2026年6月27日土曜日

われわれが失われている限り、イエスは天を望ましい場所とお考えにならなかった。 各時代の希望

 弟子たちは、悲しみと驚きとで、ことばもなく聞いた。キリストは、ペテロがイエスを神のみ子として認めたことを承認された。だから、いまイエスのみことばがご自分の苦難と死を示していることは、不可解に思えた。ペテロはだまっていることができなかった。彼は、さし迫った運命からイエスを引き戻そうとするかのように、イエスをつかまえて、「主よ、とんでもないことで魂そんなことがあるはずはございません」と叫んだ(マタイ16:22)。 


ペテロは主を愛していた。だがイエスは、ペテロがこのように主を苦難から守りたいという希望を表明したことを称賛されなかった。ペテロのことばは、大きな試練に直面しておられるイエスにとって助けと慰めになるものではなかった。彼のことばは、失われた世に対する神の恵みの目的に一致するものでもなければ、イエスがご自分の模範を通して教えるためにこられた自己犠牲の教訓に一致するものでもなかった。ペテロは、キリストの働きの中に十字架を見ることを望まなかった。ペテロのことばから受ける印象は、キリストがご自分に従う者たちに与えようと望んでおられる印象と正反対のものであった。 


そこで救い主は、これまでその口から聞かれたことのないほど激しい譴責のことばを語る気になられた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:23)。 


サタンは、イエスを落胆させて、その使命から引き離そうとしていたが、ペテロは、盲目的な愛情から、その試みを口に出していた。悪の君サタンがその考え方の張本人であった。衝動的な訴えの背後にはサタンのそそのかしがあった。荒野で、サタンは、キリストが屈辱と犠牲の道を捨てるならという条件で、この世の主権をキリストに提供した。いまサタンは、キリストの弟子に同じ試みを仕向けていた。イエスは、ペテロの目を十字架に向けさせようと望まれたが、サタンは、ペテロが十字架を見ないように、その目を地上の栄誉にそそがせようとした。こうしてサタンは、ペテロを通して、もう1度イエスに試みをおしつけようとしていた。しかし救い主は見向きもされなかった。イエスの思いはご自分の弟子の上にあった。サタンは、この弟子の心が、彼のために受けられるキリストの屈辱のまぼろしに感動させられないように、ペテロと主の間に入りこんでいた。キリストのみことばは、ペテロに向かってではなく、ペテロをあがない主から引き離そうとしていた者に向かって語られたのであつた。「サタンよ、引きさがれ」(マタイ16:23)。わたしと、まちがっているわたしのしもべとの間にもうこれ 以上入ってはいけない。わたしは、わたしの愛の奥義を彼に示すために、ペテロと直接に向かいあいたいのだ。 


地上におけるキリストの道が苦悩と屈辱のうちにあるということは、ペテロにとってはつらい教訓であって、彼はそれを学ぶのに時間がかかった。この弟子は苦難の主とまじわることをちゅうちょした。しかし彼は、熱した炉の火の中にあって、その祝福を学ぶのであった。ずっとのちになって、長年の重荷と働きで彼の元気な体がまがった時、彼はこう書いた。「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試練を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである」(Ⅰペテロ4:12、13)。 


イエスは、いま弟子たちに、ご自分の犠牲の生活が彼らの生活のあるべき姿の模範であることを説明された。イエスは、立ち去らないで近くにいた人々を、弟子たちといっしょにそばにお呼びになって、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と言われた(マタイ16:24)。十字架はローマの権力と関連していた。それは最も残酷で屈辱的な形の死の道具であった。最も下等な犯罪人は処刑場まで十字架をかついで行かねばならなかった。十字架を彼らの肩にのせようとすると、彼らはしばしば必死の力で抵抗するが、ついには負けてしまって、この責め道具が彼らにくくりつけられるのであった。しかしイエスは、従う者たちに、十字架を取りあげてわたしのあとからそれをかついでくるようにとお命じになった。弟子たちにはイエスのそのみことばがぼんやりしかわからなかったが、それは最もひどい屈辱に身をまかせること、すなわちキリストのために死にいたるまで従うことを彼らにさし示した。救い主のみことばは、一これ以上完全な自己の屈服を表現することはできなかった。しかしイエスは、彼らのためにこのことをすべて受け入れておられた。われわれが失われている限り、イエスは天を望ましい場所とお考えにならなかった。主は非難と侮辱の生涯を送り、死の恥を受けるために天の宮廷からくだられた。天のはかりつくすことのできない宝に富んでおられたお方が、ご自分の貧しさによってわれわれが富める者となるために、貧しくなられた。われわれは、彼が歩まれた道に従うのである。

各時代の希望 第45章 十字架の前兆

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