ヨセフとマリヤが瞑想と祈りとによって心を神にそそいでいたら、彼らは自分たちの責任の神聖さを認め、イエスを見失うようなことはなかったであろう。1日の怠慢によって彼らは救い主を見失った。そして彼を見つけ出すために3日も心配しながら捜さねばならなかった。
われわれもこれと同じである。われわれはむだ話や、悪口や、祈りを怠ることによって、救い主の臨在を1日失うかもしれない。すると救い主を見つけ出し、失った平安をとりもどすのに何日間も悲しみながらさがさねばならないかもしれないのである。
人々との交際において、われわれはイエスを忘れたり、イエスがわれわれといっしょにおられないことに気がつかずに時をすごしたりすることのないように注意しなければらない。世俗的な事物に心を奪われて、われわれの永遠のいのちの望みの中心であるイエスを心に思わなくなれば、われわれはイエスと天使たちから離れてしまうのである。救い主にいていただきたいと思わなかったり、救い主のおられないことに気がつかないようなところに、聖天使たちはとどまることができない。クリスチャンと自称している人々の中に、しばしば落胆がみられるのはこのためである。
多くの者は宗教的な礼拝に出席し、神の言葉によって生気をとりもどし、慰められる。だが瞑想と目をさまして祈ることとを怠るために、彼らはその祝福を失ってしまい、それを受けた前よりももっと欠乏を感ずる。しばしば彼らは神が自分に対して冷酷であると考える。彼らは過失が自分自身にあるとは考えない。イエスから離れることによって、彼らはイエスの臨在の光をしめ出してしまったのである。
われわれは、キリストの一生について毎日瞑想する時間を持つがよい。イエスの一生の要点を一つ一つとらえ、各場面ことに最後の場面を想像のうちにとらえるべきである。このようにして、われわれのために払われたイエスの大犠牲を心に思いめぐらす時、キリストに対するわれわれの信頼はもっと堅固になり、われわれの愛は目覚めさせられ、われわれはもっと深くキリストの精神を吹き込まれる。もし最後に救われたければ、われわれは十字架のもとで悔い改め、心が砕かれることについて教訓を学ばねばならない ~各時代の希望 過越のおまいり~
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