2022年4月26日火曜日

こうして、善と悪の種まきは、現世ならびに永遠 にわたって続くのである。

 自然界の神の法則によれば、原因があれば、必ず結果が生じるということである。収穫によって、何がまかれたかがわかる。なまけ者は自分のした仕事にせめられる。収穫が、彼のなまけたことの証拠となる。霊的なことでも同じである。その働きの結果をみて、すべての働き人の忠実さがはかられる。どんな仕事をしたか、勤勉であったかなまけたかは、収穫を見ればわかる。永遠の運命も同じようにして、決定されるのである。

 

どの種でも、まいた種の実を刈り取る。人生においても同じである。わたしたちは、すべて、憐れみ、同情、愛などの種をまかなければならない。なぜなら、まいたものの実を刈り取るからである。また、利己主義、利己心、自尊などの性質やわがままな行動には、すべて、それ相当の収穫がある。利己的な生活をして、肉の種をまく者は、その結果として滅びを刈り取るのである。

 

神は、人を滅ぼすようなかたではない。滅びにおちいる者は、自分で自分を滅ぼすのである。良心の警告をかえりみない者は、不信の種をまいて、必ず、その収穫を刈り取るのである。むかし、パロは、神の最初の警告をしりぞけて、強情の種をまいたために、強情の収穫を刈り取った。これは、何も神が彼を無理に信じられない者になさったのではなかった。パロのまいた不信の種がそれ相当の実を結んだのである。こうして、彼の抵抗は続き、ついに、エジプトの国は全く荒れ果て、パロの長子と、エジプト全国民の長子がことごとく冷たいしかばねとなり、パロの全軍が馬と戦車もろともに、海底に沈んでしまうことになったのである。「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」というみ言葉がいかに真実であるかを、パロの生涯は、恐ろしいばかりに示したのである(ガラテヤ67)。人々が、このことを自覚しさえすれば、どんなに種をまくことに注意することであろう。

 

まかれた種が収穫をもたらし、それがまたまかれて、収穫はさらに増し加わっていく。わたしたちと他人との関係においても、この法則があてはまる。どの行為、どの言葉も実を結ぶ種である。情け深い心からの親切、服従、自己犠牲などの行為は、他の人々の心の中に再び生え出て、それが彼らによって、また、他の人々の心の中にまかれるのである。同様に、ねたみ、悪意、争いなどは、「苦い根」となって生え、多くの人を汚すのである(ヘブル1215)。そして、この「多くの人」は、どれだけ多数の人々を毒することであろう。こうして、善と悪の種まきは、現世ならびに永遠 にわたって続くのである。 キリストの実物教訓 第7章 自然界に働く神の力

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