2023年3月15日水曜日

ユナイテッドプレイヤ 日毎の福音 第46章 47章

 見えると思っているものは、実はそこにはない

「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(第二コリント4:17,18)。

あなたは、しばしば、視覚に欺かれることがないでしょうか。見てもいないものを見たと思い込んだり、何かを見て近づき、もっとよく見てみると、思っていたものと違っていたりすることはないでしょうか。しかし、神の言葉は決して欺くことはありません。実のところ、私たちが頼ることができるのは、目に見えないものだけなのです。天や地は見ることができますが、それらは過ぎ去るものです。

私たちは、次のように言うことができます。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも」(詩篇46:1、2)。その苦難の時はやって来ます。そして、その時、完全な平静を保ち、神への信頼に満ちた人もいることでしょう。しかしそれは、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」ということをそれまでに学んできた人たちなのです。今、神を疑っている人がいるとすれば、その人は、苦難の時にも神を疑うことでしょう。

聖書には「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。」とあります。確かに訴える者がいます。その名はサタンです。そして、サタンについては、聖書にこのように証しされています。「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、投げ落とされたからである。」(黙示録12:10)

しかし、「私はそれらのことをすべて信じ、自分の罪を告白したというのに、これらの罪がいつも私の前に思い出されるのです」と、哀れな、落胆した人は言うでしょう。サタンはなぜこれらの罪をあなたの前に持ち出すのでしょうか。なぜなら、サタンは偽りの告発者だからです。しかし、もしもそれらの罪をあなたの前に持ち出すのがサタンであると確信できるなら、あなたはこの世で最も幸福な人の一人であるはずなのです。[1]

ワゴナー、世界総会報、1891年、第9号

サタンは責め、主の御使いは義と認めてくださる

「主は、主の御使いの前に立つ大祭司ヨシュアと、その右に立って彼を訴えようとしているサタンをわたしに示された。 主の御使いはサタンに言った。「サタンよ、主はお前を責められる。エルサレムを選ばれた主はお前を責められる。ここにあるのは火の中から取り出された燃えさしではないか。」(ゼカリヤ3:1,2)

サタンは真実を語ろうとしても語ることができません。そして、あなたの罪をあなたの前に持ち出すのは、すでにその罪が赦されているからに他なりません。サタンは、赦されていない罪をあなたの前に持ち出すことはありません。なぜなら、あなたがその罪を告白し、赦されることを恐れているからです。

さて、もう一つの問いかけです。ある人は言います。「どうだろう、それはサタンではないのではないだろうか。きっと神に違いない」 いいえ、そうではありません。神は、義としてくださる方なのです。そして、もし義としてくださるのであれば、罪に定めることはおできになりません。神は、私たちの罪を示され、私たちはそれを告白して神に自分を委ねます。そうすれば神は私たちを義としてくださるのです。

それでは、神が義とされるのであれば、罪に定めるのは誰でしょうか。それはサタンです。もし私たちが神の真理をもっと信じ、サタンの嘘をもっと信じなくなれば、私たちにとってその方が良いでしょう。そこには、落胆する隙など残されていません。罪について目を開いてくださるのは慰め主です。ですから、慰め主は、私たちの過ちを思い起こさせるという行為そのものの中で慰めてくださるのです。私はその慰めに感謝します。そして、サタンが再び私の罪を持ち出してきたら、私はまた神をほめたたえます。

「天国の門の中に入れさえすれば、私は満足だ」と言う人がよくいます。ですが私は、まるで入った後に自分の存在を謝るかのように、ただ入れるだけ、というのではないことを本当に感謝します。

「こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。」(第2ペテロ1:11)[1]

ワゴナー『総会報』1891年9号


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