2021年3月23日火曜日
神はご自分に対するわたしたちの忠誠を試される
「イスラエルの人々の全会衆は、……レピデムに宿営したが、そこには民の飲む水がなかった。」(出エジプト17:1)
神の命令によってイスラエルの子らは、水のない場所であるレピデムに連れてこられた。雲の柱の中に包まれていたお方が彼らを導いており、彼らがこの地に野営することになったのは、このお方のはっきりとした命令によってであった。神はレピデムに水がないことを知っておられ、ご自分の民の信仰を試すために彼らをここに連れてこられたのであるが、彼らは、神が信頼することのできる民であるにはあまりにも不十分であることを証明した。
神は繰り返し繰り返し、ご自身を彼らにあらわされた。民の救出を成就するために、エジプトで全家族の初子を殺し、権威あるみ手をもって彼らを奴隷の地から連れ出された。このお方は彼らを天使の食物で養い、約束の地へ彼らを連れて行くと約束しておられた。しかし今、自分たちの前に困難が生じると彼らは反抗しはじめ、神を信頼しないで、彼らが荒野でのどの渇きによって死ぬようにと、モーセが自分たちと自分の子供たちをエジプトから連れ出したと不平を言った。……
今日多くの人が、クリスチャン生活を始める時に、自分たちはすべての失望や困難から解放されると考える。しかしキリストに従うために自分の十字架を取り上げる一人一人が自分の経験の中でレピデムに来る。人生はすべてが緑の牧場といこいのみぎわでできているわけではない。失望がわたしたちを不意に襲い、窮乏が生じ、わたしたちを困難な立場におくような状況が生じる。わたしたちが狭い道で自分たちが最善だと思う方法をとるとき、耐えがたい試練が生じることに気づく。……わたしたちは、もしも神と共に歩んでいたならこのような苦しみにあうことはなかったのに、と良心が打ちひしがれて考える。……
主は昔ご自分の民をレピデムに導かれたように、ご自分に対するわたしたちの忠誠と忠実を試すために、わたしたちをもそこに連れて行くことを選ぶことがおできになる。わたしたちに対する憐れみのうちに、主はわたしたちを常に最も楽な場所に置かれるわけではない。なぜなら、もしもそのようにすると、わたしたちは自己満足をして主が困った時の自分の助け主であることを忘れてしまうからである。しかしながら、主はわたしたちの緊急の際にご自身をわたしたちにあらわし、わたしたちの周囲の状況に左右されないでわたしたちの自由になる必要なものを豊かに示される。そして失望と試練がわたしたちに訪れることを許されるが、それは、飢え渇く時に子供が地上の父親に訴えるように、わたしたちが自分自身の無力に気づいて、主に助けを求めて訴えることを学ぶことができるためである。
わたしたちの天父は、堅い岩を生命を与える元気づける流れに変える力を持っておられる。神がわたしたちのためにどれほど多くの重荷を負い、もしもわたしたちが子供のような信仰をもってご自分のところへその重荷を持ってきていたならば、どれほど多くの重荷を負うことを喜んでくださったかは……顔と顔をあわせて神を拝するまで、わたしたちには決してわからない。(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1896年9月10日)
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