2015年11月17日火曜日

神はそのすべてを感じておられるのである

 福音宣伝の働きがはかどったり、妨げられたりするときに、われわれはその結果を自分自身や世人とむすびつけて考えるが、これを神とむすびつけて考える人は非常に少ない。罪のために創造主が受けられた苦しみを思う人は非常に少ない。全天はキリストと苦しみを共にしたが、しかしその苦悩はキリストが人性をとって現われたときに始まったのでもなければ終わったのでもない。十字架は、罪が初めてあらわれたときから神の心に生じた苦痛を、われわれの鈍い感覚に示すものである。人が正しいことから離れるたびに、残酷な行いをするたびに、人性が神の理想に到達できないたびに、神は悲しまれるのである。イスラエルが、神から離れた当然の結果として、敵に征服され、残虐と死という災難ががふりかったとき、『主の心はイスラエルの悩みを見るに忍びなくなった。』『彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、・・・いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた』と言われている。
 神のみたまは『みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さる』とある。『被造物全体が、・・・共にうめき共に産みの苦しみを続けている』とき、限りない天父のみ心は同情に痛むのである。この世界は広いラザロの家(注・貧しい病人の収容所)のようなもので、われわれはその悲惨な光景を心に思うことすら苦痛である。その現実の姿をみつめるとき、重荷はあまりに大きいであろう。しかし神はそのすべてを感じておられるのである。神は、罪とその結果を滅ぼすために、最愛のひとり子をあたえ、み子との協力によってこの悲惨な光景を終わらせる能力をわれわれにお与えになっている。『この御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。』」  

                                    ~教育 一生の仕事~

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