また、エリシャは、まだききんが地にあった時に、「バアル・シャリシャ」の人から贈られた「初穂のパンと、大麦のパン20個と、新穀1袋」とによって、100人に食を与えた。ぜひ食事をしなければならない人々が彼と共にいたのである。献げ物が来たとき、彼はしもべに、「『人々に与えて食べさせなさい』と言ったが、その召使は言った、『どうしてこれを100人の前に供えるのですか』。しかし彼は言った、『人々 に与えて食べさせなさい。主はこう言われる、「彼らは食べてなお余すであろう」』。そこで彼はそれを彼らの前に供えたので、彼らは食べてなお余した。主の言葉のとおりであった」(同4:42~44)。
キリストが彼の使者によって、飢えを満たすためにこの奇跡を行われるとは、何というキリストの慈悲深さであろう。主イエスは必ずしもこれほど著しく、また、感知できるものではなくても、その時以来、何度となく、人間の必要を満たすために働かれたのである。もし、われわれがもっと明確な霊的洞察力をもっていたならば、人の子らに対する神のあわれみ深い取り扱いを、もっとたやすく認めることができるであろう。
少量のものの上に注がれる神の恵みが、それを満ち足りたものにする。神のみ手はそれを100倍に増すことができる。神はその資源の中から、荒野において食事の用意をすることがおできである。神はみ手を触れて、わずかの食物を増加させて、すべての者を満ち足らせられるのである。預言者のともがらの手の中でパンと穀物とを増し加えたのは、神の力であった。
キリストの地上の伝道生活中、彼が、同様の奇跡によって群衆を養われた時に、昔の預言者と一緒にいた人々があらわしたのと同じ不信があらわされた。「どうしてこれを100人の前に供えるのですか」とエリシャのしもべは言った。そして、イエスが弟子たちに、群衆に食べさせるようにお命じになったときに、彼らは、「わたしたちにはパン5つと魚2ひきしかありません、この大ぜいの人のために食物を買いに行くかしなければ」と言った(ルカ9:13)。こんなに多くの人々のなかで、これが何になろうか。
これは各時代の神の民のための教訓である。主がなすべき働きをお与えになるときに、その命令が道理にかなったものであるか、または、従おうと努力すれば、どんな結果が生じるかなどを、人間は問うてはならない。手もとにあるものは、満たすべき必要のためには、十分でないかもしれない。
しかし、主の手の中にあればあり余ったものとなるのである。しもべは「それを彼らの前に供えたので、彼らは食べてなお余した。主の言葉のとおりであった」(列王紀下4:44)。
神がみ子という賜物によって買い取られた人々に対する神の関係をもっと深く悟り、この地上における神の働きの前進に対して、もっと大きな信仰を持つことが、今日、教会の大きな必要である。誰1人として目に見える資源の乏しさを嘆いて、時間を浪費してはならない。外見は有望ではないかもしれないが、活動と神に対する信頼は、資源をつくり出すのである。神は感謝と祝福を祈り求めつつ神に献げるものを預言者のともがらや疲れた群衆に与えられた食物を増し加えられたように増し加えてくださるのである。
国と指導者 第19章 平和をつくり出す人
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