2023年4月27日木曜日

うみ疲れてはならない よきおとずれ 第6章 EJワゴナー

 さらに続く勧告はどれほど当然なことでしよう。「わたしたちは、善を行うことにうみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」。わたしたちは良いことをするのに、あまりにうみ疲れやすい。それは、イエスを見ていないからです。ちょっとした休憩をとりたがるのは、たゆまずに善を行うことは、あまりにも骨折りが多すぎるように思えるからです。 しかしそれは、うみ疲れることのないようにすることのできる力である主の喜びを、わたしたちがよく学んでいない時だけです。「主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(イザヤ 40:31)。


 しかし文脈が示すように、特にここで言っていることは、ただ単にわたしたちの肉において誘惑に抵抗することだけではなく、他の人を助けるということです。 ここでキリストから教訓を学ぶ必要があります。彼は 「衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する」(イ ザヤ 42:4)。 キリストがお助けになった者十人のうち九人が、全然感謝のしるしを見せなくてもなお、彼にとっては同じことです。キリストは良いことをするためにおいでになったのであって、感謝されるために来たのではありません。ですから、「朝のうちに種をまけ、夕まで手を体めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである」(伝道の書 11:6)。 わたしたちにはどれだけの刈り入れがあるのかわからないし、 まいた種のどれから収穫を得るかわかりません。ある種は道端に落ちるかもしれない、そして根を張る間もなく奪い去られてしまうかもしれない。またあるものは石地に落ち、そこで枯れてしまうかもしれない。またあるものはいばらの中に落ちて、ふさがれてしまうかもしれない。 しかし一つのことは確かです。それは、わたしたちは刈り取るであろうということです。わたしたちには朝まくものと、タベにまくものどちらが実るのか、また両方共に良いものであるのかわからない。 しかし、どちらも悪いものだということはありえません。これかあれかどちらかだけが実るかもしれない、さもなければ両方とも良いかもしれない。 これは、善を行うことにうみ疲れることがないようにわたしたちを勇気づけるのに十分ではないでしょうか。その地は肥沃ではないかもしれない、また季節は最適ではないかもしれない、だからおそらく収穫の見込は最も少ないかもしれない。それだから、働きは皆無駄であると考えるよう誘惑されるかもしれません。 しかしそうではないのです。「たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」。「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわぎに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないとあなたがたは知っているからである」(第 1コ リント15:58)。

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