2021年3月20日土曜日

また憐れみ深い神は、

聖書は、「失望せずに、つねに祈るべきこと」を教えている(ルカ18:1)。人が本当に祈る必要を感ずる時というのは、力が尽き、自分 の手から生命がすべり落ちていくように感ずる時である。健康な者は、年々歳々絶えることなく与えられている神の驚くべき恵みをよく忘れて、その恵みに対し、神を賛美することをしない。しかし1度病気になると神を思いだす。すなわち、人力が尽きると人間は、神の助けの必要を感ずるものである。また憐れみ深い神は、真心から神に助けを求める者に顔をそむけたまわない。神は健康の時も病気の時も等しく避けどころである。 「父がその子供をあわれむように、 主はおのれを恐れる者をあわれまれる。 主はわれらの作られたさまを知り、 われらのちりであることを覚えていられるからである。」 (詩篇 103:13、14) 「ある者はその罪に汚れた行いによって病み、 その不義のゆえに悩んだ。 彼らはすべての食物をきらって、死の門に近づいた。」 (詩篇 107:17、18) 「彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、 主は彼らをその悩みから救い、 そのみ言葉をつかわして、彼らをいやし、 彼らを滅びから助けだされた。」 (詩篇 107:19、20)  聖霊が詩篇記者を通じてこれらの言葉を語った時と少しも変わらず、今日も神は病める者に喜んで回復を与えようとしておられる。そしてキリストも、地上で伝道されていた時と同じように、今もなお憐れみ深い医者である。キリストの中にすべての病をいやす乳香があり、あらゆる病弱から回復する力がある。今日、キリストの弟子たちは、昔の弟子たちが祈ったように病人のために祈るべきで、そこに回復がもたらされるのは、「信仰による祈りは、病んでいる人を救」うからである(ヤコブ 5:15)。聖霊の力と、ゆるがぬ信仰の確信を通して、神の約束を自分のものとすることができるのである。「病人に手をおけば、いやされる」(マ ルコ 16:18)。この主の約束は、今日もなお使徒の時代と同様信頼できるものであって、神の子の特権を示しており、わたしたちの信仰は、その中に含まれている一切のものを完全に把握はあく していなければならない。キリストの僕は神の働きの仲介者であり、キリストは彼らを通していやしの力を働かせようと望んでおられる。病人や、苦しむ者を信仰の腕の中にいだき、神のもとに連れて行くことが、わたしたちの仕事である。わたしたちは大治療者を信じるように、病人に教えなければならない。  わたしたちが病んでいる人、希望を失った人、悩んでいる人などを、神の力にすがるようにと励ますことを救い主はお望みになっている。信仰と祈りによって、病室もベテル(神の家)と変わるであろう。医者や看護婦は、誤解の余地がないほど明瞭に、その言動において、神は滅ぼすためではなく、救うために「この所におられる」と言うことができる。キリストは、ご自分の優しい愛で医者や看護婦の心を満たし、自らの臨在を病室にあらわそうと考えておられる。もし病人を看護する者の生活が清く、キリストが共に病床に行くことができるほどのものであるならば、憐れみ深い救い主がいてくださるという確信を病人に与え、その確信が心身のいやしに大いに役だつのである。  神は祈りをききたもう。キリストは「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」また「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。・・・・その人を父は重んじてくださるであろう」と言われている(ヨハネ 14:14、 12:26)。  もし神の言葉に従って生活するならば、与えられたすべての尊い約束はみなわたしたちに成就する。わたしたちは神の憐れみを受ける資格はないが、自分を神にささげる時、神は受け入れてくださる。そして神に従う者のために働き、また、その人々を通じて働かれるのである。

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