエスは、聖霊により生れ、新しく生れ、世にあって、命と品性の完成に向けて「知恵と徳に」成長し、神に、「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざを成し遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました」と言うことができるまでになりました。神の計画とその思いは、彼にあって完全に達しました。
わたしたちと同じように、新しく生れ、聖霊によって生れ、肉と血を持つ者として生れたイエス、わたしたちの救いのかしらは、「苦難をとおして全うされ」ました。「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救いの源」となりました ( ヘブル 2:10、5:8、9)。イエスはこうして人の肉にあって苦難をとおして完全に向かいました。わたしたちが人の肉にあって完全に到達しなければならないのは、苦難の世にあってだからです。
そして、成長しておられる間、イエスはいつも完全でした。そのことがおわかりですか?クリスチャンの完全についての考え全体を誤解している人たちが大勢います。彼らは終極のものだけが唯一のはかりであると考えています。それは神のご計画にあります。しかし、始めは、終極のものまで到達していません。エペソ人への手紙 4 章をもう一度みて下さい。これがわたしたちに差し出されているはかりです。どうやってわたしたちはこの完全、「キリストの満ちみちた徳の高さにまで」到達することができるのでしょうか?今のは 13 節です。では 14 ~ 16 節と一緒に読みましょう。「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついにキリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起こる様々な教えの風に吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである」。
これは、成長を通して、わたしたちの中に成就するのです。しかし、生命のないところには成長はありえません。これは、神を知る知識にある成長であり、神の知恵にあっての成長、神の品性にあっての成長、神のうちでの成長です。ですから、それは神の命によってのみなされることができるのです。しかしその命は、新生の時に、人の中に植えつけられました。そのひとは新しく生れています。聖霊から生れました。そして神の命がそこに植えつけられました。彼は「キリストに達するように成長」していきます。どれほどにですか?「あらゆる点において」。
みなさんは覚えているでしょう。「天国は良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである」、そして「種は神の言葉である」ということを。種は植えつけられました。その人は種が夜昼成長していることを認識します。今、どのようにして成長しているかはわかりません。しかしその種は何ですか?それは完全です。神がそれを作られたからです。それは完全に芽を出します。その芽は何ですか?
〔会衆:「やはり、完全です」〕
そうですか?
〔声:「はい」〕
しかしそれは穀物の穂ではありません。それは成長しきって
力強く立っている茎ではありません。地から出たばかりの芽にすぎません。しかしそれは何ですか?完全ではありませんか?
〔会衆:「完全です」〕
その道筋が完了した成熟の時点で完全であるように、その過程の進行に従い、この時点で完全です。おわかりですか?もう誤解しないようにしましょう、間違った概念は捨て去りましょう!
その芽が地から姿を現わしたとき、あなたは立ち止まってじっと見つめます。それは賛嘆すべきものです、魅力があります、それは完全だからです。今までに地に現れたものと同じく
、完全な葉です。しかしそれは、ただひょろりとしたものでしかありません、地からかろうじて姿を出しているだけです。それが、そこにあるすべてです。しかしそれは完全です。それは完全なのです。神が作られたからです。神は何でも完全になさる唯一のおかたです。おわかりですか?ですから、わたしたちは神の言葉という良い種から新しく生れました。神の言葉と聖霊によって生れました。完全な種から生れました。その種が芽を出し、成長し、人々の間に現れ始めると、人々はキリストの品性をそこに見るのです。キリストは何ですか?完全。ではそこにいるクリスチャンは何ですか?
