「"義とする”とは義に造り変える、或いは義であると事を見せるという意味です。・・・罪深い人間の行いは彼を義人に造り変える何の力もないばかりが、かえって悪しき心から出た行為であるため、彼の罪深さを増すだけです。罪を重ねる事によって人は義とせられませんので、罪深い人間が自分の努力によって義とされようとするのは意味がないのです。彼自身がしようと望んでいる、そして彼に要求されている善をなす為には、まず彼自身が義人に造り変えられねばなりません。・・・使徒パウロはすべての者が罪を犯し、神様の栄光をうけられなくなっており、そのために律法の行いによってはどんな肉なる者も神様の目に義とせられる事はないと証言した後、このように続けます『(我々は)価なしに神様の恵みにより、義とせられる』と。価なしに義人に造り変えられる・・・それ以外にどんな方法があるでしょう。・・・神様が罪を見逃されないというのは事実です。そんな事をして神様が公正な御方でいられる筈がないからです。しかし神様は遥かにまさった事ををして下さいます。罪があるのにそれ見逃すという事をしなくてもすむように、神様はその罪を取り除かれるのです。その人は義とせられて一度も罪を犯さなかったのと同じようにみなされます・・・
(セカリヤ3:1~5の)汚れた衣を脱がせるというのは、人間からとがを除くというのと同じ意味です。ですからキリストが御自分の義で我々をおおわれるのは罪を隠すのではなく、罪を取り除くという事であり、それが起こるなら彼は義とせられ、義に造り変えられ、確かに一大変化を経験するのです。・・・価なしで与えられる罪の完全な許しは、新生として知られる奇跡的な変化をもたらし、新たな清い心を与えるのです。もう一度訪ねますが義認、罪の許しは何によってもたらされますが?信仰です。・・・この同じ信仰を働かせる事が人を神様の子に造り変えるのです。」
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