2021年3月20日土曜日

また神は、礼拝に集まる人々が、神の尊い守護と愛を深く感じて帰り、日物どんな仕事も喜んでなすことができ、

 もしクリスチャンが、共に交わって互いに神の愛と尊い順罪の真理について語り合うならば、自分の心がうるおされ、お互いの心がうるおされるのです。私たちは日ごとに、天の父についてもっと学び、神の恵みを新たに受けるのです、そうすると、神の愛について語りたいと思うようになり、そして人に話せば自分の心が温められ励まされるのです。もし私たちがもっとイエスのことを話し、より少なく自分のことを考えるならば、いっそう彼の臨在を感じることができるのです。  

 神は私たちを常に守っておられますから、いつも神のことのみを考えたいと思えば常に心に神を宿し、喜んで神について語り、神を賛美しなければなりません。私たちがこの世的なことを話すのは、それに興味をもっているからです。友のことを話すのは、その友を愛し、喜びも悲しみも共にしているからです。けれども私たちは、この地上の友を愛するより以上に神を愛する大きな理由があります。ですから、何よりもまず神のことを思い、神のあわれみ深いこと、また神のみ力について語ることは、全く自然なことでなければなりません。 神が私たちにお与えになった賜物があまり豊かなため、私たちの思いや愛情が全部それに奪われ、神にお返しするものが何もないようではいけません。むしろ、これらの賜物は、常に私たちに神のことを思い出させ、愛と感謝の絆で恵み深き神に結びつけるためのものです。私たちは、とかくこの世のことに心を奪われがちですが、天の開かれた聖所の扉を見上げ、「彼によって神に来た人々をいつも救うことができるのである」(ヘブル7:25)。キリストのみ顔に神の栄光が輝いているのをながめましょう。  

 私たちは、もっと「主のいつくしみに、人の子らになされたくすしきみわざとのために」(詩篇107:8)神をほめたたえねばなりません。私たちの祈りは、ただ求めること、与えられることだけであってはなりません。また自分の欠乏ばかり考えていて、受けた恵みを忘れることがないようにしましょう。私たちは祈ることが本当に少ない上に、また感謝の念に乏しい者です。絶えず神のあわれみを受けていながら、感謝を言いあらわすことが何と少なく、神が私たちのためになさったことを賛美することの何と少ない者でしょう。  

 その昔、イスラエル人が礼拝のため集まったとき、主は次のようにお命じになりました。「そこであなたがたの神、主の前で食べ、あなたがたも、家族も皆、手を労して獲るすべての物を喜び楽しまなければならない。これはあなたの神、主の恵みによって獲るものだからである」(申命記12:7)と。神のみ栄えのためになされることは、賛美と感謝の歌をもって喜んでなされるべきであって、悲しい気持ちや憂うつな気持ちでなされてはなりません。  

 私たちの神は、優しいあわれみある父です。神に仕ることは、悲しい心重いこととみなされてはなりません。神を礼拝し、みわざに携わることは喜びでなければなりません。かくも大いなる救いをお備えになった神は、その子らが、神をかたくなな、無情な監督ででもあるかのようにみなし、そのようにふるまうことをお好みになりません。神は、私たちの最も良き友です。 そして、私たちが神を礼拝する時には、共にいて祝福し、慰め、その心を喜びと愛で満たそうとしてくださいます。主は、神の子らが神に仕えて慰めを与えられ、みわざに困難よりもむしろ喜びを感じるように望まれます。また神は、礼拝に集まる人々が、神の尊い守護と愛を深く感じて帰り、日常のどんな仕事も喜んでなすことができ、神の恵みによって、すべてのことを正直に忠実になすことができるようにと望んでおいでになります。  

 私たちは、十字架のもとに集まらなければなりません。キリストと、彼の十字架に釘づけられたこととが私たちのめい想と会話、また、何よりも喜ばしい感激にあふれた主題でなければなりません。神から受けたすべての恵みを心にとめてその大いなる愛を悟ったならば、私たちのために十字架に釘づけられたみ手に、喜んですべてをお任せしなければなりません。  私たちの魂は、賛美の歌にのって天に近づきます。神は天の宮廷で、歌と音楽をもって礼拝を受けておいでになります。ですから、私たちも感謝をささげるならば、天軍の礼拝に近づくことができるのです。「感謝のいけにえをささげる者はわたしをあがめる」(詩篇50:23)とあります。私たちも「感謝と歌の声」(イザヤ51:3)をもって喜びのうちにもうやうやしく創造主のみ前にまいりましょう。 キリストへの道 祈りの特権

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