2019年11月18日月曜日

「わたしたちは苦しい試練の中で喜ぶ」

「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。」(へブル4:15)

 主をほめたたえよ。わたしたちの弱さを思いやることのできる同情深く優しい大祭司が、わたしたちにおられるのである。わたしたちはここで休みを取るつもりはない。断じてそれはない。天への道は十字架を担う道である。その道は細くて狭いけれども、わたしたちは、栄光の王がかつてわたしたちより前にこの道を通られたことを知りつつ、喜びをもって前進する。
 わたしたちは道がでこぼこしていることに不満をもらさず、イエスに柔和に従う者となって、このお方のみ足の跡を歩んでいく。イエスは悲しみの人で深い悲しみをよく知っておられた。このお方は、わたしたちがこのお方の貧しさによって富む者となることができるようにと、わたしたちのために貧しくなられた。わたしたちは苦しい試練の中で喜び、「あふれるばかりの永遠の重い栄光」という報酬を心にとめる。
 わたしたちは自分に試練があるからといって、つぶやく思いを持たない。神の愛しい子らには常に試練があり、この地上でよく耐えたあらゆる試練は、ただわたしたちを栄光のうちに富む者とするだけだからである。わたしは苦難の部分を切望する。わたしたちのためにこのように豊かな嗣業を獲得するために、これほどまでにわたしたちのために苦しまれたイエスにお会いし、真理とイエスのために自分たちの生命をささげた殉教者に会うため、もし苦難にあわずに天国にいけるとしても、わたしはそうしない。断じてそうすることはしない。苦しみを通してわたしを完全にしてください。わたしはキリストと共に、このお方の苦しみにあずかる者となりたい。なぜなら、もしそうであるなら、わたしはこのお方と共にその栄光にあずかる者になることを知っているからである。イエスはわたしたちの型である。わたしたちの生涯をできるかぎりキリストの生涯に近いものとするために研究しようではないか。
 わたしの魂は生ける神を求めて叫ぶ。わたしの存在そのものがこのお方を慕い求める。ああ、このお方の麗しいかたちを完全に反映することを。ああ、このお方にまったく捧げることを。愛しい自己が死ぬということはなんと難しいことであろうか。わたしたちは完全な救い主、わたしたちをすべての罪から救われる方にあって喜ぶことができる。わたしたちは毎日「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」「神のよしとされるところを願い、行う」と言うことのできるところにただ神とのみいることができる。神に栄光あれ。わたしはわたしの命がキリストと共に神のうちに隠されていることを知っている。
 幕が上げられ、わたしは聖徒のために取っておかれた豊かな報いを見た。わたしは来たるべき世界の喜びを味わった。そしてその喜びによって、この世はわたしにとっては魅力のないものとなった。わたしの深い愛情、関心、希望、そしてわたしのすべては天にある。わたしは麗しい王であるお方、わたしの魂が愛するお方にお目にかかりたいと切に願う。天国、かぐわしい天国。「わたしはそこにいたいと切に願う。そして天国は近いという思いは、キリストが現れるのをほとんど待ちきれない思いにする。」不死であり、永遠の命であるイエス・キリストによるすばらしい希望のゆえに主をほめたたえる。(手紙9, 1851年)

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