「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」(ヘブル7:25)。
神は信じる罪人に、キリストの義をその人のものとして授けてくださいます。
罪以外のことを知らず、覚えていることといえば、罪の意識と罪の責め苦のみ、という人がいたとします。その人がイエス・キリストを信じるようになると、神はキリストの義をその人のものとして授けてくださいます。すると、それまでの人生で正しいことを一つもしたことのなかったその人が、義を意識するようになります。それまでの人生に全く存在しなかったものを経験し、その人はその喜びと自由を意識するようになります。
神は、キリストの義を確かに私たちのものとして授けてくださいました。そして、それと同様に、私たちの罪をキリストに負わせられました。ただの罪人にすぎない私たちが義を賜る時、私たちはそれを感じ、その喜びを味わいます。同様に、神が私たちの罪をイエスに負わせられたときも、キリストはご自分の上に置かれたその罪とその罪責をお感じになったのです。それは、信じる罪人が、自分に授けられたキリストの義と、それによってもたらされる平安と喜びを意識しているのと同じように確かなことでした。私たちの罪、罪責感、そして罪の宣告が、キリストの上に置かれたのです。
キリストは、すべての罪と罪の宣告を背負い、その代価を払い、償われました。そうして、キリストにあって、私たちはこれまでに犯したすべての罪から解放されたのです。それを喜びましょう。そして、永遠の喜びをもって神をほめたたえましょう。罪への傾向はすべて、主が永遠に足もとに置かれたのです。
キリストは完全な救い主であられます。犯した罪からの救い主であり、罪への傾向を克服されたお方なのです。[1]
「"勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない。」(ヨハネの黙示録2:11)
注
ジョーンズ、世界総会報、1895年、267、268ページ
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