2021年9月1日水曜日

しかしイエスは、「エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ」た

 イエスの心にとっては、愛する弟子たちの心配や失望や不信にさからって、道を進まれることは苦しいことであった。エルサレムで弟子たちを待ち受けている苦悩と絶望に向かって彼らを連れて行くことはつらいことであった、そこでサタンは、近くにいて、人の子イエスに誘惑をもって迫ったなぜイエスは死 ぬにきまっているエルサレムにいま行かれるのか。イエスの周囲には生命のパンに飢えている魂がいる。どちらを向いても悩める者たちがイエスのいやしのことばを待っている。キリストの恵みの福音をもってなされる働きは始まったばかりであった。しかもイエスは壮年の盛りで力に満ちておられた。なぜその恵みのことばといやしの力のみ手をもって世界の広い野へ出て行かれないのか。なぜ暗黒のうちにある不幸な幾百万の人々に光と幸福を与える喜びをご自分のものとされないのか。なぜその収穫を、信仰が弱く、さとりがにぶく、行動の遅い泊子たちの手に残されるのか。なぜいま死に直面し、始めたばかりの働きを残されるのか。荒野でキリストに立ち向かった敵は、いま激しく巧妙な誘惑をもってイエスを攻撃した。もしイエスが一瞬でも屈服されたら、そしてもしご自分を救うためにほんの一点でも予定を変更されたら、サタンの力は勝利し、世は滅びたのである。 

しかしイエスは、「エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ」た(ルカ9:51)。イエスの生涯のただ一つの法則は、天父のみこころであった。イエスは、少年時代に宮参りをされたとき、マリヤに、「わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」と言われた(ルカ2:49)。カナで、マリヤがイエスに奇跡の力をあらわしてくださいと希望した時、イエスの答は、「わたしの時は、まだきていません」であった(ヨハネ2:4)。イエスの兄弟たちがイエスに祭りに行くようにすすめた時にも、彼は同じことばで答えられた。しかし神の大いなるご計画のうちには、イエスが人類の罪のためにご自身をささげられる時が定められていて、その時刻がまさに到来しようとしていた。イエスは、弱ったり、動揺したしようとなさらない。イエスの足はエルサレムに向けられている。そこでは敵どもが彼の生命をとろうと長い間たくらんでいた。いまこそイエスは、ご自分の生命を激ようとされるのである。イエスは、迫害、拒否、拒絶、罪の宣告、死に対して顔をしっかりと向けて進んで行かれた。 各時代の希望 第53章 ガリラヤからの最後の旅

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