ところが、大いなる信仰と輝かしい成功の後によくあり勝ちな、反動的な気持ちがエリヤを襲っていた。彼はカルメル山において始まった改革が、長続きしないのではないかという絶望感に陥った。彼はピスガの峰まで高められたのであったが、今は谷間に落ちていた。彼は全能者の霊感を受けて、最もきびしい信仰の試練に耐えたのである。しかし、イゼベルのおどしが耳に鳴りひびき、サタンが今なお、この邪悪な女の策略によって、勝ち誇るかのように見えたこの失望の時に、彼は神に対する信頼を失った。彼は著しく高められたので、その反動もはなはだしかった、エリヤは神を忘れて、遠くへ逃げ去って行った。そしてついに、荒涼とした荒野にただ1人でいるのに気づいた。彼は疲れ果てて、れだまの木の下に座って休んだ。彼はそこに座って、自分の死を求めたのである。「主よ、もはや、じゆうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」と彼は言った(列王紀上19:4下句)。失望落胆して人里遠く落ち延びたエリヤは、2度と人間の顔を見たいとは思わなかった1ついに彼は、疲れ切って眠ってしまった。
誰でも時には、激しい失望と絶望に陥る時があって、心は悲しみに満たされ、神が今でも地上の子供たちの慈悲深い保護者であられることを信じ難い日々があるものである。心は悩みにさいなまれて生きているよりは死んだほうがましだと思われる時がある。そうした時に多くの者は、神に対する信頼を知て、疑いと不信の奴隷になるのである。そのような時に、もしわれわれが霊的洞察力をもって、神の摂理の 意味を悟ることができたならば、天使たちがわれわれを助けて、われわれの足を永遠の山よりも堅い基礎の上におこうと努めているのを見ることができるであろう。そして、新しい信仰と新しい生命がわき上がることであろう。忠実なヨブは、苦難と暗黒の時にも、次のように言った。
「わたしの生れた日は滅びうせよ。」
「どうかわたしの憤りが正しく量られ、
同時にわたしの災も、はかりにかけられるように。」
「どうかわたしの求めるものが獲られるように。
どうか神がわたしの望むものをくださるように。
どうか神がわたしを打ち滅ぼすことをよしとし、
み手を伸べてわたしを断たれるように。
そうすれば、わたしはなお慰めを得」る。
「それゆえ、わたしはわが口をおさえず、
わたしの霊のもだえによって語り、
わたしの魂の苦しさによって嘆く。」
「わたしは息の止まることを願い……、
わたしは命をいとう。
わたしは長く生きることを望まない。
わたしに構わないでください。 PK 453.15
わたしの日は息にすぎないのだから。」
(ヨブ3:3、6:2、8~10、7:11、15、16)
ヨブは人生にうみ疲れたとは言っても、死ぬことを許されなかった。ヨブには将来の可能旨性が示され、希望の言葉が与えられたのである。
「堅く立って、恐れることはない。
あなたは苦しみを忘れ、
あなたのこれを覚えることは、
流れ去った水のようになる。
そしてあなたの命は真昼よりも光り輝き、
たとい暗くても朝のようになる。
あなたは望みがあるゆえに…、
保護されて……
あなたは伏してやすみ、
あなたを恐れさせるものはない。
多くの者はあなたの好意を求めるであろう。
しかし悪しき者の目は衰える。
彼らは逃げ場を失い、
その望みは息の絶えるにひとしい。」
(ヨブII:15~20)
ヨブは失望と落胆のどん底から、神の憐れみと救いの力に絶対的に信頼するという高尚な境地に昇った。彼は勝ち誇って言った。
「見よ、神が私を殺しても、
私は神を待ち望み、……
神もまた、私の救いとなってくださる。」
「私は知っている。
私を贖う方は生きておられ、
後の日に、ちりの上に立たれることを。
私の皮が、このようにはぎとられて後、
私は、私の肉から神を見る。
この方を私は自分自身で見る。
私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。」
(ヨブ13:15、16、19:25~27・新改訳)
「主はつむじ風の中からヨブに答えられた」(同38:1)。そしてそのしもべに、神の力の勢いをあらわされた。ヨブは創造主のお姿を拝見したときに、自分自身を忌み嫌って、ちり灰の中で悔い改めた。その時に主は、彼に豊かな祝福を与え、彼の最後の年月を、彼の生涯の最良のものとすることがおできになったのである
希望と勇気は、神に完全な奉仕をするために、ぜひ必要なものである。これらは信仰の実である。神はご自分のしもべたちが試練に遭った時に必要な力を、豊かに彼らに与えることがおできになる。そしてそうしようと望んでおられるのである。神の働きに対する敵の策略は、よく計画され確立しているように見えるであろう。しかし神は、これらの計画の最も強力なものでも、覆すことがおできである。そして神はし もべたちの信仰が十分に試めされたことをごらんになる時に、神ご自身の時と方法においてこれをなさるのである。
気落ちしている者に対して、信頼できる救済策がある。それは信仰と祈りと行いである。信仰と活動は、日毎に増大する確信と満足とを与える。あなたは不吉な予感に恐れを感じ、失望落胆に陥ろうとしているであろうか。一見絶望的で、最悪の事態にあっても恐れてはならない。神を信じよう。神はあなたの必要を知っておられる。神はすべての力を持っておられる。神の無限の愛と憐れみは、消耗することがない。神はその約束をなし遂げられないのではないかと恐れてはならない。神は永遠の真理である。神は、神を愛する人々と結ばれた契約を変更なさらない。そして神は、忠実なしもべたちが必要とするだけの能力をお与えになる。使徒パウロは、次のようにあかししている。「『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。……だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」(Ⅱコリント12:9、10)。 PK 454.1
神はエリヤを、試練の時にお捨てになったであろうか。いや、そうではない。神はエリヤの祈りに答えて、天から火を降らせて山の頂を照らされた時と同様に、彼が神と人に捨てられたと感じた時にも、彼を愛しておられた。さてエリヤが眠っていると、静かに手を触れて快い声で呼びかける者があるので目が覚めた。彼は敵が彼を見つけたのかと思って、驚いて逃げ出そうとした。しかし、彼の上にかがんでいる憐れみ深い顔は、敵の顔ではなくて友の顔であった。神はしもべのために食物を持って、天からの使いをお送りになったのである。「起きて食べなさい」と天の使いは言った。「起きて見ると、頭のそばに、焼け石の上で焼いたパン1個と、1びんの水があった」(列王紀上19:5、6)。
エリヤは彼のために備えられた食物を食べたあとでまた眠った。もう1度天使が来た。天使は疲れ果てたエリヤにさわって、憐れみ深く言った。「『起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしようから』。彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力ついて40日40夜行って、神の山ホレブに着いた」
国と指導者 第12章 砂漠に逃げる預言者
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