「神はみ摂理のうちにへブル人を海に面した山の中に導かれたが、それは、神が彼らを救う力を示し、彼らを圧迫するものの誇りをあからさまにくじくためであった。神は別の方法を用いて彼らを救うこともできたが、彼らの信仰を試み、神に対する彼らの信頼を強めるために、この方法をお選びになった。人々は疲労し、恐怖に満たされていた。しかし、モーセが前進せよと命じたときもし彼らがためらっていたならば、神はかれらのために道を開くことをなさらなかったであろう。『信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡った』(へブル11-29)彼らは水の中を進んで行くことによって、モーセを通してお語りになった神の言葉を信じていることを示した。彼らが力のかぎり尽くしたときに、イスラエルの力ある神が海を分けて、彼らの歩む道をお作りになった。
ここに教えられてる驚くべき教訓は、いつの時代にもあてはまるのである。クリスチャンの生涯は、しばしば危険にさらされ、義務を果たすことが困難に思われる。われわれは前方には滅び、後方には束縛や死がせまっているように考える。それにもかかわらす、神のみ声は明らかに「前進せよ」と語っている。われわれの目が、暗黒を貫いて見ることができなくても、また、冷たい波を足もとに感じても、われわれはこの命令に従わなくてはならない。われわれの前進を妨げる障害物は、ためらったり疑ったりしていては取り去られることはない。すべての不安のかげが消えうせ、失敗や敗北の危険が全くなくなるまで服従をのばすものは、絶対に服従することはない。『障害物が取り除かれて、われわれの道が明らかに見えるようになるまで待とう』と不信はささやく、しかし、信仰はすべてを望み、すべてを信じておおしく前進することを勧める。
エジプト人にとって、暗黒の壁であった雲は、へブル人には全陣営を照らし、彼らの行く手に光を投げかける大いなる照明の光であった。そのように摂理のうちになされることは、信じない者には暗黒と絶望をもたらすが、信じ、よりたのむ魂には輝く光明であり、平和である。神がお導きになる道は、荒野や海を通っているかも知れないが、安全な道なのである。」~人類のあけぼの~
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