世の中であがめられている人々、彼らが自慢にしている知恵を持っているいわゆる偉大な賢人たちは、キリストの品性を理解することができなかった。彼らは、外観と、1人の人間としてのイエスにのぞんだ屈辱を通して、イエスを判断した。しかし漁師や取税人たちには、目に見えないお方を見ることがゆるされた。弟子たちでさえ、イエスが彼らにあらわそうと望まれたことを全部は理解しなかった。しかしだんだん聖霊の力に屈服した時に、彼らの心は光に照らされた。彼らは大いなる神が、人性という衣をまとって、自分たちの中におられることを認めた。イエスは、賢くて抜け目のない人々がこの知識を持たないで、それがこれらのいやしい人々にあら矛、されたことをよろこばれた。しばしばイエスが旧約聖書を引用して、それをご自身と、ご自分がなさるあがないの働きに適用された時、彼らはみたまによってめざめさせられ、天の雰囲気にひきあげられた。預言者たちによって語られた霊的真理を、彼らは、はじめにそれ書いた人たちよりもはっきり理解した。 DA 931.3
これからは、彼らは、旧約聖書を、律法学者やパリサイ人の教理としてではなく、またすでに死んでいる賢人の語ったことばとしてではなく、神からの新しい啓示として読むのであった。「この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいる」お方を、彼らは見た(ヨハネ14:17)。 DA 931.4
われわれが真理についてもっと完全な理解を持つことができるただ一つの方法は、キリストのみたまによって、心を感じやすく、やわらげられた状態にしておくことによってである。魂をむなしいことと高慢心からきよめ、それを占領していた一切のものを追い出して、キリストに心の王座についていただかねばならない、人間の科学は限られていて、あがないを理解することができない。あがないの計画は深遠で、哲学はそれを説明することができない。それは依然として、どんな深遠な議論によってもおしはかることのできない神秘である。救いの科学は、説明することができないが、経験によって知ることができる。自分自身の罪深さを認める者だけが、救い主のとうとさをみわけることができるのである 各時代の希望 第53章 ガリラヤからの最後の旅
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