2016年2月28日日曜日

キリストそしてキリストの義 第10章 神に受けいれられるということ  E.J.ワゴナー

 多くの人々が、神は自分を受けいれては下さらないのではな いかという恐れのために、主に仕えるのをためらいます。また、 長年キリストに従う者だと告白している多くの人々が、いまだに神に受けいれられていることを疑っています。わたしがこの ような恩恵について書いているのは、彼らの心を当惑させようとするためではなく、彼らに神の御言葉にある単純な保証を与えようと努めているのです。

 「主はわたしを受けいれて下さるだろうか」との問いに、わたしは別の質問によって答えましょう。人は、自分が買った物を受け取らないでしょうか。もしあなたが店に行って買い物をするとして、買った品物が手渡される時、それらを受け取らないでしょうか。もちろん受け取るでしょう。それに疑問の余地はありません。あなたがその品物を買い、そのために代金を支払ったという事実は、あなたがその品物を受け取るつもりがあるというばかりでなく、それを手に入れたいと強く望んでいることの十分な証明です。もしあなたがそれらの物を欲しくなかったら、買いはしなかったでしょう。それどころか、もしそのために大金を支払ったなら、それだけ品物を手にする願望は 強いことでしょう。もしあなたの支払った代金が高額で、それを稼ぐためにあなたの生涯のほとんどを費やすほどであったら、買った品物が手渡される時、それをあなたが受け取るのは当然です。あなたの心配は、それを配達するにあたって何か間違いがありはしないだろうかということです。

 さてこの単純で自然な例証を、罪人がキリストの所に行く場合に当てはめてみましょう。まず、キリストはわたしたちを買 いとられました。「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、 神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがた は、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のから だをもって、神の栄光をあらわしなさい」(Ⅰコリント 6:19、 20)。

  わたしたちのために支払われた代価は、キリストご自身の血 ―彼の命―でした。パウロはエペソの長老たちに、「どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばってほしいのです。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の 教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである」(使徒 20:28)と言い、また、「あなた がたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な 生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によっ たのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである」と言いました(Ⅰペテロ 1:18、19)。 御子は、「わたしたちのためにご自身をささげられた」のです(テトス 2:14)。御子は、「わたしたちの父なる神の御旨に従い、 わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである」(ガラテヤ 1:4)。 キリストは特定の階級の人々ではなく、罪人の世全体を買いとられました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」(ヨハネ 3:16)。イエスは、「わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」と言われま した。「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたっ て、不信心な者たちのために死んで下さったのである」(ローマ 5:6)。「まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」(同 5:8)。

 支払われた代価は無限でした。ですから、神はご自分が買いとられたものを切に望んでおられることがわかります。神は、それを手に入れようと決心なさいました。神はそれなくしては満足できなかったのです。(ピリピ 2:6 - 8、ヘブル 12:2、 イザヤ 53:11 参照)。

  「でもわたしには価値がありません」と言うことは、自分は支払われた代価に価しないという意味であって、だからあなたは、買いとったものを受け取るのをキリストが拒絶なさるのではないかと恐れてみもとに行くのをためらうのです。さて、もしその買い物が確実にすんでおらず、代価をまだ支払っていなければ、あるいはあなたはその決済に不安を感じるかもしれません。しかし、もしキリストが、あなたを、代価に価しないという理由で受けいれるのを拒むとしたら、キリストはあなたを失うだけでなく、支払った額をも失うのです。あなたなら、買いとった品物がたとえ支払った代価に価しないとしても、それを捨ててしまうほど愚かではないでしょう。何も得ないよりは むしろ、代金をいくらかでも取り戻そうとするでしょう。

  しかし、価値について論じることには意味がないのです。キリストはご自分が買いとられた人間への関心をもって地上にお いでになり、その時、「人についてあかしする者を、必要とされなかった…それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである」(ヨハネ 2:25)。キリストはよく見てその買い物をなさいました。また、彼は買いとられたものの正確な価値を知っておられました。あなたがキリストの所に来て、無価値であることがわかっても少しも失望なさいません。あなたは価値について心配する必要はありません。買ったものについて 完全な知識を持つイエスが、その買い物に満足されるのであれば、あなたは不平を言うべきではありません。

