「イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試紳を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである」(へフル2 17) 彼はひどい誘惑に会うことがどんなことかを知っておられ、また、それにどのように勝利するかを知っておられます。確かに彼は「罪を知らなかった」けれとも、わたしたちのために罪とされました。それはわたしたちが彼にあって神の義とされるためでした(第2コリント5 : 2)。彼は、わたしたちすべての者の罪を負われ、神のみ前に、それらをご自分のものであると告白されました。さらに、かれはわたしたちの所まで来られました。罪のためにわたしたちをとがめるのではなく、その心をわたしたちのためにお開きになり、ご自分が同じような弱さをもってどれほど苦しまれたかを語られます。またあらゆる困難、苦痛、悲しみ、辱めをご存じであると語られます。こうして彼はわたしたちをご自分の方に引き奇せられ、わたしたちの信頼を勝ち取られるのです。彼かわたしたちと同じ経験をされたこと、底の底まで下られたことを加って、わたしたちは、彼が逃れの道について話される時に彼の言われることを聞く用意ができます。わたしたちには彼がご自分の経験から話しておられることがわかります。
それだから、罪人を救う働きにおいて最も重要な部分は、自分自身彼らと一つだということを示すことです。つまり、他人を救うということは、わたしたち自身のあやまちを告白することにあるということです。自分には罪かないと感じている人は、罪深い者を回復する人ではありません。何かあやまちに陥った人のところに行って、「この世の中であなたはそんなことがよくもできたものだ。わたしは生涯あんなことはしたことがない。自尊心のある人がどうしてそんなことができたのかわからない」などと言う人は、家にいたほうが断然良いのです。神はパリサイ人をたった一人だけ使徒としてお選びになりました。しかし彼は、自分か罪人のであると認めるまではつかわされることはありませんでした(第一テモテ15:9)。罪を告白することは、自尊心を傷つげます。それは確実ですが。しかし、救いの道は十字架の道です。キリストが罪人の救い主となることかできたのは、ただ十字架によったのです。だからもしわたしたちが彼の喜びを分ちあいたいなら、恥にもかかわらす、彼と共に十字架を忍ばなければなりません。この事実を覚えてはしい、わたしたちが人を救うことができるのは、ただわたしたち自身の罪を告白することによるだけてす。そのようにしてのみ、わたしたちは彼らに救いの道を示すことができます。というのは、罪からの清めを受けるのは、その罪をの告白する者であり、だからこそ人をその泉に導くことができるからです。

0 件のコメント:
コメントを投稿