2024年10月30日水曜日

だれの命令で

 彼らは自分たちのいのちを救うことに熱中していたので、舟の中にイエスがおられることを忘れていた。いま、自分たちの努力がむなしく、目の前にあるのは死だけであることを知ると、彼らはだれの命令で湖の横断に乗り出したかを思い出した。無力と絶望のはてに、彼らは、「主よ、主よ」と叫んだ。だが濃いくらやみがイエスのお姿を彼らの見えないところにかくしていた。彼らの声は嵐のうなりにのみこまれて、返答がなかった。疑惑と恐怖が彼らをおそった。イエスは自分たちを見捨てられたのだろうか。病気と悪鬼と死をさえ征服されたお方が、いま弟子たちを助けてくださる力がないのだろうか。困りきっている自分たちを気にかけてくださらないのだろうか。 

もう1度彼らは呼んでみる。だが答えるのは荒れ狂う疾風のうなり声だけである。もはや舟は沈みはじめている。もう少しで、彼らは飢えた波にのみこまれそうになる。 

突然一すじのいなづまが暗闇をつらぬいて光る。するとこのさわぎにじゃまされないで横になったまま眠っておられるイエスのお姿が彼らの目にうつる。驚きと絶望のうちに、彼らは、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と叫ぶ(マルコ4:38)。自分たちが危険の中にあって死と戦っているのに、主はよくあんなに安らかに休んでおられるものだ。 

彼らの叫び声がイエスを起こす。いなづまのひらめきがイエスのお姿を照し出すと、そのお顔には天の平安がみられる。彼らはイエスの御目から、無我のやさしい愛を読みとり、心をイエスに向けると、「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」と叫ぶ(マタイ8:25)。 

この叫びをあげてかえりみられない魂はない。弟子たちが最後の努力をかたむけるためにオールをにぎりしめると、イエスが立ちあがられる。イエスが弟子たちのまん中に立たれると、嵐は荒れ狂い、波が彼らの上にくだけ、いなづまがイエスのお顔を照す。イエスは、これまでも幾度か憐れみの行為に使われ大み手をあげて、荒れ狂う海に、「静まれ、黙れ」と言われる。 

暴風はやみ、大波は静まる。黒雲は消え去り、星が輝き出る。舟は静かな海の上に安定する。するとイエスは、弟子たちに向かって悲しげにこうおたずねになる、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」(マルコ4:40)。 


弟子たちは一言もなく静まりかえった。ペテロさえ、自分の心を満たした畏敬の思いを口に出そうとはしなかった。イエスについて行くために出かけてきた舟は、弟子たちと同じ危険に出会った。それらの舟に乗っていた人たちは恐怖と絶望にとりつかれたが、イエスの命令によって嵐の騒ぎは静まった。激しい嵐に吹きまくられて舟は一つところにかたまっていたので、舟の上の者はみなその奇跡を見た。静けさがやってくると、恐怖は忘れられた。人々は互に、「このかたはどういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」とささやきあった(マタイ8:27)。

                各時代の希望 第35章 「静まれ、黙れ」

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