「 世の中には、自分たちは試験されているのであって、心を改めた証拠がなければ、神の祝福を受けることができないと考えている人々がいます。しかし、今すぐにでも祝福を求めて受けることができるのです。神の恵み、キリストの霊を受けて、自らの弱さを補うのでなければ悪に抵抗することはできないのです、イエスは、私たちが罪に汚れたのみとするものもないままで、みもとに行くのをお喜びになります。私たちは、弱さ、愚かさ、罪深さなどをみな持ったまま悔いの涙をもって、主の足もとにひざまずいてよいのです。主は愛のみ手のうちに私たちをいだき、傷をつつみ、すべての汚れから清めることをご自身のほまれとなさいます。
多くの人があやまったのはこの点であって、イエスは個人的に、一人一人にゆるしを与えられることを信じないのです。彼らは神のみ言葉をそのとおり信じません。しかし、だれでも条件に従うならば、いかなる罪のゆるしも価なく与えられることを、はっきり知ることができるのです。神のみ約束は、自分のためではないなどという疑いは捨てなければなりません。このみ約束は、悔い改める罪人一人一人のためです。キリストが備えておられた能力と恵みは、み使いによって、信じる魂一人一人に与えられます。どんなに罪深いからといっても、彼らのために死なれたイエスから能力と純潔と義とを受けることができないという人はありません。イエスは罪に染まって汚れた衣を脱がせ、義の白い衣を着せようと待っておいでになります。死ぬことなく、生きなさいと招いておいでになるのです。
神は、人間が互いをあしらうように私たちをあしらいません。彼は、愛とあわれみといつくしみ豊かな神です。「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」(イザヤ55:7)。「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから」(イザヤ44:22)と言っています。
「わたしは何びとの死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」(エゼキエル18:32)。悪魔は、この尊い神よりの保証を奪い去り、人の心から希望と光を消し去ろうとしていますが、そうさせてはなりません。試みる者に耳を貸してはなりません、イエスは私が生きるために死んでくださったのです。彼は私を愛し、私が滅びるのを喜ばれません。私にはまた愛にあふれる天の父があります。私は、天の父の愛をないがしろにし、せっかく与えられた祝福を無駄にしましたが、立って天の父のみもとに行き「わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇い人のひとり同様にしてください」と言わねばなりません。このたとえは、さまよい出た者がいかに迎えられるかを次のように語っています。「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいてせっぷんした」(ルカ15:18~20)。
これは実に優しく、人の心を動かさずにはおかない物語ですが、これだけでは、まだ天の父の限りないあわれみを十分にあらわしてはいません。主は預言者を通し、「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」(エレミヤ31:3)と言われました。罪人がまだ父の家から遠く離れた異国で財産を浪費 しているとき、父の心はその子の身の上を案じているのです。そして、神へ帰りたいという気持を彼の心に起させるのはみな、聖霊のやさしい訴えの声であって、さまよい出た者へ熱心に話しかけ、哀願し、父なる神の愛の心に引きつけようとしておられるのです。
聖書には、こうしたみ約束がたくさんありますから、疑う余地はどこにもありません。哀れな罪人が帰りたいと思い、罪を捨てたいと願っているのに、主は彼が罪を悔いて主の足もとに来るのを拒むなどと考えられるでしょうか。決してそのようなことを考えてはなりません。天の父がそのような方であると考えることほど、魂を傷つけるものはありません。神は、罪を憎みますが罪人をお愛しになります」キリストへの道 信仰
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