来る日も来る日も、イエスは、最後の「祭の終りの大事な日」まで、人々に教えられた(ヨハネ7:37)。この日の朝になると、人々は長い期間の祭りに疲れをおぼえた。その時突然、イエスは、宮の庭にひびき渡るような調子で、声を張りあげて言われた。
「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」(ヨハネ7:37、38)。人々の状態がこの訴えを力強いものとした。彼らは次々とくりひろげられる盛んな儀式とお祭りの場面に参加し、その目は光と色彩にくらみ、その耳ははなやかな音楽をたのしんだが、この儀式の中には始めから終りまで、精神的な欲求に応ずるものや、不滅なものに対する魂のかわきを満たしてくれるものは何一つなかった。イエスは、いのちの水の泉にきて飲むようにと彼らを招かれた。それは彼らのうちにあって水の井戸となり、わきあがって永遠のいのちにいたるのであった。
その朝、祭司は、荒野で岩を打ったことを記念する行事をとりおこなった。その岩は、ご自分の死によって、かわいているすべての者に向かって救いの生ける水を流れさせてくださるキリストの象徴であった。キリストのみことばは生命の水であった。集まった群衆の目の前で、キリストは、生命の水が世に流れ出るように打たれるためにご自分を聖別された。サタンは、キリストを打つことによって、いのちの君を滅ぼそうと思ったが、打たれた岩からは生ける水が流れ出た。イエスがこのように人々に語られた時、彼らの心はふしぎなおそれにうちふるえ、多くの者は、サマリヤの女のように、いまにも「わたしがかわくことがな……いように、その水をわたしに下さい」と叫びそうになった(ヨハネ4:15)。
各時代の希望 第49章 仮庵 かりいお の祭り
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