2016年11月17日木曜日

だれのことも悪く言ってはならない

だれのことも悪く言ってはならない


 「この世は、〔つまずかせること〕があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。」(マタイ18:7)

 譴責の言葉はその人自身の魂に反作用を及ぼす。舌の訓練は、わたしたちが個人的に始めるべきである。だれのことも悪く言わないようにしよう。
 「もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい」。
 わたしたちが手足のように大事に考えている悪い事があるかもしれない。これらはわたしたちから永遠に取り除かれなければならない。わたしたちの特有な、聖化されていない考えが、他人を圧迫するようなことがあってはならない。……
 教会員の間で為されるべき大いなる働きがある。公の伝道の働きに入るようにとは召されていない多くの人々は、熟考の上で自分の唇をもって語ることにより、自分たちの地元の教会で多くの善をなすことができる。言葉のタラントは神に栄光を帰するために用いられるべきである。あまりにもしばしば、それらが悪いうわさを伝えるために用いられる。これは聖霊を悲しみのうちに去らせる。わたしたちには、自分たちのすべての重荷をご自分の許へ携えてくるようにとわたしたちに命じておられる救い主がおられることを覚えていよう。このお方はわたしたちの思いに平安を与え、またわたしたちにしっかりと絡み合っているように見える困難なことを正してくださる。このお方は「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」と訴えておられる。……
 文句と批判の言葉にふけってきた人々は、……今後、主の助けによって、自分の兄弟姉妹を悪く言うことはせず、すべてを祈りのうちに神の許へ携えて、わたしたちの仲間のうちにある悪を指摘することに関して、神がお与えになった教えに従うことを誓いなさい。すべての教会員は自分の日常の振る舞いの中で大いに模範的で、言葉においても分別があって注意深く、また大変親切で同情深いために、すべての人から、神を畏れ、神を愛する人だとみなされるようになることができる。そのような人は、自分と交わる人々に善への感化力を及ぼすのである。
 わたしたちは誤りやすく、数多く間違いを犯してきた。悔い改めと告白をもって主に帰ろう。わたしたちが主の家で聖餐式に参加するために集まるときには、わたしたちの力の及ぶ限り、すべての間違いを正そう。兄弟の前に頭を下げて、その足を洗うとき、自ら「わたしは自分の心にこの兄弟から自分を引き離すようなことが何かあるだろうか。わたしは、わたしたちの間を疎遠にするようなことを言ったりしたりはしなかっただろうか」と吟味しなさい。もしそうしたことがあったならば、心から自分の罪を告白することによって、それを取り除きなさい。こうして心は心に結び合わされて、神の祝福が現れるようになる。(原稿102, 1904年)

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