2025年4月19日土曜日

自分たちの唯一の希望

 預言者ダニエルは、真の清めの実例である。彼の長い一生は、主のための気高い奉仕に満ちていた。彼は、神に「大いに愛せられる人」であった(ダニエル書10章11節)。この栄誉にあずかった預言者は、しかし自分の純潔と清さを主張しないで、自分を真に罪深いイスラエルの一人とみなし、自国民のために神の前で懇願した。 


「われわれがあなたの前に祈をささげるのは、われわれの義によるのではなく、ただあなたの大いなるあわれみによるのです」「われわれは罪を犯し、よこしまなふるまいをしました」。ダニエルは「こう言って祈り、かつわが罪とわが民の罪をざんげ」したのである。そして、後に、神のみ子があらわれて、彼に教えをさずけられた時、「わが顔の輝きは恐ろしく変って、全く力がなくなった」とダニエルは言っている(ダニエル書9章18、15、20節、10章8節)。 


ヨブは、つむじ風の中から主の声を聞いた時に、「それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」と叫んだ(ヨブ記42章6節)。イザヤは、主の栄光を見、ケルビムが「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主」と呼ばわるのを聞いて、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」と叫んだ(イザヤ書6章3、5節)。パウロは、第三の天にまで引き上げられ、人間には語ることのできない言葉を聞いた後、自分のことを、「聖徒たちのうちで最も小さい者である」と言っている(コリント第二・12章2~4節参照。エペソ3章8節)。また、かつてはイエスの胸によりかかった愛弟子ヨハネは、主の栄光に接した時、その足もとに倒れて死人のようになった(黙示録1章17節参照)。 


カルバリーの十字架の影を歩く者には、自分を高めたり、自分はもはや罪を犯さないなどと誇ったりすることはあり得ない。彼らは、自分たちの罪が、神のみ子の心臓を破裂させるほどの苦悩を引き起こしたことを感じる。そしてこの思いが、彼らをへりくだらせる。イエスに最も近く生活する者が、人間の弱さと罪深さを最もはっきりと認める。そして自分たちの唯一の希望を、十字架につけられ復活された救い主の功績に置くのである。

                         各時代の大争闘 清めの実例

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