ガラテヤ書 6章 十字架の栄光 E. J. ワゴナー
5章の最後の部分と6章とで、この手紙全体が実際的なものであるという特徴がわかります。性急な読者はそこには区別があって、6章の一部分が実際的な霊的生活の事を扱っており、一方5章は、神学的な教理にあたられていると考えようとします。これは大きな間違いです。聖書には、理論だけという部分はなく、全部が事実です。霊的また実際的でないものは聖書のどの部分にもないばかりか、すべては教理です。教理とは教えの事です。山上での群衆に対するキリストの話は教理と呼ばれます。「イエスは口を開き、彼らに教えて言われた」からです。ある人々は教理に対しある種の軽べつを表し、それがまったく神学領域に属し、実際的でなく、日常生活に益をもたらすものではないかのように、そのことを軽んじて語ります。そのような人は、教理以外何ものでもなかったキリストの教えを無意識のうちに侮っているのです。彼はいつも人々にお教えになりました。すべて真の教理はきわめて実際的です。それは、人によって実行されるという目的以外のためには与えられていません。
お説教は教理ではない
人々の言葉の誤用のせいで、この点で間違うことになったのです。彼らが教理と呼ぶもの、非実際的だというものは、実は教理のことではなくお説教のことです。お説教は非実際的で、福音のうちになんの位置も占めてはいません。もし、彼がそうすれば、福音宣教以外の事を選ぶことがよくあるからです。キリストは決してお説教などせずに、人々に教理を与えられました。つまり、彼らを教えられたのです。彼は「神からつかわされた教師」でした。ですから、福音はみな教理です。それはキリストにある生活を教えるものです。
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