しかし聖餐式は悲しみの時となるのではなかった。これはその目的ではなかった。主の弟子たちは、主の食卓に集まる時、自分の欠点を思い出して、嘆き悲しむのではない。彼らは、過去の信仰経験が向上していようと低下していようと、それに思いを集中するのではない。兄弟たちとの間の不和を思い出すのではない。すべてこうしたことは洗足式に含まれていたのである。自分を吟味することや、罪を告白することや、不和を解消することはすべてもうすんだのである。いまは彼らはキリストと会うために来ているのである。彼らは、十字架の影ではなくて、救いの光の中に立っている。彼らは、義なる太陽キリストの輝かしい光に向かって魂を開くのである。彼らはキリストのとうとい血潮によってきよめられた心をもち、目に見えなくてもキリストの臨在を十分に意識して、「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」と言われる主のみことばを聞くのである(ヨハネ14:27)。各時代の希望 第72章「わたしを記念するため」
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