「積極的な戦いにより、対立、危機、損失、人類の苦しみのさ中にあって、救霊事業は推進されるのである。ある戦いにおいて、攻撃する連隊の一つが敵軍に打ち負かされようとした時、前線の旗手はその軍隊が退却するのに自分の位置に踏みとどまっていた。隊長が軍旗を持ち帰るように叫んだにもかかわらず、旗手は「兵士を軍旗のもとに来させよ」と彼に叫んだのである。兵士を軍旗のもとに行かせること、これこそ忠実な旗手一人ひとりにゆだねられた仕事である。主は心からの献身を求めておられる。信仰を証しした多くのクリスチャンは、自分自身と彼らにつながる人々を御旗のものに行かせる勇気と力に欠けているという罪を犯していることを我々みんなは知っている。」
「かつてウェリントン公爵は、クリスチャンたちが異教徒たちの中で伝道集会を開く場合、成功の可能性があるかを論議していた会に出席した。彼らは公爵に、そのような伝道集会が出費に比較して成功しそうかどうか公爵の意見を聞かせて欲しいと言った。その老将軍はこう答えた。『皆さん、あなたがたの行進命令は何ですか。成功は、あなたがたの論議する問題ではありません。あなたがたの命令を正しく読むと、全世界に出て行って、すべての造られたものに、福音を宣べ伝えよ、と書かれてあります。皆さん、あなたがたの行進命令に従いなさい』と。」
「あなたは自分の殻に閉じこもり、自分が真理の知識を受けて祝福されているからといって、それで満足していてはならない。だれが真理をあなたに伝えたか。だれが神様の御言葉の光をあなたに示したか。神様は光をますの下に置くためにお与えになったのではない。わたくしは、ジョン・フランクリン卿を探しに派遣された派遣隊について読んだことがある。勇者たちは家を去り、不自由と飢えと寒さと疲労に苦しみつつ、北海のあたりをさ迷った。一体それは何のためにであったか。それはただ、この派遣隊の死体を発見することになるか、できればおりよく救援隊が彼らに到着しないかぎり必然的に彼らに襲いかかる恐ろしい死からその隊の幾人かを救い出すということになるに過ぎなかった。彼らは一人の人間さえ救うことができれば、彼らの苦しみは立派に償われると考えたのである。これは彼らのすべての慰みと幸福を犠牲にして行われた。
これを考えてみよ。そして、我々の周囲にいる尊い魂の救いのために我々が自発的犠牲をいかに僅かしか払っていないかを考えよ。我々は、一人の死にかかった人間を救うために家を離れて、長い、退屈な旅に出ることをしいられているのではない。我々のいる屋根の下に、周囲に、四方八方に救われるはずの魂が、滅び行く魂―希望がなく、神様を知ることなく死んで行く男女がいる。それでもなお、我々は、たとえ言葉では「わたしが弟の番人でしょうか」と言わないにしても、行動でこう言っており、無関心である。他人を救おうとして命をおとした人々は、英雄とか殉教者として世人に称賛される。未来に永遠の命を期待できる我々は、人々の魂の救いのために神様から求められている小さな犠牲を払わずにいれば、どう感じなければならないか。」
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