  なぜなら、最も驚くべき真理は、キリストが、あなたには価値がないというまさにその理由により、あなたを買いとられたということです。彼の目はあなたの内に大いなる可能性を見てあなたを買いとられました。その時あなたに価値があったからとか、今価値があるからではなく、彼があなたを価値あるものにすることができるからでした。彼は、「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない」(イザヤ 43:25)と言われます。わたしたちには義はありません。キリストがわたしたちを買いとられたのは、「わたしたちが彼にあって神の義とされる」ためでした。 パウロは、「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリス トにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支 配と権威とのかしらであり」と言っています。

 ここにその過程のすべてが示されている聖句があります。「わたしたちもみな、…ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、 神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過 ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」(エペソ 2: 3 - 10)。

  わたしたちは、「神の栄光をほめたたえる」(エペソ 1:14)ために存在しなければなりません。もし、わたしたちが、神が 支払われた代価にふさわしいものだとすれば(これはありえないことです)、その場合には、その取引において神に栄光を帰すことはなかったでしょう。神は来るべき時代において、神の恵みの豊かさをわたしたちの内に示すことはできなかったはずです。しかし、神が何の価値もないわたしたちをとって、ついにはその御座の前に傷なき者として立たせてくださる時、それは神の永遠の栄光となるでしょう。その時、そこには自分自身に価値を帰する者は誰もいないでしょう。清められた者たちは一 致して、永遠にわたってキリストに次のように言うことでしょう。「あなたこそは、…ふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、 民族、国民の中から人々をあがない、わたしたちの神のために、 彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配 するに至るでしょう。…ほふられた小羊こそは、力と、富と、 知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさ わしい」(黙示録 5:9、10、12)。

 確かに、神に受けいれられることについての疑いはもう終りにすべきです。ところが不信の悪い心はなお疑いをもちかけます。「わたしはそれをすべて信じます。でもしかし―」。そこで、 止めましょう。もしあなたが信じるなら、「しかし」とは言わないでしょう。人々が信じると言っておきながら「しかし」をつけ加える時、彼らは実は、「わたしは信じます、でも信じません」 と言っているのです。ところがあなたは続けてこう言います、「たぶんあなたは正しいが最後までわたしの言うことを聞いてほしい。わたしが言おうとしていたことは、わたしはあなたが引用 した聖句の言っていることは信じますが、聖書は、もしわたしが神の子であるならわたしは聖霊のあかしを持つ、しかもそのあかしをわたしたちの内に持つと言っています。そしてわたしはそのようなあかしを何も感じません。だからわたしはキリストのものであるということが信じられません。わたしは彼の言葉を信じるが、わたしにはそのあかしがありません」。わたしにはあなたの問題点がわかりますが、それがどうにもならないものかどうか考えさせてほしいのです。

 あなたがキリストのものであることに関しては、安心することができます。あなたは、キリストがあなたのために何をささげたかを見てきました。そこで、質問はこうです。あなたは自分をキリストに渡したでしょうか。もしあなたがそうしたので あれば、彼があなたを受けいれてくださったことに確信をもってよいのです。もしあなたが彼のものでないなら、それはただあなたが、彼が買いとったものを彼に渡すことを拒んでいるからにすぎません。あなたは彼を欺いているのです。彼は、「わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた」と言われます(ローマ 10:21)。キリストは、自分が買い取り、そのために支払いをしたものを自分に渡すようにと懇願しています。それなのにあなたは拒み、あなたを受けいれようとしてくれないと言ってキリストを責めます。しかし、もしあなたが、神の子となるために、キリストに自分を心からゆだねるなら、彼があなたを受けいれて下さったことを確信するでしょう。

 そこで、キリストの言葉は信じるが、心にあかしを感じないから、彼があなたを受けいれたかどうか疑問だということに関しては、まだあなたが信じていないからだと言いたいのです。 もしあなたが信じたなら、あなたはあかしを持つでしょう。彼の言葉を聞きなさい。「神の子を信じる者は、自分のうちにこ のあかしを持っている。神を信じない者は、神を偽り者とする。 神が御子についてあかしせられたそのあかしを、信じていないからである」(Ⅰヨハネ 5:10)。御子を信じるということは、 彼の言葉と彼に関する記録を単純に信じることです。

 そして、「神の子を信じる者は、自分のうちにこのあかしを持っている」。あなたが信じるまではあかしを持つことはできません。そしてあなたが信じるやいなや、あなたはあかしを持ちます。それはどのようにしてでしょうか。神の言葉へのあなたの信仰があかしだからです。神がそう言っておられます。「さて、 信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル 11:1)。

