2021年9月28日火曜日

キリストを最も多く愛する者は最も多くよいことをする。

このガリラヤの漁師たちは、いやしい、無学な人たちであった。しかし世の光であられるキリストは、彼らをその選ばれた立場にふさわしい資格のある者となさることが十分おできになった。救い主は教育を軽んじられなかった。なぜなら神の愛に支配され、神の奉仕に献身する時、知的な教養は一つの祝福であるからだ。しかしイエスは当時の賢人たちをみすごされた。それは彼らが自信が強すぎて、悩んでいる人類に同情することができずナザレの人イエスの共労者となることができなかったからである。偏狭な彼らはキリストから教えられることを軽蔑した。主イエスは、主の恵みを伝えるのにさまたげるもののない水路となる人々の協力をお求めになる。神と共に働く者になりたいと思う者がだれでも学ばねばならない第一のことは、自分にたよらないという教訓である。その時彼らはキリストの品性を与えられる用意ができる。これはどんなに科学的な学校の教育によっても得られないものである。それは天来の教師イエスからのみ得られる知恵の実である。

 イエスは無学な漁師たちをお選びになったが、それは彼らが当時の言い伝えやまちがった慣習によって教育されていなかったからである。彼らは生れつき才能を持った人たちで、謙遜で教えやすく、キリストがご自分の働きのために教育なさることのできる人たちであった。世の一般の人たちの中には、もしその能力が呼びさまされて活動するならば、世の中の最も尊敬されている人々と同等の立場まで高められるのに、そうした能力を持っていることに気がつかないで、日々の骨折り仕事を根気よくくりかえしている人々がたくさんいる。このような眠っている才能が目覚めるにはじょうずに接せられることが必要である。イエスがご自分の共労者とするために召されたのはこういう人たちであった。こうしてイエスは、彼らにご自分とまじわる特権をお与えになった。世のえらい人たちは決してこのような教師をもたなかった。弟子たちが救い主の訓練を受けた時、彼らはもはや無知でも無教養でもなかった。彼らは頭も品性もイエスのようになり、世の人々は彼らがイエスと共にいた者であることを知った。 

教育の最高の働きは知識だけを与えることではなくて、それは心と心、魂と魂とがふれ合うことによって受けられる生きた力をさずけることである。命を生ずることができるのは命だけである。だから神の命に3年の間日々接触していた彼らの特権はどんなに大きかったことだろう。この神の命から命を与えるあらゆる衝動が流れ出て世の祝福となったのである。愛された弟子ヨハネはほかのすべての仲間たちにまさって、このすばらしい命の力に屈服した。彼はこう言っている。「このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである」「わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた」(Ⅰヨハネ1:2、ヨハネ1:16)。 

主の使徒たちの中には、彼らにとって誇りとなるようなものは何もなかった。彼らの働きの成功はただ神のおかげであったことは明らかであった。この人たちの生涯、彼らの築いた品性、彼らを通して神が 達成された偉大なみわざは、すなおで従順なすべての者に神がどういうことをしてくださるかということについてのあかしである。 

キリストを最も多く愛する者は最も多くよいことをする。自我を捨てて、聖霊が心に働かれる余地をつくり、神にまったく献身した生涯を送る者の有用さには限りがない。もし人々が、不平を言ったり、途中で弱ったりしないで、必要な訓練に耐えるなら、神は日々に、時々刻々に彼らを教えてくださる。神はご自分の恵みをあらわそうと熱望しておられる。もし神の民が障害をとり除くなら、神は人間という水路を通して救いの水の豊かな流れをそそがれる。もしいやしい身分の人たちを励まして彼らのできるよいことをさせるならば、またもし彼らの上にその熱意をおさえるような抑制の手がおかれないならば、いまキリストの働き人が1人しかいないところに100人の働き人がいるであろう。 各時代の希望 海辺での召し

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