〔会衆:「完全」〕
もしわたしたちが、イエス・キリストの力によって新しく生れ、神ご自身がそのわざを指揮されるなら、そこに現れてくるのは何でしようか?完全です。そしてそれがその時点でのクリスチャンの完全です。イエス・キリストはその時点で、あなたがたをみまえに聖なる、傷のない、責められるところのないものとしてくださるのです。
その芽が成長し、地から立ち上り、もう一枚の葉を出します。そこには二枚の葉があります。一枚一枚が全く同じ良い姿かたちです。三つ目が現れます。今では茎もあります。そしてなお成長していきます。もう最初に見えたときとは全然違った様子に見えます。全く別の絵のようです。しかし、前以上に完全だというのではありません。終極の完全に近づいています。神が達成される目標に近づいています。しかし、終極の完全に近づいているにもかかわらず、そうなったときが現在あるより完全というのではありません。地から姿をのぞかせた瞬間より完全というのではありません。
時が来ると、完全な高さにまで成長します。穂がすっかり形成されました。花がそこに咲きます。それでさらに美しくなっています。そしてついに、穀物の穂の実りが現れます。完全。麦の粒は、ひとつひとつが完全です。そのわざ、神のわざは、そこに完了します。それは完成されました。神が始められた時の、神の思い通りの完全に到達しました。
時が来ると、完全な高さにまで成長します。穂がすっかり形成されました。花がそこに咲きます。それでさらに美しくなっています。そしてついに、穀物の穂の実りが現れます。完全。麦の粒は、ひとつひとつが完全です。そのわざ、神のわざは、そこに完了します。それは完成されました。神が始められた時の、神の思い通りの完全に到達しました。
それがクリスチャンの完全です。それは成長を通して成ります。しかし、その成長は神の生命によってのみありうるのです。そして、源である神の生命により、神の秩序に従ってのみ成長することができるのです。神だけがその成長をうまくさせることができます。神だけが、完全にその型を知っておられます。キリストはその型です。神はその型を完全に知っておられます。そして神は、その型にしたがって、完全にわたしたちを成長していかせることができます。なぜなら、もともとの型であるイエス・キリストの成長にあったのと同じ力が、この成長のうちにあるからです。
そしてイエスが、誕生のときに、人間の肉にある小さな子供として始め、成長し、神がするようにとお授けになった業を完了されたように、わたしたちも新しく生れ、あらゆる点において彼にあって成長していき、彼が言ったようにわたしたちが言う時がきます。義にあって、「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざを成し遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました」と言うのです。次のように書かれてあるからです。「第七の御使が吹きならすラッパの音がする時には、神がその僕、預言者たちにお告げになったとおり、神の奥義は成就される」( 黙10:7)。わたしたちはその時代にいます。わたしたちには世に与えるために与えられている奥義があります。それは世のために完了されなければなりません。そして、それは、それを持っている者たちのうちに完了されなければなりません。
しかし神の奥義とは何でしょうか?「あなたがたのうちにいますキリスト、栄光の望み」、「肉において現れた神」。ですから、今の時代にその奥義が 14 万 4 千の人々のうちに完了されなければなりません。人の肉にあっての神のわざ、わたしたちのうちで人の肉にあって現わされる神が、成就されなければなりません。わたしたちの上になされる神のわざは完了されなければなりません。わたしたちはイエス・キリストにあって完全とされなければなりません。聖霊によりわたしたちは全き人となり、キリストの満ちみちた徳の高さにまでならなければなりません。
それは持つに価しないでしょうか?主の道は、完全に向けての良き道ではありませんか?おお、では「わたしたちは、キリストの教えの初歩をあとにして、完成をめざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔い改めと神への信仰、洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか」。神は、わたしたちが罪の中にいた時に持っていた不安定な土台から自由にして下さいました。土台は、聖に向けての義の奉仕、完成、永遠の命だけとしましょう。
そしてさばきに面と向かい、そのさばきに自分から出て行き、十字架につけ滅びるために自分自身を明け渡すすべての魂に、まもなくわたしたちに義をもたらすと約束されたその時に、そのことは神ご自身の方法によって完成されるでしょう。ですから神だけです。神の評価、神の標準、また型であるキリスト、神のわざ、いつでも、あらゆる点において、どこでも、いつまでも、神だけです。ですから、しっかりしなさい。キリストを最初とし、最後とし、いつでも、としようではありませんか。
レビュウ・アンド・ヘラルド
7 月 18、19 日号、1899 年 8 月 1 日
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