「どうして信仰によって義とされるという教理が、神様の律法を軽視させると考える必要があるのでしょうか。義とせられるとは心に律法が確立される事です。・・・キリストは御自分の義を与え、罪を取り除き、ご自分の義をそこに据えられます。これはその人を全く変えてしまうのです」
「神様は信じる者の上に義を宣言されます。宣言するというのは言葉を出す事です。・・・そして『あなたは義人だ』と言われた瞬間、それを信じる罪人は罪人でなくなり、神様の義となるのです。義を宣言する神様の言葉自体が義であり、罪人が信仰によってその御言葉を自分の心に受け入れるや否や、その瞬間から彼は心の内に神様の義を持ち、心の状態は生活に現れますがから、新しい神様の律法に従う人生が始まるのです」
『律法を聞く者が神様の前に義なる者ではなく、律法を行う者が義とされる。』義人とは律法を行う人です。ですから人を義とし、義人に造り変えるというのは、人を律法を行う者にする、という意味なのです。信仰によって義とされるというのは、信仰によって律法を守れる者に造り変えられる事です。神様は不信心な者を義とされます。・・・それは人間の落ち度を隠して実際には大変な罪人である人を義人の仲間に加えてしまうと、いうのではなく、その人を律法を守る者に造り変えるというのです。不信心な者を神様が義人だと宣言される時、その瞬間からその人は律法を守れるのです。
・・・義を保ち続け、律法を守り続けるには信仰と神様への屈服を続けなければなりません。こうして次の聖句の意味がはっきりします。『すると信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえってそれによって律法を確立するのである。』(ローマ3-31)つまり、律法を破る事によって律法が無効になったかのように生活するのではなく、信仰によって我々の心の内に律法を確立するのです。信仰はキリストを心の内に住まわせますが、キリスト御自身・・・には律法が宿っているので、こうして律法が心に確立されるわけです。『ひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのである。』このひとりの従順とは主イエス・キリストを指し、彼の服従が信じる全ての者の心にもあらわされるのです」
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