 もしあなたが、聞こえる声であなたはわたしの子だと神が言われるのを聞くなら、あなたはそれを十分なあかしと考えてよいのです。ところで、神がみ言葉にあって語られる時、それは あたかも神が聞こえる声で話しておられるのと同じことなのです。そしてあなたの信仰は、あなたが聞いて信じた証拠です。

  これは大変重要なことなので、注意深く考える価値があります。もう少し記録を読んでみましょう。まず読むのはこれです。 わたしたちは「みな、キリスト・イエスにある信仰によって、 神の子なのである」(ガラテヤ 3:26)。これはあかしを信じないことに関してわたしが言ったことを積極的に確認するものです。わたしたちの信仰がわたしたちを神の子とします。しかし、 わたしたちはどのようにして信仰を持つのですか。「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ローマ 10:17)。だが、どうしたら神の言葉への信仰を持つことができるでしょうか。神にはうそがつけないということをただ信じなさい。あなたにとって、神のみ顔に向かい、 神はうそつきだと呼ばわることはむずかしいに違いありません。 しかし、もしあなたが神の御言葉を信じないのだとすると、ちょうどそれと同じことをしているのです。信じるためにあなたがすべきことのすべては、信じることです。「『言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある』。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中 からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるか らである。聖書は、『すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない』と言っている」(ローマ 10:8-11)。

  これらはすべてパウロを通して与えられた次の記録と調和します。「御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人 でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするた めに苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なの である」(ローマ 8:16、17)。わたしたちの霊と共にあかしして下さるこの御霊は、イエスが約束なさった慰め主です(ヨハネ 14:16)。そしてわたしたちはそのあかしが真実であることを知っています。なぜならそれは「真理の御霊」だからです。 さて、御霊はどのようにしてあかしをするのでしょうか。記録されている御言葉をわたしたちに思い起こさせることによってです。御霊がそれらの言葉に霊感を与えました(Ⅰコリント 2: 13、Ⅱペテロ 1:21)。ですから、聖霊がそれらの言葉をわた したちに思い起こさせる時、それはあたかもそれらの言葉を直接わたしたちに語っておられるのと同じことなのです。御霊が、 先にその一部を引用した御言葉をわたしたちの心に提示してく ださると、わたしたちにはその記録が真実であることがわかります。なぜなら神はうそをつくことができないからです。わたしたちはサタンに、神に反する偽りのあかしを持って立ち去れ と命じ、その記録を信じます。わたしたちがその記録を信じる なら、わたしたちは神の子であることを知ります。そして、「アバ、父よ」と叫びます。すると栄光に満ちた真理が魂の上にもっと完全にあらわれてきます。その言葉の反復は、わたしたちにそのことを現実のものとさせます。神は、わたしたちの父です。 わたしたちは神の子です。その思想は何という喜びを与えてく れることでしょうか。そういうわけで、わたしたち自身の内に 持つあかしとは、ただの印象や感情ではないことがわかります。 神はわたしたちの感覚のような信頼できないあかしに頼ることを求めてはおられません。自分の心に依り頼む者は愚かである と聖書は言っています。しかし、わたしたちが信頼すべきあかしは、神の変わることのない言葉であって、このあかしを、聖霊を通じてわたしたち自身の心の内に持つのです。「言いつくせない賜物のゆえに、神に感謝する」(Ⅱコリント 9:15)。

 この保証は、まるでわたしたちがすでに完全を得てしまったかのように、勤勉であることを止め、満足して落ち着いてしまうことを是認するものではありません。キリストはわたしたちのためにではなく、彼のために、また、わたしたちが完全であるからではなく彼の内にあって完全に向かって行くことができるように、わたしたちを受けいれられるのだということを覚えるべきです。彼はわたしたちを祝福してくださいますが、わたしたちがとても良かったので祝福にふさわしいからではなく、 その祝福の中にある力にあって、わたしたちが不義から離れるためです(使徒 3:26)。キリストを信じる者すべてにその力 ―権利あるいは特権―が、神の子となるために与えられています(ヨハネ 1:12)。わたしたちが、「神の性質にあずかる者と なる」のは、キリストを通し、神の「尊く、大いなる約束」によります(Ⅱペテロ 1:4)。

では次に、これらの聖句のいくつかについて、その実際的適用を簡潔に考えてみましょう。

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