70人がキリストのみことばに聞き入っていた時、聖霊は彼らの心に生きた事実を印象づけ、魂の石碑に真理を書きつけていた。群衆が彼らをとりまいていたが、彼らはあたかも神と共にとじこめられているかのようであった。
イエスは、彼らがその時霊感を受けたことをお知りになって、「聖霊によって喜びあふれて言われた、『天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません』」(ルカ10:21、22)。
世の中であがめられている人々、彼らが自慢にしている知恵を持っているいわゆる偉大な賢人たちは、キリストの品性を理解することができなかった。彼らは、外観と、1人の人間としてのイエスにのぞんだ屈辱を通して、イエスを判断した。しかし漁師や取税人たちには、目に見えないお方を見ることがゆるされた。弟子たちでさえ、イエスが彼らにあらわそうと望まれたことを全部は理解しなかった。しかしだんだん聖霊の力に屈服した時に、彼らの心は光に照らされた。彼らは大いなる神が、人性という衣をまとって、自分たちの中におられることを認めた。イエスは、賢くて抜け目のない人々がこの知識を持たないで、それがこれらのいやしい人々にあら矛、されたことをよろこばれた。しばしばイエスが旧約聖書を引用して、それをご自身と、ご自分がなさるあがないの働きに適用された時、彼らはみたまによってめざめさせられ、天の雰囲気にひきあげられた。預言者たちによって語られた霊的真理を、彼らは、はじめにそれ書いた人たちよりもはっきり理解した。
これからは、彼らは、旧約聖書を、律法学者やパリサイ人の教理としてではなく、またすでに死んでいる賢人の語ったことばとしてではなく、神からの新しい啓示として読むのであった。「この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいる」お方を、彼らは見た(ヨハネ14:17)。
各時代の希望 第53章 ガリラヤからの最後の旅
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