エサウとヤコブは、同じように神の知識を授けられた。そして、2人は自由に神の戒めの道を歩いて、神の恵みにあずかることができたのである。しかし、彼らは、2人ともそうはしなかった。2人の兄弟は、異なった道を歩き、彼らの道はさらに広く大きく別れていくのであった。
神が独断的選択を行い、エサウを救いの祝福から閉め出されたというようなことはない。神の恵みの賜物はキリストによって、すべての者に分け隔てなく与えられている。人間が滅びるのは、自分自身の選択によるのであって、そのように選ばれたのではない。神は、み言葉の中に、すべての魂が永遠の命に選ばれる条件をお示しになった。それは、キリストを信じる信仰によって、神の戒めに従うことである。神は、神の律法と一致した品性を選ばれるのであるから、だれでも神の要求される標準に達する者は、栄光の王国にはいることができる。キリストご自身はこう言われた。「御子を信じる者は永遠の命をもつ」(ヨハネ3:36)。
「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな 天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイ7:21)。そして、主は、黙示録のなかで言われる。「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである」(黙示録22:14)。人間の最後の救いについて、み言葉の中にあらわされている選びとは、これだけである。
おそれおののいて自分の救いを達成しようとする者はみな選ばれている。武具をまとって、信仰のよき戦いをする者は選ばれている。目をさまして祈り、み言葉を研究し、誘惑からのがれる者は選ばれている。常に信仰を持ち、神のみ口から出るすべてのことばに従おうとする者は選ばれている。贖罪に必要なことがらはすべての者に無代で与えられている。贖罪の成果は、条件に応じる者に与えられる。
エサウは契約の祝福を軽べつした。彼は霊的利益よりは、物質的利益を高く評価した。そして、彼は望んでいたものが与えられた。彼が神の民から離されたのは、彼自身が故意にそう選んだのであった。ヤコブは、信仰の遺産を選んだ。彼は、策略と欺きと偽りによってそれを手にしたが、神は、彼の罪が矯正されていくことをお許しになった。ヤコブは、その後あらゆる苦い経験をなめたのであったが、自分の志をひるがえしたり、自分の選択を放棄したりはしなかった。彼は、人間の技巧や策略にたよって祝福を得ようとすることは、神にさからっていることであることを学んだ。ヤコブは、ヤボクの渡しで、夜、組打ちをしてから後は全く変わった人になった。自己過信が根本からぬき取られた。それ以来、初めのころの狡猾さがみられなくなった。策略と欺瞞のかわりに、そぼくと真実さが彼の生活にあらわれた。彼は、全能のみ腕にひたすらたよるという教訓を学んだ。そして、試練と苦難のただなかにあっても、心を低くして神のみこころに従った。彼の品性の卑しい性質は炉の火で焼かれ、真の金が精練されて、アブラハムとイサクの信仰が、なんのかげりもなくヤコブのうちに見られるようになった。 人類のあけぼの カナンに帰る
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