2021年10月1日金曜日

神はわれわれのためにしたいとお思いになることをなさることができない。

  ユダヤ人はイスラエルに対する永遠の恩恵についての神の約束を誤解していた。「主はこう言われる、すなわち太陽を与えて昼の光とし、月と星とを定めて夜の光とし、海をかき立てて、その波を鳴りとどろかせる者一その名は万軍の主という。主は言われる、『もしこの定めがわたしの前ですたれてしまうなら、イスラエルの子孫もすたって、永久にわたしの前で民であることはできない。』主はこう言われる、『もし上の天を量ることができ、下の地の基を探ることができるなら、そのとき、わたしはイスラエルのすべての子孫をそのもろもろの行いのために捨て去ると主は言われる』」(エレミヤ31:35~37)。 

 ユダヤ人は、自分たちがアブラハムの直系の子孫であるということがこの約束を受ける資格であると考えていた。しかし彼らは神が明示された条件を見落していた。この約束をお与えになる前に、神は、「わたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。……わたしは彼らの不義をゆ るし、もはやその罪を思わない」と仰せになっていた(エレミヤ31:33、34)、 

心に神の律法をしるされる民に、神の恩恵が保証されている。彼らは神と一つである。ところがユダヤ人は神から離れていた。罪のために、彼らは神の刑罰の下に苦しんでいた。彼らが異教国家の支配下にある原因はここにあった。彼らの心は罪とがのために暗くなっていたが、昔神が非常に大きな恩恵をお与えになったので、彼らは自分たちの罪を大目にみていた。彼らは自分たちが他国民よりもすぐれていて、神の祝福を受ける資格があるとうぬぼれていた。 

こうしたことは、「世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである」(Ⅰコリント10:11)。われわれは、どんなにかたびたび神の祝福を誤解し、自分たちのうちに何か良いところがあるから恵まれるのだとうぬぼれることだろう。神はわれわれのためにしたいとお思いになることをなさることができない。神の賜物は、われわれの自己満足を増長させ、われわれの心を不信と罪の中にかたくなにするために用いられる。 各時代の希望 第10章 荒野の声


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