「恐るべき瞬間がきていた。それは世の運命を決定する瞬間であった。人類の運命ははかりでゆれていた。キリストは、不義な人類に課せられた杯から飲むことをいまでも拒否することがおできになった。まだ遅くなかった。主はひたいの血の汗をふいて、人類を罪とがのうちに滅びるままにしておくこともおできになった。罪人にその罪の値を受けさせて、わたしは父のみもとにもどろうと言うこともおできになった。神のみ子は、屈辱と苦悩のにがい杯を飲まれるだろうか。罪なきお方が不義な者を救うために罪の行為の結果を受けられるだろうか。イエスの青ざめたくちびるから、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」とのことばがふるえながらもれる(マタイ26:42)。
3度、イエスはその祈りを口にされた。3度、人性は最後にして最高の犠牲の前にひるんだ。しかしいま人類の歴史が世のあがない主の前に現れる。律法を犯した者たちは、放っておけば滅びなければならないことを、主はお知りになる。主は人類の無力をさとられる。主は罪の力をお知りになる。滅びる運命にある世のわざわいと嘆きが主の前に現れる。主は、世のさし迫った運命を見て決心される。ご自分がどんなに犠牲を払ってでも、主は人類を救おうとされる。滅びつつある幾百万の人がイエスを通して永遠の生命を受けられるように、イエスは血のバプテスマを受け入れられる。主が純潔と幸福と栄光に満ちた天の宮廷を去られたのは、失われた1匹の羊、罪とがによって堕落した1つの世界を救うためであった。だから主は、ご自分の使命から離れようとなさらない。イエスは、罪を犯した人類のためにあがないの供え物となられるのである。いまイエスの祈りには、「この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」と、服従することだけが表明される(マタイ26:42)。」各時代の希望 第74章 ゲッセマネ
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