2021年4月12日月曜日
神の子となる者は、その時から世を救うためにおろされた鎖の一環と自分を考え
イエスは、わたしたちが滅びるようであるなら、天をのぞましい場所とお考えにならなかった。そのため非難嘲笑の生涯や屈辱の死もおいといなく、天の宮廷を後になさった。天の無限の富をお持ちになった彼は、貧しくおなりになったが、それは彼の貧しさにより、わたしたちが富める者となるためであった。わたしたちも彼の歩まれた道に従って行かね
ばならない。
神の子となる者は、その時から世を救うためにおろされた鎖の一環と自分を考え、イエスの憐れみ深いご計画においてキリストと1つになり、失われた者をたずねて救うために、キリストと共に出て行かなければならない。
多くの人は、この地上でキリストが生活なさった場所を訪問し、キリストが歩まれた道を歩み、キリストがそのほとりでお教えになるのを愛好なさった湖水をながめ、しばしばイエスがその目をお休めになった丘や谷をながめることができたら、大きな特権だろうと思う。しかしわたしたちは、イエスのみ足の跡をたどるために、ナザレやカペナウムやベタニヤに行く必要はない。病床のそばに、貧しいあばらやに、あるいは、大都市の雑踏した狭い裏通りに、そして人の心が慰めを必要としているどこにでも、イエスのみ足跡を見出すのである。
わたしたちは飢えた者に食を与え、裸の者に着せ、苦しみ悩む者を慰めなければならない。気落ちした者に仕え、望みなき者に希望を起こさせなければならない。
無我の奉仕にあらわされるキリストの愛は、悪人を改めさせるのに剣や法廷よりも力がある。これらのものは、犯罪者を恐怖させるには必要だが、愛のある伝道者は、これ以上のことができるのである。しかられて頑固になった心も、キリストの愛にはとけることが多い。 ミニストリーオブヒーリング 奉仕のために救われる
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